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ahaṅkāraḥ 結

こんばんは。

前回の更新から早一週間、週1note最終回です。

早かった、長かった、密でした。

来週からは無いんだと思うと淋しくなっちゃいますね。

メンバーの皆さんが次々とラスト投稿をしていく様を眺め、つい感慨に浸っちゃいました。

優しい言葉を吐く方々だなぁと、自分が恥ずかしくなります。

優しい人になりたいですね。

週1note 最終回

前回と同じ題名です。

ahaṅkāraḥ(アハンカーラ)

aham(アハム)という「私」を表す言葉に、「~を作る道具」という意味のkāraを合わせたサンスクリット語です

直訳すると「(身体の)内側の道具」という意味です。

ですが、kāraには「その道具によって行きついた結果・結論」という意味もあります。

ですので、ahaṅkāraḥを意訳するならば「これが私(という考え・結論)」となります。

この言葉はインド六派哲学の一つサーンキヤ学派の術語でもあります。

だから、上記以外にも色々と説明をすることはあるんですが、私は人に説明できるほどインド哲学に明るくないし大して面白くもないので割愛します。

「じゃあ、なんの話をするんだよ」って言うと、「これが私(という考え・結論)」のお話です。

私はこれまでの投稿で人間の思考について語ってきました。

『adṛṣṭa phalam』では、主に他者と生きる上での思考について。

前回の『ahaṅkāraḥ』では自己について。

こんなことを言っちゃなんだけど、前回は本当に内容が定まってなくて書き殴りだったんですよね。

題名だって適当に付けたし、ほんとゴメンナサイって感じです。

だけど酩酊状態の書き殴りで書いただけあって、深層心理的にはずっと傍らに在ったことみたい。

考えようと思えば考えられる内容でした。

なので、考えてみました。

丁度ここ数日眠れなかったので、その間に。

そもそも「私」とは。

今回は私(me)という人間を基軸に展開させて頂きますね。

(ロクな自己紹介をしていないということに今になって気付いた訳じゃないよ)

