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おりづる舞ったよ 前編(怖い幻覚)

心筋梗塞 痛みよりも幻覚に悩まされた
メールに助けられて…

目が覚めた

10/30/11:00    パパ
 いま病院だ。入院している。
           17:00 林檎
 どこが悪くて入院したの?
 私が倒れたのは10月24日(火)午前四時頃。
 それからおよそ一週間後に林檎にメールを入れている。
 一体どういう事なのか…
 徐々に私が「心筋梗塞発作」で倒れた当時の状況が掴めてきた。
倒れた時刻に私は病院の夜間受付室の中の机の上でボイラー日報の用紙に記録を書き込んでいたらしい。
  その時間病院の裏玄関の夜間受付の窓口から外の様子をうかがっていた若い警備士が、「ガタン」という室内の物音を聞いて後ろを振り返った時、既に私は椅子から床に崩れ落ちて倒れていた、白目をむきながら。脈は打っていなかったらしい。その時私は意識がなかった。だから痛みも苦しみも感じなかった。うめき声のようなものは上げていたかも知れない。
 多分その警備士は3階病棟のナースセンターに連絡を入れた後、私には心臓マッサージを施していたのではあるまいか、あるいは備え付けのAEDを使用したのか、この辺の状況は事態が切迫しているのと同時に、各自滅多に経験のあることではないのだから、記憶には残っている筈だが、警備士から語られる説明が少なかった。なので私が日頃の勤務状態から察して実際の様子を想像して「代弁者」として語っている。
 ある勤務者からは「私の心臓は止まっていた」と言うことだった。それは手の脈を計ったり心臓に胸を当てれば分かることだ。
 そうしておそらく看護婦が到着後、ストレッチャーに私を乗せて一階にある夜間受付の隣の救急部で応急処置を施した後、三階循環器病棟に向かったのだろうか。心臓の停止していた時間は不明だが、場所が病院だっただけに迅速な処置が施されていれば、心臓が再び動き出したのは5分後くらいだったろうか。
 無論私は意識が回復していない状態だったから、その時の様子は警備員や看護婦に聞いたものである。
 意識を取り戻したのは当日だったのだろうか。目が覚めた時、私はベットに寝ていて、上から覗き込むようにして医師が私を見つめていた。おそらく医師は私の覚醒の時間を計った上でベットの横に待機していたのだろう。

「ここはどこですか?」
 発作を起こしてから意識を回復した私が、ベットの上から私を覗き込んでいる若い医師にそう問いかけた時、医師は二言三言何か発して病室を出た。
 当日(実際は当日なのかどうかは確かめようがない。本人の思い込みによるものとも言える)はっきり覚えているのはこれだけである。
 薄らいだ不鮮明な記憶の中に意識を集中してみると当時の残像が蘇ってくる。そのおぼろげな記憶をたどってみると、どうやら私はその日、二人の兄たちや家族とも面会していたらしい。
 およそ50日間の入院生活を終え、退院してから自分の部屋に戻り身の周りのものを整理している中に、貯金通帳を開いたとき、入院した後に何度か現金が引き出されていた。それは発作の後の面会の時に、
「俺の入院で掛かる金は通帳から引き出してくれ。病院に止めてある車のダッシュボードに通帳があるから」という私の話から兄たちがそうしてくれたものだ。

