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講義ノートより、感想

1月28日の、國部克彦博士のオンライン講演。
有意義だった。
ともすれば目先のあれやこれやに気を取られて右往左往し、注意力散漫に陥って疲れてしまっていた日常だったけれども、知的な刺激を受けると共に気持ちが解きほぐされていったような気がしている。

講師の先生のあたたかな笑顔と、明快かつ穏やかな語り口に惹き込まれて聴き入るうちに、前かがみに肩の力が入って硬直していた自分の姿勢・近視眼的になっていた自分の視点に気付かされたというのか…。

何が、私たちを苦しめているのか。
それは、対策そのものではない。対策そのものよりも、
・オープンに議論できないこと
・疑問を呈することができない(禁じられているという意味で)
ではないのか。

しかし、今突然にそういう社会に変貌したのではない。我々がいたのはもともと、そういう社会だったのだ。それを思い知らされる状況にいなかっただけだ。今まざまざと見えているものは、3年前にいきなり出現したわけではない。前からそこにあったのだ。

K野T郎氏とか、M坂M之氏、BG氏…。彼らの言動のひとつひとつに神経を逆撫でされるような思いで、生存権を脅かされる危険を感じてピリピリしていた(今もしているが…)けれども、対する相手は個人ではなく、『システム』だと解き明かされる。

アーレントの言う『凡庸な悪』。それは、私たち皆誰にもある要素であると気付かされる。自分自身の中にある『凡庸な悪』を見つめ、弱さを見つめ、それと向き合って考えることから始まる…。


講師の言葉によって、閉じていた窓が次々に開かれる。これまでは見えなかったことが、見えてくる。
今、自分自身にできることは何なのか、ということが。

できるのは、
『生きること』だ。
真剣に生きる。
自分で考えて、自分で判断することだ。
他者に、『誰か偉い人』に、判断を委譲しないことだ。軽々しく他者に自分の人生を委ねないことだ。
立ち止まって考えていい。問いかけていいのだ。
おかしいな?と思ったら、物わかりのいいふりをしなくていい。というか、物わかりのいいふりはしてはいけない。流されずに。個々人には、それぞれに責任があるのだ。
軽々しく唱えられる『思いやり』や『利他』に、納得がいかなければその気持ちにフタをしない。自分というものは、『いちばん身近な他者』だ。自分をないがしろにすることは、他者をないがしろにすることとイコールだ。自分だからないがしろにしていいことにするのは、他者をないがしろにすることだ。自分を大切にしないで、他者を大切にしていると宣言するのは不誠実な行為だ。
つまるところ、今自分自身にできること・すべきこととは、真剣に、誠実に生きること、なのだ。


2023年1月28日講義ノートより。

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