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『慈泉寺の妙晶と申します』


はじめまして。

「想像よりチャラい」でお馴染み、妙晶です。


お坊さんです。


思うところあってnoteではずっと名乗らなかったんですが、「なんかもう、いいかな」って思ったので晒します。


妙晶です。「みょうしょう」と読みます。

拙寺では開基以来約500年、男は『正』、女は『妙』の字を法名として代々受け継いで参りました。


名前というのは不思議なもので、用いることによってそう成ってゆくというか、他者間での存在を明確にしてくれるもののように思います。


私は以前、筆箱として猫さんのぬいぐるみを用いていました。

背中にファスナーがついていて、胴体が収納になっているモノです。

ペン先などで猫さんの体内を汚すのが忍びなくてもうやめたんですが、その頃によく言われた言葉があります。


「その子の名前はなに?」


名前なんか無いぽん。(´・ω・`)


そもそも自他が一対一なら名前なんて必要ないと思ってて、だって『私』と『あなた』をそれぞれが認識出来ていれば関係は成り立つでしょう。

その上で、ぬいぐるみと私の関係は一対一だと思ってて、まぁぬいぐるみ自体はいくつか居るんですがぬいぐるみ同士が交流を持つことは無いと思うので、実質一対一ですよね。

そこで何が言いたいかっていうと、ぬいぐるみというものに対しては、私が相手を認識して居れば良いだけだから、名前という個体識別番号は必要ないよねって話です。

もしも私がぬいぐるみを誰かと共有したり、ぬいぐるみ達が付喪神よろしく意思を以て私と関係して来たならば話は変わるのですが、そうでもない限りは必要ないんです。

なぜならば、それは私だけの問題だから。

一人ならば、名前は必要無い。


だからね、逆にです。

名前って、社会の象徴だとも思うんです。


決意の表れというか、男の子が初節句で貰う鎧兜のような、そんな暖かくも力強い意志を感じる人生初の頂きもの。

人間がこの社会で生きていくには必要不可欠で、他者より与えられることでしか得られないもの。


それが名前です。


自分では得られないんです。

他者と関わって、その眼が私に向いて初めて得られるのが『名前』です。


自分で「私は○○です」って言ってるだけじゃダメなんです。

自分は「○○」って名乗っても相手が「××」って呼んだら、私はもう「××」なんですよ。

冒頭にも書いたように、名前というのは用いることで「そう成って」ゆきます。

用いるというのは、自分で振りかざすだけでなく、それを受け取る相手が居て、その相手が受け取ったことをまた自分が受け取って、初めて成り立つ行為です。


つまり、社会における私の存在とは自己と他者が交わることで作られ、名前はそれを繋ぐパイプのようなものなんですね。


このことを表した言葉が仏教にはありまして、それは『名号(みょうごう)』と言います。


名乗った名→名

呼んだ名→号


合わせて『名号』


主に仏様の名前である『南無阿弥陀仏』を指して言います。

これは「君たちを必ず救う私という存在をみんな知って!!!」という仏様の願いに対して、私達がお念仏(南無阿弥陀仏を称える=名前を呼ぶ)することで成就するという教えに基づきます。

浄土真宗のご本尊でもある阿弥陀さまは、この名号、もとい名前が届かない場所・人(生物)がほんの僅かでも在ったならば『私は仏に成らない(成れない)』と誓われました。

それは存在を諦めるということでもあり、その存在=名前という重要性も教えてくださっています。

ですので、このお名号はとても大切に扱われます。


人間社会における個々人の名前というのも存在を示すという意味では同じだと思っていて、いまいちピンとこない方はDave Pelzerの『"It"(それ)と呼ばれた子』とか読んでみると良いでしょう。


人間同士で名前を蔑ろにするってね、その存在を見下してでもいない限りは有り得ないんですよ。


えぇ、はい。


間違えても謝らなかったり、そもそも覚える気が無かったり、、、

大切な人にそんなことをしますか?って話ですよ。


生まれた時から持っていて、現代ではその重要性を教わる機会もないもんだから、表面的な、それこそ個体識別番号としてしか機能しなくなった。

させなくなったんです。私たちが、この手でそう扱ってきたから。


哀しいねぇ。


だけど、用いることでそう成っていくのは『名前』というその存在自体も同じこと。

私たちが大切に扱っていけば、そう成ります。

 

だからね、大切にしていきましょう。


その人を指す記号としてではなく、存在を示す、その人そのものとして。

私が呼びかけるその一つ一つが相手を形作ってゆくのだと想って、誰かの名前を呼びましょう。


そう思うと、他者に対する接し方そのものも変わってくるのではないでしょうか。


そしてこれは、目に見えるものではありません。

放っておくと忘れてしまいます。


なので、意識して気を付けましょう。

思い出す習慣を付けましょう。


手を合わせて「南無阿弥陀仏」の『お念仏』

「この名前が届かなければ私は存在を諦める」とそこまで言ってくれた、名前の重要性を教え、それによって今日まで存在を繋いできた阿弥陀さま。

そのお名前を通して、私達の社会での在り方を思い出させていただきましょう。


だからね、『お念仏が大切なんですよ』って、浄土真宗は説くんですよ。


お名前、大切にしましょうね。




私は『慈泉寺の妙晶と申します』





『君の名は』







ありがとう、だいすき。