 ここまでの話では何ら矛盾を感じないと思うが、発作中の「心停止」時間が思いの外長すぎたせいなのか、私は1か月間ほど意識障害を併発していて、歩行困難と記憶があいまいな状態でいた。
 退院してから自分の部屋に戻り、身の回りのものを整理し直している中に貯金通帳を開いてみた時、入院してい期間に口座からはやはり現金が引き出されていた。発作の当日、キャッシュカードは自分が話した通りにダッシュボードの中にあったから引き出してもらえたのだろう。(実際は引き出されたのは発作を起こした当日ではなく、それから十日後辺りのことである)。
 ただ少々疑問に残るのは、家族とはいえ「心筋梗塞発作」で倒れた当日に、医師が数人の家族とな面会を許してくれたのは何故だろう。いや、現実には別の日ではなかったろうか。当時の状況にしても「絶対安静」となるべきものだが、一時的にでも患者の容態が安定していれば、医師も面会を拒むことはなかったのだろうか。私の容態を気遣って訪れてくれた4〜5人の家族との会話が記憶の中にわずかながら残っている。
 この時は我ながら結構気張って家族に自分の元気ぶりをアピールしたかったらしく、
「病院が迅速な対応をしてくれたから、お陰様で重症にならずに済んだ。心配いらないよ。あとは早く退院できる日を待つだけだから」
 面会者たちも私の病人らしからぬ威勢の良さに安心した様子で、終始笑顔での面会だったようだ。
 しかしこの日から数日の間、林檎とのメールが再開されるまで私の記憶は実に不鮮明で不確かな頼りない状態に陥って行った。自分の記憶が曖昧だから、「ねっ俺昨日何時頃に寝たんだっけ、覚えてない?」といった単純なことでもいいから、看護婦さんとかに聞いてみたかったが、彼女たちにとってみれば私は患者だから忙しい彼女たちの邪魔をするのは気が引けた。まっ手のかかる患者ばかりなのだから遠慮気味だったけど、後々に思い起こしてみると病棟の中で本当は一番手が掛かっていた患者は私だったのかも知れない。
 日々の入院生活の中で記憶の曖昧さがもたらす不便は色々ありながらも、どうにかして記憶を取り戻す手段を内心探っていたが、糸口が見つからない。失った記憶を取り戻すためには困難が付きまとった。
 例えば、
 今日は問題なく過ごせたとしても(その日の出来事の記憶の鮮明さ)、次の日となると行動の記憶が曖昧になる。また、日中の出来事は覚えていても夜間になるといい知れない不安に襲われて、同時に記憶を失いケータイに写した覚えの無い写真が残っている。
 記憶はあるのだが、いかんせん昨日と今日とが合致しない。前後がきちんとつがらない。前後がつながらない記憶ほどあてにならないものはない。
 私は意識を回復してからもしばらくの間、林檎とのメールが復活するまで記憶と呼べるほどはっきりした記憶がない。
 入院中に再開した林檎に送ったメールを読み返してみると、ほとんどは自分の事やその周囲をキチンと認識できた上でメールが打たれている。
 ということは、少なくともメールを打っている時もしくはその前後数時間は「幻覚」を見ている時のようなあやふやな状態でメールを打たなかったことになる。林檎にメールを打っている時は正常もしくは正常に近い精神状態だったとも言える。ケータイを手にしながらふとそう思い、心強い手がかりを得られた感触に心の内に言い知れない安堵感を覚えた。
 もし、このケータイのメールが存在しなかったならば、未だに私は幻覚と現実のはざまの区別がつかないままで、あやふやな記憶の闇夜の海を櫂を失った小舟で彷徨っていたのかも知れない。
 メールの付き合いだけの実娘ではない林檎に「ありがとう」と言わせていただく。
「ありがとう桃よ」

 二人のメールのやり取りを紹介します。誤字・脱字の類は修正しないでそのまま載せました。日付と時刻は数字で表しています。( )部分は後で検証してみたら、明らかにメールの内容と現実とが食い違っていた部分を、正しいと思える方向に修正しました。
 ※入院間もなく何気なくパンツ中に手を入れてみたら、なぜか陰毛が剃られていた。なぜか…と言うのは私はこの病院では手術を受けていなかったので普通なら陰毛が剃られることがない。しかも右側半分だけだ。私は半分亡くした陰毛を弄びながら、一体医師にはどんなためらいがあって剃毛が中断されたのだろう。今も気に掛かっている。

10/30 18:45 パパ 心筋梗塞だーんず、手術した。(実際はこの時点では私はまだ手術はしていなかった。家族たちとの面会の場での会話のやり取りの中で生じた聞き間違いのようなものだろう)。経過は順調だよ。
10/30 18:50 パパ 了解。
10/30 20:44 林檎 無理して歩いたから?
10/30 23:54 パパ 小さいころから高めだった。高齢者になるにつれて高くなるは同(血圧のことらしい。血圧については確かに若いころから健康の不安材料ではあったが、今回それがもろに結果として出てしまったようだ)                  

 林檎の言う「無理してあるいたから?」とは、
 私はこの年の6月頃から毎日徒歩通勤をしていた。距離はおよそ往復9キロ。林檎にはSNSを通じてその様子を伝えていた。私にとってはランニングなどに比べて体に与える負担も少なく、徒歩の分力加減が自由で快適な運動に感じていた。徒歩通勤と同時に喫煙も止めて体調は上向いているように感じていた。
 何よりも驚いた事には、心筋梗塞発作の5日前に近所の病院で受けた心臓エコー検査の結果が「異常なし」だったことだった。気に掛けていた検査の結果も良く出て、気分的には「よし頑張ろう!」の機運上昇の頂点で起きた発作。「ああ天は我を見放したか」である。

