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諦観

「誰とでも仲良くできるね」

嬉しい気持ちと同時に、たかが部外者だからね、という心の中で諦めを含んだ、自嘲する声がありました。

集団の中にいる中で、人から嫌われないことはそう難しいことではありません。しっかり挨拶をして、やるべきことをやって、人の悪口を言わなければそうそう嫌われることはないと思います。まぁ、中には何もしていないのになぜか嫌われることもありますが。その類の嫌われは「大人」の集団であれば全体でどうにかなることでもありません。
だけど、嫌われないことと好かれることは、同じではない。

嫌われないためには、要するに人が嫌がることをしなければいい。だけど、好かれるには人が喜ぶことをすればいいという簡単な話ではないと思うのです。
素敵な笑顔で好かれることもあれば、行動で好かれることもある。容姿や能力、心遣い、興味がそそられる考え方…好かれる要素は人それぞれ違って、全員に好かれるというのは少なくとも個人の力だけでは不可能です。
それなのに、わたしは他者から見ると「誰とでも仲良くなれる人」と思われています。

すごくすごく悲しいけれど、それはやっぱり、わたしがその集団にとって部外者に近い人だからです。
学生生活は残り3ヶ月。そこを過ぎたら、何があってもわたしはその集団を去ります。
この先ずーっと居続けるなら、お互いもう少し立場を気にしたりしながら、ゆっくりと、けれど強いつながりを築いていくのでしょう。その過程の中で、好かれる人と相容れない人の区別が起こったり、何かがきっかけで嫌われることもあるかもしれません。
わたしには、強いつながりを築いたりわざわざぶつかって嫌う必要性がない立場にいるのです。だから、「それなりに」みんなと仲良く話せる。それは、引っかかるところがあったとしてもぶつかるより時間が過ぎればわたしは必ずいなくなるのに、ぶつかるメリットがその人にないからです。
この立場は、確かに気楽だし、自分を全開に見せて好いてくれる人を比較的早く見出せるという良い点もあります。わたしの立場では、このポジションがベストなのだという自負も、もちろんあるんです。もともと、「誰とでも仲良く話せる人」というイメージを持たれていることは知っているし、そのことを承知した上の言動をすることだってありますから。

こんな風に、わたしは自分のイメージを利用もして、他人から見てもわたし自身から見ても快適な人間関係にいるのに、いざ、人に言われると悲しむわたしがいます。
羨ましい、なんて言える立場じゃないのにね。

傲慢って、こういうこと。

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