黄昏クレア

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最近の記事

パックラットと我が家のお宝

パックラットとは北米産のねずみのことで、あらゆる物を自分の巣に持ち込む習性があると言います。このことから、ガラクタ収集癖のある人の代名詞となっているようです。この特性は自分とよく似ていると昔から思っていました。切手やコインの収集は言うまでもなく、喫茶店のマッチ、旅先で泊まったホテルのボールペンや便箋から、国際空港のトイレのティッシュペーパー(昔はトイレットペーパーの質でその国の生活レベルが分かると云われていました)に至るまで、あらゆるものを記念として持ち帰ったものです。 と

    • 祖父の日露戦争陣中日記:(補遺2)祖父のバイオグラフィー

      明治13年(1880年) 06月16日 誕生 明治33年(1900年) 12月01日 徴兵として歩兵第24連隊入隊 明治37年(1904年) 02月07日 充員召集に応じ歩兵第24連隊入隊 明治37年(1904年) 02月16日〜 外征従軍として長崎港出帆以来、日露戦争において、石城及び蛤蟆塘付近、季家堡子、橋頭、楡樹林子、大安平、遼陽、本渓湖、下平台子、辺牛禄堡子、興隆甸、及び中固付近の戦闘に参加(23歳〜25歳) 明治37年(1904年) 05月05日 陸軍歩兵

      • 祖父の日露戦争陣中日記:(補遺1)日本海海戦の情報

        日本海海戦は、5月27日から5月29日にかけて日本海において日本海軍の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊の間で行われた海戦です。この戦闘における日本側が圧倒的に優勢な情報はほぼ1日遅れで、奉天の北東付近に滞在する陸軍の各部隊にも伝えられていたようです。(写真は日本海海戦において最初の砲撃が開始された頃の連合艦隊:日露戦争PHOTOクロニクル(文生書院2019年)より) 明治38年5月28日:宿舎内外の大掃除をした。午後7時、以下の情報があった。 1.昨27日午前6時30分、

        • 祖父の日露戦争陣中日記:(12)最終局面へ(最後に衝撃の記述が。。。)

          日本軍は明治38年3月10日には奉天攻略に成功し、ロシア軍は北方に退却していきます。祖父が属する第1軍第24連隊も奉天近郊興隆屯の戦闘に勝利した後、さらにロシア軍を追って鉄嶺を経て中固付近まで進出していきます。しかし日本側の損失も甚大で、第24連隊もそれ以上深追いすることなく鉄嶺まで後進した後、3月19日に南東方向の三道溝に至り、そこに1ヶ月以上滞在することになります。3月20日からの再開ですが、三道溝に滞在中は、宿舎内外の掃除、薪の集積、教練、衛兵勤務など、比較的ゆったりと

        パックラットと我が家のお宝

          祖父の日露戦争陣中日記:(11)奉天近郊興隆屯の戦闘

          3月10日:午前4時30分露営地を出発して渾河の左岸に到着すると、敵は我々が前進することを見て取り鉄砲を発射してきた。しかし、我々は「これしき何のその」という意気込みで順に渡河を始めた。敵はこれを妨害しようと激しく銃を乱射してきた。しかし僅か数名の負傷者を生じたのみで対岸に到達できた。午前8時頃から激戦が始まった。中隊は予備として興隆屯に居たが、中隊長は左肩部に盲貫銃創(銃弾が身体を貫かず体内にとどまっている傷)を受けた。我が第8分隊と第7分隊は小隊長随行の上、左翼隊と連絡へ

          祖父の日露戦争陣中日記:(11)奉天近郊興隆屯の戦闘

          オミクロン変異株による新型コロナウイルス感染症 : ピークアウト後の新規感染者数の減少速度

          3月16日および17日の報道によれば、政府は現在18都道府県に適用している「まん延防止等重点措置」を期限の3月21日をもって全面解除する方針を表明した。現在計算の対象としている8つの区域では東京都、愛知県、大阪府、熊本県が該当する。なお、沖縄県と広島県については1月9日に適用が開始され、沖縄県は2月20日に、広島県は3月6日に解除された。また福岡県と鹿児島県は1月27日に適用が開始され3月6日に解除された。そこでこの機会に、3月13日現在の8都府県の新規感染者数の減少傾向を調

          オミクロン変異株による新型コロナウイルス感染症 : ピークアウト後の新規感染者数の減少速度

          新型コロナウイルスワクチン3回目接種の開始がもう1ヶ月早かったなら.....

          一昨日3月15日付けの報道によれば、日本のワクチン3回目接種率が30.1%となりようやく3割を超えたという。これで日本はアメリカの接種率を追い抜き、G7の中で最下位を脱出したらしい。 考えてみると昨年の11月ごろ、2回目の接種から「8ヶ月以上」や「6ヶ月以上」など3回目接種の開始時期について政府の対応に混乱があったことを思い出す。結果的には3回目接種の間隔は(2回目接種から)6ヶ月経ってからということになったが、実際にワクチン接種率が上がり始めたのは本年2月になってからであ

          新型コロナウイルスワクチン3回目接種の開始がもう1ヶ月早かったなら.....