 私が入院してから林檎から初めてメールを受け取れた時には、天にも昇るような気分でそれはそれは嬉しかった。個室部屋ではTVも観ていなかったから退屈していた。そして、話し相手も欲しかった。  
 なにせ私は夢ともつかない、現実ともつかない幻覚を見るような状態にあったのだから、まともな人間と同じように対応してくれる相手はその時居なかった。

 希薄な意識しか持ち合わせていない私の脳細胞は正常時に比べどのくらい働いていたのだろうか。私のように幻覚を見たり、記憶が不確かになるのは、脳への酸素供給が一時的に途絶えたせいなのだと意識が覚醒してから、ある看護婦から聞いたことがある。
 まだケータイが手元になかった頃、希薄な意識ながらケータイのことは常々頭に浮かんでいたが、私はこの時ケータイの持つ意味の重要さを色々な意味で無意識に感じていたらしい。
 ケータイは貴重な情報手段だから、周りの人にケータイの使用を禁じられて取り上げられることを恐れて、人のいる時を避けて部屋に誰も居ない時を選んでは、自分の勤務場から届いた荷物の入っているリュックサックの口を開けてケータイを探していた。 
 だから、意識がはっきりしたから林檎とメールの交信が出来るようになった、と言うよりは、ケータイを探し当てて林檎にメールを送れるようになって段々と意識が戻り出したと言えるかも知れない。

 実はこの時の私のケータイ。通話の操作は容易なのだが、メールを打つにはとても不便な代物だった。かな漢字変換がスムーズに出来ない。漢字・英文・かっこ・絵文字を組み合わせてスピーディに送れない。だから、入院してない健康な当時は急用でない時のメールはほとんどパソコンから送っていた。
 そんなメールの打ちにくいケータイではあるが仕事場から届いたリュックサックの中に押し込まれていた。やっと自分の手に戻った。

 通常、病院の入院生活は退屈なものだ(逆に楽しければ何かが異常な筈)。
 日常会話は少ないし、備え付けのTVも三日もすれば見飽きてしまうが、他にする事が無くて、ついTVカードにお金をつぎ込んでしまう。新聞や雑誌なども時間を持て余している割には少し記事に目を通しただけで折りたたんであっさりと床頭台の引き出しの中に仕舞ってしまう。
 いや、
 ケータイのメールにしても入院生活の間に取り立てて大切な連絡事項もない、せいぜい手術の日取りが決まった時には、電話以外にメールでの連絡を選択する相手も少しはいるかも知れない。
 退屈な入院生活が続く中で私は、林檎とのメールはもちろんケータイの写真や文字機能を使ってメモ代わりにしたり、日記にしたり、作文してみたりしながら、記録として残す試みをした。そんな毎日が結果としてこの「折り鶴舞ったよ」を「ノート」に掲載するきっかけにもなったと思う。
 同じことを重ねて読ませて申し訳ないが、さらに続けると
 メールには雑記帳のような役目をさせていた。気になる病気のことをはじめとして、天気や見舞客と交わした話、看護婦や医師とのやり取り、同じ病室の患者のことなど。ありとあらゆる頭の中に浮かんでくる思念を文字に置き換えた。人との会話が少なくなった分、メールを打つ手が良く動くようになった。会話の無い病室にいて退屈すべきところだが、私はケータイをいじって遊んでいるうちに入院がそれほど退屈とは思わないで過ごすようになった。相変わらずケータイはやはり変換が思うようにならなくて時間が掛ったが、入院患者には時間だけはたっぷりとあるのだから気長にメールを打てる。
 打ちにくいとは言いながら、時間を掛けたら結構な文字量の文章を林檎に送ることが出来た。
 ※私が心筋梗塞による意識混濁・意識障害の影響で、いささか時系列が乱れ、室戸岬の大波や鳴門の渦潮の如くうねり回り、この文章も乱れがちで、前後左右上下の流転逆転などが起こりますことをご容赦ください。つまりは文章が下手なので時々前や後ろに飛んだりしますので。

