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感染症報道に考える 受け取る側のありかた

関西テレビの報道。

亜急性全脳炎。
子ども達が赤ん坊だった頃、満1歳の誕生日を迎えるまで、これをとても恐れていた。
1歳未満ではしかになった場合、母体からの免疫があるからか、はしか自体の経過は軽く済むことが多い。しかし、その場合はしかのウイルスが脳に潜んでいて、10年くらいの潜伏期間を経て、亜急性全脳炎を発症することがあるらしい。

当時、はしかの予防接種を公費負担で受けられるのは満1歳からだった。公費負担の場合はもしもの場合の副反応に対する救済制度が適用される。はしかワクチンの安全性は高く、生ワクチンで予防効果も高いと読んだ。ただ、満1歳ではまだしっかりした免疫ができないので、1歳2〜3ヶ月になってから受けるほうが確実と育児書に書いてあった。
1歳2〜3ヶ月になったらはしか単独ワクチンを受けさせることは決めた。当時は、はしか単独ワクチンかMMRワクチンの選択制だった。MMRワクチンの後に無菌性髄膜炎を発症する副反応が問題になっている頃だったが、周囲にはMMRワクチンを選ぶ人も多かった。自然感染でも、無菌性髄膜炎の後遺症は起こりうるという。ただし、自然感染の場合は4歳くらいからが多いのに対し、MMRワクチン接種は1歳台が多い。赤ん坊の病気で私が困ると感じていたのは、本人が自分の苦痛を言葉で全く説明できないことだった。「痛い」とか、「寒い」とか、「こわい」とか、不完全でもいいから言葉で表現してほしかった。観察と推測だけで、仮に不適切な看病をしたら…。1歳台は稚すぎて抗議も抵抗もできない。体力的にも1歳台はまだまだ弱い。
予防接種については、たくさんの育児書を読み比べた。あまりにいろいろ読みあさったので、なにから得た情報か今ははっきり覚えていないものも多い。

亜急性全脳炎については、松田道雄氏の著者で知ったと思う。
子ども達が1歳になるまでは、もしもはしかにかかったら人生終わりだと思っていた。頻度は少ないらしいが、その状態になってしまえば当事者にとっては100%だ。

その時期だったかそれとも子どもが大きくなってからだったか忘れたが、私が亜急性全脳炎を知った育児書とは別の松田道雄氏の著書(エッセイ風のもの)で、亜急性全脳炎について書いてあるのを見つけた。松田氏がある母親と話をし、その母親ははしかの後の亜急性全脳炎を松田氏の育児書で読んで非常に恐れていると語ったと書かれていた。松田氏は、亜急性全脳炎は10万人にひとりの確率であると書き(だからいいと書いていたわけではない)、自身の育児書の記述がそれほどまでにひとりの母親を恐怖に陥れたことへの気持ちを綴っていた、と思う(本の名前も覚えていない。記憶違いがありそうではっきり書けない)。

とにかく、どれほど確率が低かろうとその状態になってしまえば当事者にとっては100%だ。そして、甘く見て状態を見逃さない為に知識としては知っておきたい。
はしかにならずにそれぞれ1歳を迎えたときは、ひと区切りついてほっとした。

私自身は、3〜4歳くらいだったと思うが(昭和)、はしかの予防接種を受けたことをきっかけにはしかを発症した。はしか、おたふく風邪、風疹を経験している。幼児期にはしかにかかったらそのときには看病するしかないと覚悟していた。
ただ、満1歳になる前のはしかはそれとは全く異なる恐怖だった。
近所に、0歳8ヶ月のときにはしかにかかったというお子さんがいた。罹患の原因は、はしかの予防接種だそうだ。平成になってからの生まれの子でも、そういうことはあったらしい。
幸いその子は、無事に大人になっている。


上に引用した報道の当事者の方の苦しみはいかばかりかと思う。
誰でもその立場になりえたことだ。保育園に預けていなくたって、遊びに行った先で感染することはある。家族が外から家庭に持ち込んでしまうこともある。
たまたま感染症に罹患しやすいとおぼしき状態(行事があって昼寝の時間がうまくとれなかったとか離乳食の進行中におなかをこわしたとか)になっているときに混雑の中に連れて出かけざるを得ないことだってある。
それでも、もしあのとき私が…と、母親は繰り返しかえりみて自分を責める。
大切な大切な我が子。
この報道については、取材された側が例えば直接うつしたであろう子や保育園を責めているようなことは全くないし、報道する側も必要な情報や知識を伝える役割をもって果たしていると感じる。あまり知られていない亜急性全脳炎というものについて。愛情と、悲しみと苦しみがそこにあるばかり。

しかし、一般に他人が報道を組み立てるとき、報道を受け取る側として、そこにはどんな意図があるのかは考えたい。
報道関係者は、なんらかの意図(多分複数の)をもって報道を組み立てるはずだ。
なにかを知らせたい、なにかを伝えたいという意図が。
取材の対象であるひとりひとりの人生のため『だけ』ではなく(『取材対象者の人生のためという意図』がないというつもりはない)、おおぜいの受け手たちに伝えようとするなんらかのいくつかの意図は多分必ずそこにあって。
そして、取材対象者やおおぜいの受け手達双方の人生のために有益なはずの情報があったとしても、報道するわけにはいかない場合も多分主題によってはあって。

私の手元に、一冊の本がある。『ちいさい おおきい よわい つよい 111号 』。特集〙:インフルエンザから子宮頚がんまで ワクチン被害家族の声を聞いたことがありますか? という本。
在庫の保管にも経費がかさむので、裁断処理するよりは、やむなく…とのことで定価の半額以下で購入することができた本。
この本の取材に協力した方々(お名前は接種した方のご家族のもの)の、例えば吉原賢二さん(1962年接種・インフルエンザワクチン)、藤井俊介さん(1962年接種・二種混合ワクチン)、杉原昌美さん(2004年接種・日本脳炎ワクチン)、吉村なつさん(2007年接種・MRワクチン)、堀由希子さん(2010年接種・インフルエンザワクチン)…に対する取材を、見かけることはどれほどあるか。
まずないのではないだろうか。

少し前のニュースウォッチ9での、『繋ぐ会』のご遺族への取材を感染症死亡者としてミスリードしたような報道を知るにつけ、素直すぎることは危険だと感じる。

そこにはどんな意図が込められているのか。込められた意図は、いくつあるのかと、考えてうけとることが必要とされる。

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