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言霊の幸はふ国 行き過ぎは呪いにも似て

『言霊の幸はふ国』と謳われたこの国。

https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=3254



しかし、言霊を重要視するあまりに言葉にとらわれ過ぎ、もはや一種の病気ではないかと思うに至るレベルに感じられる。

言霊を大切にすることは良い。
わざわざ不吉な言い回しを使うことはないし、忌み言葉は避けるに越したことはない。
否定的な言いようではなく、肯定的な面に光を当てた言いようを用いることが、成功への可能性を広げる力にもなり得よう。

だが今の社会の様子は、言霊にとらわれ過ぎて強迫観念レベルになっているように私には感じられてしまう。

80年ばかり前にもあった。
事象の否定的な面ばかりを見ず、上に向かっては要求をせず(自分より弱い立場の者への要求はとどまるところを知らないのがわかりやす過ぎる)、つつましい努力や節約や、たゆみない献身を続ける。
不吉な物言いを徹底的に避けた帰結として公式報道が虚偽のレベルにまで堕ちる。
千人の人が縫い目結び目を作った布で命が救われると信じる。
祈りの力を信じて心を澄ませて行いを正すことと、望む結果がもたらされることとの間に正の相関関係があると考えるのは良いが、望む結果がもたらされなかったことの原因から物理的な要素の介在を廃し理性を廃して祈りや清らかさに欠けていたことのみに因ると決めつけることにも通じかねない。

狂信のレベルまで突き詰めるとき、
言霊の幸わう国 は、
寿ぎではなく呪いになってしまう。


そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊能(ことだまノ) 佐吉播布国(サキハフくに)と 語り継ぎ 言ひ継がひけり

磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ

万葉集に謳われた、
言霊の幸はふ国
言霊の助くる国
とは、なんであるか。


言霊を 使いこなすのか
言霊に 依存するのか

言葉は生きており言霊には強い力を感じるからこそ、単に言霊を畏れるがあまり言霊に依存するようであっては、言霊の幸はふ国であるに値するのかどうかと考えてしまう。
言霊を畏れ、だからこそ、そしてどのように生きるのか。

言霊に対して硬直し、縛られ、萎縮して、もの言へば 唇寒し…とばかりに、へつらってしまうときには、言霊からくる『幸』はどうなるのだろうか。




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