 これは多分看護日誌かなんかには記録が残っていると思うが、入院してから二週間ほど後に私はHCU・個室から大部屋に移動になった。しかしまだ車イスがベットに横付けされていて、移動の際には部屋内の洗面所へでさへも看護婦の付き添いを要した。 
 私が使っていたナースコールは特別に看護師のお手製でヒモの端にゆわえられた七色てんとう虫が私の病衣の後ろの生地を咥えていて、私がナースコールを外したり、ベットから勝手に動いたりした時にナースセンターに知らされる仕組みになっていた。
「かわいい顔してあの娘ワリとやるもんだね」のあみん達。
 これは彼女らが苦心して作った本当の「お手製」らしく、時に外れやすかったり、外れなかったり、のべつブザーが鳴りっ放しになって、付けてる患者よりも「てんとう虫コール」を作った看護師の思い入れは相当に強かったようである。

 大部屋に越して間もなく会社の職員が見舞いに訪れてくれた。いきなり倒れた自分の方が会社に迷惑を掛けた思いで申し訳ない気持ちでいたが、回復を心待ちにしているので全快を願います。との挨拶を頂いた。
 この日以来、他の職場の友人たちが続けて見舞いがてら私の様子を見に来てくれるようになった。

 食事制限で私は病院食以外は食べられないのだが、お菓子袋いっぱいに「どら焼き」を詰め込んできてくれた警備のオジサン。土産話のつもりでもなかろうが、倒れた現場に立ち会った当人の警備士の代役のつもりなのだろうか、当時の私は人の問いかけや報告に対してはただただ然りで、聞く立場どころか込み入った話などは理解するのには限界があった。
 しかし当の若い警備士は入院のあいだ中、私の見舞いには顔を見せなかった。その後退院してからも話す機会はあったが、当の私の発作の目撃者である若い警備士の口からはついぞ現場の様子について語られることはなかった。何があったのだろう。
 「どら焼き警備オジサン」の親切な状況説明はありがたいことではあったが、私は現場にいた若い警備士にちゃんとした事実を聞きたかった。多分私を介抱してくれた若い警備士は聞くたびに曖昧な表現に終始していたから、彼自身の説明すらも宛にはならなかった。どういうことなのだろう。一体あの時何があったのだろう。

 この地方の中核都市をなす病院の一階にはローソンが出店していて、見舞客や職員、患者、一般客が利用している。入院患者に必要なほとんどが揃えてあり、付き添い用の布団まで貸し出してあると聞いて驚いた。驚いた訳はふたつある。布団の貸し出しサービスまでしているローソンのしたたかさ。幻覚を見ていた中での会話に、現実にはないと思っていた布団がやはり貸し出されていたことだ。
 幻覚は見ているその当人に現実か幻覚かの判断を狂わせる、とても怖いものだ。
 職員の頃はよく利用していたローソンだが、フロアーからの移動が禁止されていた私は入院患者としては一度も利用することがなかった。

 何かしらの飲料を差し入れてくれた職員。その彼から届いた今年の年賀状には、
「焦らずゆっくり直して下さい」
 とあった。私にとって人生で一番心にしみる年賀状となった。
 職友の中には、一冊の文庫本を差し入れてくれた気の利いた方も。えっ、どうしてって…
 いつも几帳面に点検作業をこなしてくれているその元自衛隊員の職友は 
「ああ、あれはね ちょっとエロな作家の寄せ集めの本さ。入院中はさびしい思いをしてるだろうと思ってね」
 大げさかもしれないけど、生きるか死ぬかの状況の中では、とても性的な寂しさを紛らわすために清楚で誠実な看護婦の丁寧に敷いてくれた純白のシーツを治療以外のの目的で汚したいとは思わなかった。エヘッ。
 それでも、どんな形にしろ私の身体を気遣ってくれる仕事場の仲間たちにはいつまでも感謝の気持ちが消えることは無い。

 ついでの事として言ってしまうが、入院中「男の生理」に悩まされることは無かった。美人の看護婦さんで勢揃いの病院に対してはとても失礼かもしれない。しかし今回の入院のようにひどい幻覚や歩行困難などのような障害が無かったとしたら、例えば整形外科病棟。骨折などのように痛みや苦しみが少なければ‘’ある種の欲望‘’が高まったとしても入院しているからといって不思議ではない。いや、死が差し迫っていなければ、そのたぐいの欲望は生じて不思議ではないし、特に若い患者たちには治療の痛みとはまた違った意味での苦痛を伴うことにはならないだろうか。