そもそも私は、何も無い人間です。

全てにおいて受動的です、反応の薄さにも定評があります。

空っぽです。

生きることにも興味はありません、かと言って自殺をするほどのこだわりもありません。

他人に対しても「みんな大好き、だから全員どうでもいい」を地でいってます。

まさに「悟り世代ここに極まれり」って感じですね。

たまにそんな自分の空虚さに焦燥感を抱いて熱心ぽく振舞ってみたりもします、振舞うだけですけど。

なにもありません。

だけど、それが「私」です。

ショーペンハウアーさんは『読書について』という本の中でこう語っています。

『真実と生命は、もともと自分の根っこにある思想にだけ宿る』

私は、知識を省いた会話が好きです。

情報に情報で返すのではなく、思考に思考で返す会話です。

なんなら、言葉を使わなくても良いです。

共に時間を過ごすだけっていうのも、なかなか面白い。

それにさ、言葉って万能じゃないでしょう。

便利だけど、所詮は道具だと思うんです。

なのに、現代では『言葉=情報の全て』みたいになっちゃってるの。気持ち悪い。

よくて3割だと思いますよ、言葉で相手へ伝わってるものなんて。

それは何故かって言うと、言葉は画一化されたツールだからです。

国語辞典とか、広辞苑とか、あるでしょう。

あれだけですよ。たかが数千頁、そんなもんで伝わるかい。

なのにね、画一化して最低限を定めたから、それ以上を理解しようとしなくなっちゃった。

人の話を聞いても、その言葉面しか見なくなった。

更には人間の心の乗った言葉を辞書に当てはめて「その使い方は違う」とか、どうでも良いのにね。

言葉なんて所詮は目安でしか無くて、伝われば良いんですよ。

赤を赤と呼ばなくちゃいけない理由なんてどこにもない、伝われば良い。

その為に言葉は生まれた。

なのにね、言葉の所為で伝わらなくなったね。

道具に使われる人間だ。

オーバーテクノロジーってやつですよ、手に負えなくなっちゃった。

マーク・トェインさんの有名な言葉があります。

『問題なのは無知ではなく、知っているという思い込みである』

現代人の会話ってね、これだと思う。

言葉を交わして生まれるもの、「知っているという思い込み」。

理解じゃないね、ただの思い込み。又は自分のための免罪符。

言葉を含む「知識・情報」というものは総じてこのような危険を孕んでいます。

己の中に情報が増えれば増えるほど、「自分の無知」が見えなくなる。

『何を知らないのかを知らなくなる』

これね、とっても危険だよ。

人間社会で得られる情報なんてね、所詮は他人事なのさ。

他人が使った後の使い古しの出涸らしで、何かの道具として使う分には問題無いけど、それを自分の中心に据えてはいけない。

それが自己だと勘違いしちゃあいけない。

見えなくて、わからなくても、自己は私の中にしかないんです。

向き合うことから逃げちゃいけない。

だけど、逃げちゃう。

だって、情報を振りかざすのって気持ち良いから。

拾った知識を並べて誰かを蹂躙するのって、自分が賢くなった気がして気持ち良いでしょ。

それに、楽だよね。

部屋の中で地図を開けば世界を知った気になれるの、便利でしょ。

特に、人間の社会は甘いからそのままでも生きて行けちゃう。

自分が無知なことにさえ気付かなければ最高にハッピーな人生だと思うよ。

でも、そうは生きられない人も居るよね。

自己があることに気付いてる人見えてないけどその存在には確かに気付いている人

しんどいよねぇ、苦しいよねぇ。

捉えようともがけばもがくほどわからなくなる。

自己を捉えず情報に頼って只々生きている人たちが別の生き物みたいに見えてくるよねぇ。

それか、自分がおかしく思えてくるのかな。

どちらにせよ、この世界は生き辛いよねぇ。

わかるよ。

でも、それをどうにかすることは私には出来ない。

じゃあどうすればと言うと、放っておくしかないんだと思う。

他にもあるのかもしれないけど、今の私にはこれしかない。

放っておく。

在ることだけを忘れずに、生きるの。

親鸞さんの言う「仏」って、そういうことなんじゃないかなと思うんです。

自己を確立させようと思うと、自分の中に客観を作り出すしかないでしょ。

主観はそれを主観と捉えた時点でもう客観だからね。

自分の中の未知の部分、深層心理のような本当の意味での自己を仏という存在に言い換えているだけなんじゃないかな。

そうした未知の部分、客観が己のうちに存在するとすれば、自己についてもただのブラックボックスだった頃より向き合いやすくなる。

未知が未知であるとわかれば楽でしょ?

私の根幹、芯となる部分が別に在ることを知れば表面的な部分は加工しやすくなるしね。

悪い部分を捉えて直す的な意味ね。

だから『自己を捉える』とか『自分探し』とかよく聞くし私も言うけど、本当の意味では必要ないのかもなぁ。

在ることさえ知っていればそれで良い、とも思ったよ。

わからないけど確かにある、ahaṅkāraḥ(これが私)』です。

そのわからない未知の私を捉えられる存在が在るとしたら、それは他者なんだと思うよ。

友達とか、恋人とか、親類とか、誰でも良いんだけど。

よく聞く「気が合う相手」っていうのも、「合う」じゃなくて「捉えられてる」なんじゃないかと思うんだ。

表面ではない潜在的な部分を捉え、そこにアプローチをかけられていることに心地の良さとかを感じているんじゃないかな。

私は友達も恋人も居ないから想像でしかないんだけど。

そうであれば良いなぁっていう理想も含まれてるけど。

希望的観測。

そろそろ向き合っていかなきゃなぁ…他人にも。

人付き合いをしてるみんな、凄い。

尊敬しますよ、心の底から。

うん。

そんな感じで終わります。

最後の最後に、考えっぱなしの投げっぱなしでごめんなさいね。

楽しかったです。

またご縁がありましたら、お遇いしましょう。

有難う御座いました、左様なら。




ありがとう、だいすき。