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歴史は繰り返す。人間が変わらないならば。

『ヒトラーに抵抗した人々 反ナチ市民の勇気とは何か』(中公新書)を9割方読み進んでいる。

戦争終結後において何故このような記述が出てくる?「ドイツはナチス時代の過ちを深く悔いているからその点が曖昧な日本とは違う」という論調で語られることが多いのに、話が違う…?と、相変わらず読むのが辛くなる。

反ナチを貫いて刑死した父を持つ子が電車通学中、運転士に「お父さんは戦争で亡くなったのか?」と聞かれ、ヒトラーに反対して刑死したと答えたとき。「薄汚い裏切り者!」とののしられたという。

1951年の世論調査で、「今世紀ドイツで一番良かった時代はいつか」との質問に、44%が第三帝国時代(ナチス時代)と答え、43%は帝政ドイツ(第一次世界大戦終結までの)と答え、ワイマール共和国と答えたのは7%だったとか。同じ調査では、反ナチ市民の抵抗がなければドイツは戦争に勝ったはずだと多数の人間が答えたこととか。反ナチを「裏切り」と考えるらしい。

抵抗者たちのことは、戦勝国側も積極的に隠蔽したという。悪のドイツを打ち負かしたのは連合国の力のみだから。悪そのもののドイツの内部に悪への抵抗運動があったことなど知られないように。

抵抗者の遺族たちの苦労は、戦争が終わっても報われなかった。何年も。身を寄せた地が戦後解放されてポーランド領に戻り、或いはソ連に占領され、そうすれば敵国ドイツの人間。逮捕や収容。ドイツ国内では、「裏切り者」扱い。

ナチスは、国民の歓心を買うために国民生活の向上に注力したので、自分と自分が親しい者の生活だけで考える人にとっては「あの頃は良かった」となるらしい。ユダヤ人、ポーランド人、ロマ人(ジプシー)がどうなろうと、絶滅収容所で何が起ころうと。自分達の生活の安定と収容所に送られた人の財産が接収されたこととが関係していようと。

西ドイツのの初代、アデナウアー政権は、ナチス時代の高官が多数残ったままだったとか。

悪いことをしたのはヒトラーが極悪人だったから。諸悪の根源はヒトラーで、そのヒトラーはもういない。ナチス政権の維持や暴走に自分たち国民ひとりひとりの支持が寄与していたこと・国民ひとりひとりがナチスに加担していたことは、「あれは仕方がなかった」となるものらしい。どうやら普遍的に人間は、あまり深く長期にわたり自己の生き方の過ちを検証し続けることには耐えられないらしい。無意識に合理化が行われる。何せ加担していたのは大勢だから、仲間はたくさんいる。ひとりひとりは善良な、良き家庭人・良き隣人(仲間にとってだけは)。まずは『自分の頭の上の蠅を追え』と考える。日々を食べていくこと、食べさせること。『衣食足りて礼節を知る』。足りなければ、礼節どころじゃない。できないことまで考えていたら身がもたない。日本でも配給の食料しか食べずに餓死した判事がいて、正しいが融通が利かぬ愚か者として困惑を誘ったらしい。昭和の終わり頃までは、正しいだけでは生きていけないこと・生きるのは自己責任であることを説明する際によく引き合いに出されていた記憶がある。

多数派が無意識に心をひとつに合わせて協力するから、合理化はたやすい。かくして、環境・状況が変わるだけで人間は変わらない。環境・状況が変わって直面せずに済むことになった問題は、「あの頃の人はともかく、今の自分たちは違う」で済まされる。ひとたび試練にさらされれば、歴史はたやすく繰り返される。

今も、大勢が同じ方向に動いていてもそれは『利他の心』のなせるわざなどではないことは明らかだ。大勢と同じ方向に流されない人が利己的なのではない。しかし環境・状況が変わっても多数派は言うだろう、「あれは仕方がなかった」と。そして、「少数派が利己心に駆られて、自分たちと同じ方向に動かなかったせいだ」と言うだろう。

こうなると、もう、個人の美意識(住まいの掃除のことではなく)を基準にするしかないような気がしてくる。


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