 なのでこの疑問は自分の手術のために転院した先の病院にまで持ち越すことになった(なにも持ち越さなくてもいいのに余計なのは持ち越すな!)。
 転院した9階建ての新たな病院には、食事や休憩のためのひと時を過ごせるような椅子やテーブルのある食堂に似た作りの教室ほどのスペースの一室が設けられていた。
 黒板の代わりに掲示板があり、教壇の代わりに大きなテレビがあってテレビを囲むように七、八脚の椅子が並べられていた。

 私の心臓バイパス手術は順調に経過して心筋梗塞の後遺症も残らず処置された。
 なので退院まではゆとりのある時間が経過して‘’食堂‘’に足を運ぶ回数も増えていく。11月だからテレビでは大相撲なども放送されていた。
 とある日も食堂を覗き込んで椅子にもたれて夕食後のひと時を過ごしていた。テレビの周り椅子には数人が腰かけている。私の前の席に夫婦と思しき五十代の二人連れ。手を繋いでテレビに向かっている。無論夫婦で入院してるわけではなさそうで、奥様らしき女性の方はふだん着姿だ。おそらくはお見舞いを終えて迎えの車が来るまでの時間待ちの間の二人でテレビを観るひと時。そんな印象で…。
 それが私には何故かそれ以上に‘’繋がれた手‘’の持つ意味が過大に感じられてくる。仲の良い夫婦の逢えない時間のやるせなさ・切なさ・哀れ。逢えたとて手を繋いででしか二人の愛を確かめるすべのない虚しさ・ある種の焦燥感。
この夫婦の面会が終わるまでのひとときの計り知れない「思いの重さ」のようなものが繋がれた手の辺り一帯から感じられる。
 手を繋いだままのふたりがいきなり椅子を蹴ってエレベーターに向かって飛び出しそうな幻想が頭をよぎる(シネマ「卒業」の見過ぎだろうか)。

 ところで職友の貸してくれたエロな文庫本だが一度も読まなかった。退院した後の荷物の中にも見付からなかった。
 多分私の退院の時に病院で荷物の整理をしてくれた姪っ子バッグのどこかにまぎれこんだのだろう。今頃は姪っ子夫婦の愛読書になっているのかも知れない。本来は私が受け取るべきものだから…。こんど実家の帰った際には返してもらおう。

 カステラを二切ればかしくれた同僚。
  大部屋なので、二切れのカステラではおすそ分けするのも難しい。仕方がない、あとで自分で食べよう。でも、日中に一人で食べるのは気が引けるからと思い、夜遅くなって消灯時間も過ぎて、誰にも気付かれないように音がしないようにしてカステラを、食べるというよりは吞み込むようにしながら口いっぱいに頬張っていたら、私の考えの裏をかくように懐中電灯を持った看護婦が部屋に入るなり、
「中村さん何を食べているの!」
 と叱られた。
 叱られたのは仕方ないのだが、何よりも夜中に一人でカステラを頬張っている自分を見られたのが恥ずかしかった。食い意地が張っているように思われるに違いないからだ。その時には適当な言い訳が見付からなかった、が今ならきちんと説明できる。でも、もうそんな機会もないだろうが…。

 退院してからもうしばらく経っているので、幻覚の類はもう見なくなったが、私の中の記憶の回路は今もきちんと整理されないままでいる部分が多く残っている。
 入院当時のことは順序だてて説明出来ないかもしれないが、なるべく理解していただけるよう配慮しながら note を進めて行こうと思います。

23:54 パパ:小さい頃から高めだった
 林檎への返事にはなっていないのだが、自分が小さい頃から血圧が高めで、今回の発作の一因になたのだ、という気持ちを伝えているのだ。
 確かに私は若い頃から血圧が高いという懸念があった。中二に受けた生保加入のための血圧測定で HI 150 という数値が出て以来気に掛けていた。
 なので養生すべきところも若気の至りから本格的な治療を試みたことが無かった。ただ、この年の春頃からは通勤ウオーキングを始めて禁煙もした。けれども、職場の健康診断で心電図異常を指摘されて「心臓エコー検査」を受けたが、結果は異状なしだった。血液検査のコレステロール値も20%ほど改善されていて、心臓の不安がやわらいだ。
 何しろ検査を受けて「異常なし」の結果を聞いて安堵し、その6日後に心筋梗塞発作が起きた。
「ああ、天は我を見放した!」
 と叫びたくもなる。

 少し話題を脇道にそれさせて頂いて、
 多分これは幻覚の類だと思うのですが、私の今回の治療に外部からの循環器科の応援の女医さんも加わって頂いたような覚えがあり、何故かこの女医さん(架空)に良くして貰ったような思い込み(?)からか、
「私は今回の事で受け持ち医と応援の女医さんにとても世話になった。是非お礼をしなくては…」
 と、私は勝手に頭の中で思案しながら、
「どんな酒がいいのだろうか」
などと時代遅れな思考をしていた。そうです、今にしては時代遅れだが、私たちが子供のころは、入院して退院したら医師や看護婦に返礼の意味で贈答品を差し出すのは当たり前のことだったし、今においても律儀な方は担当医を訪ねて何らかの形で謝意を表していたことだろう。
 私の中にこういった思いが生じたのは、おぼろげでいる意識の内側に院内のどこかで誰かの会話を聞いて自分の意識に取り込んだのだろうか。
 言ってみれば「思いのみの『幻覚』」であって、実際に酒屋に行ったり、女医さんに声を掛けたことも無い。それでもこの『幻覚』はしつこく私の意識に触れてくることがあり、その『女医さん』がナースセンターからこちらをチラッと見て会釈を交わした覚えがある。幻覚なのだと思いながらも、それでも私はその女医さんの容姿を忘れていない。
 年のころ三十代半ば、ショートカットの似合うきりりとした目鼻立ちの、それはそれは素敵な美人だと覚えている。

 現在、正気になってしまった私には逢うことが出来なくなってしまった彼女。実在するものならば是非逢ってみたいものだ。だが、贈答品は送らないことにしよう。今はそういった習慣が無くなってしまっているのだから。その代わりに手渡ししたいものはピンクの大輪の薔薇を、せめてもの感謝の思いを込めて…


10/31 04:59 林檎:ゆっくり治してくださいね ずっと側にいるからね
 林檎とはメール交換するだけで、逢ったこともなければ顔写真も見たことが無い。ひょんなことからSNSでつながって以来、三年経過している。彼女は幼い頃に父親を亡くしたという。私は私でこの年まで未婚のまま、子供を授かる機会などなかったから、お互いの満たされていない部分を仮初ではあるが「親子」として付き合ってみようかという気持ちがきっかけだった。
 会う機会がないので、頼りになるのはメールとSNS。幾度か交信が途絶えそうな危機もあったが現在に至っている。
 私が入院してからは以前にも増して二人の「親子」の絆が深まったように思う。
「ずっとそばにいるからね」
 例え、地理的には傍にいなくても、この頃はそんな言葉だけでもメールが来ると随分ありがたい思いがした。

11/01 15:51 パパ:林檎。いつもこの頃思ふけど、でかける時間遅いね。
11/01 17:58 林檎:仕事の時は4時に起きて5時半に出て6時から仕事だよ。土日祝日は1時間遅くなるけれどね。
 日の出が遅くなって、暗い中での林檎の出勤時間を気に掛けていての問いかけなのだろう。
 このあたりのメールのやり取りにも幻覚などの影響がみられない、ごく普通のメール交信だ。

11/02 20:02 パパ:林檎へ。パパは歩いているよ。職場が病院だから、倒れた私を麻酔科医者な助けてもらった。後で詳しく話すね。おやすむ林檎―。
11/02 22:40 林檎:パパは優しいね。
11/02は前日から朝にかけて激しい幻覚にみまわれた日だった。当日の夜のメールのやり取りにはその激しい幻覚については触れていない。そもそも幻覚は思い出したいと思うような楽しい情景は一切なかった。それ故メールにして打ちたいとは思わなかったのだろう。
 私が今回の心筋梗塞発作に際しての幻覚の詳細については、のちに詳しく記したいと思う。
「パパは歩いているよ」
 この日に初めて歩いた訳ではなさそうだが、メールで「ベットにがんじがらめの状態ではないよ」、と自分の健康状態を知らせたかったのだろう。
「倒れた私を麻酔科の女医な助けてもらった」
 またまた登場!美人女医。どうやら麻酔科ではなくて、循環器科の応援医師らしい。実在するかは今も分からないでいる。他県の病院から応援の形で勤務されているので、然るべき院内の情報機関で調べてもらわないと、その女医さんは確認できないでいる。
 ただ、おおよその顔立ちに記憶があり、見たという実感が残っているので、ひょっとしたら何かの機会にお会いできるかもしれない。あの、看護婦さんのように…。
 この日をさかいに、私のメールが乱れ始めていく。








                  

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