          新型コロナウイルス・オミクロン変異株による第6波ピークアウト後の新規感染者数減少速度のシミュレーション

          はじめに去る2月13日付のレポートにおいて、東京都の感染状況を例にとり、ピークアウト後の新規感染者数の減少速度の予測を試みた。2月4日のピーク時における接触削減率65.5%を超えたあと、削減率は68%程度までは上昇し得るのではないかと考えた。しかし実際には2月10日ごろ約68%に達したものの、その後の2週間は平均値約66%のまわりに変動し、2月末には閾値63%を下回るまでに低下した。 削減率68%と66%では新規感染者数の減少速度に著しい違いを与える。2月中旬のワクチンの有

          新型コロナウイルス・オミクロン変異株による第6波ピークアウト後の新規感染者数減少速度のシミュレーション

          新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーション: (続報) ピークアウト後の動向について

          オミクロン変異株による日々の新規感染者数の急増も2月5日ごろをもってピークに達し、今後少しずつではあるが減少傾向に転じるものと思われる。 今回は東京都の場合を例にとって、2月11日までの推移シミュレーションを行うとともにピークアウト後の挙動について考察してみることにした。 現在使用中の単純SIR式においては、人と人との接触削減率εが最も重要なパラメーターである。このεを日々の新規感染者数の報告値より算出し、その経日変化をべき数式などの外挿可能な近似式で表し、それまでの新規

          新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーション: (続報) ピークアウト後の動向について

          SIRモデルに基づく新規感染者数の推移分析:オミクロン波のピークは2月4日ごろか

          この記事は1月30日までのデータを用いた計算結果に2月2日までの新規感染者数の報告値を加えたものです。 現在私が使用中のSIRモデルにおいては人と人との接触削減率εが最も重要なパラメータである。これは実態に乏しく、つかみどころのない変数ではある。しかし感染が拡大すると、人々の自律的行動変容や国・地方自治体からの規制によってεは次第に増加し実効再生産数を低下させる。 現在流行中のオミクロン波は2022年に入って急拡大したのですでに一ヶ月経つ。この間の新規感染者数の報告値から

          SIRモデルに基づく新規感染者数の推移分析:オミクロン波のピークは2月4日ごろか

          新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーション:(速報)ピーク時期の推算

          前報においては、簡単なSIRモデルに基づきエクセル上で新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーションを行った。その結果、1月23日までの実際の新規感染者数の増加についてはシナリオ2もしくは3が近いことがわかった。 今回は、現在までの新規感染者数の増加データから実効再生産数Reを計算し、それから接触削減率εを逆算により求めた。その結果、1月1日から23日までにεは40%から57~60%に増加したことがわかった。この間のεの変化を線形近似し、それまで

          新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーション:(速報)ピーク時期の推算

          新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーション

          2022年の年明け早々、我が国では新型コロナウイルス変異株オミクロンによる感染者数が激増している。私は専門家でも何でもないが、1月14日に簡単なSIRモデルを用いてオミクロン株による新規感染者数のシミュレーションを始めた。 1.パラメータの設定 SIRモデルのパラメータは実効再生産数Reと回復率γである。1月10日ごろ、イギリスの研究者によってオミクロン株の世代時間(感染性時間)は2.1日と報告された。したがって、回復率は感染性時間の逆数によって近似できるので、γ = 0

          新型コロナウイルス変異株オミクロンによる新規感染者数の推移シミュレーション

          祖父の日露戦争陣中日記:(10)辺牛禄堡子付近の戦い

          3月1日:午後10時ごろ突然出発の命令が発出された。下平台子北方高地に集合して次の命令を待った。(僅かに雪が降っていた) 3月2日:終日砲声は激烈であった。我が軍の臼砲は辺牛禄堡子、疣山付近を砲撃した。 3月3日:払暁より砲銃声音が凄まじかった。「百雷一時に落ちるが如し」とはこのような音であろう。夜に入っても砲銃声が激しく耳を驚かせた。 3月4日:前日より砲銃声は止むことなく、「ドンドン、ピュピュ」と耳を騒がせる。 3月5日:晴天。掩蓋(塹壕の覆い)を出て疣山の第8中

          祖父の日露戦争陣中日記:(10)辺牛禄堡子付近の戦い

          祖父の日露戦争陣中日記:(9)沙河の対峙

          前回は明治37年10月17日までの日記を記述しました。10月の満洲は厳冬の始まりで、ここから明治38年2月下旬頃までの間、沙河を挟んで日露両軍の睨み合いが続きます。この間、組織立った戦闘はなかったものの、小規模な小競り合いは続いていたようです。今回はこの間の日記の中で、興味深い記述を抜粋して書き留めることにします。明治38年元旦の内容がとくにおもしろいです。 10月18日:午前4時ごろ、柳、森、田村の3名を率いて辺牛禄堡子の東南にある小部落およびその東方高地を偵察する任務を

          祖父の日露戦争陣中日記:(9)沙河の対峙

          祖父の日露戦争陣中日記:(8)沙河の会戦へ

          いよいよ戦史上にその名を残す沙河の会戦に突入します。これまで日本軍の進撃に防戦一方で最後は退却を繰り返してきたロシア軍ですが、ここに来て本格的な反撃に転じます。そのため第1軍は一時的ではありますが本渓湖北方あたりまで退却を余儀なくされます。前回の続きです。 10月6日:午前中は宿営地の大掃除をした。午後2時頃警急集合の命令が下りた。直ちに服装を整え官山嶺付近まで出動したが、敵はそれ以上前進する動きはないとの情報に接したので、これより宿営地に引き揚げた。以下の注意事項があった

          祖父の日露戦争陣中日記:(8)沙河の会戦へ

          祖父の日露戦争陣中日記:(7)梅沢旅団の支援部隊となる

          8月25日に賣家堡子を出発して以来、27~28日大安平付近紅砂嶺の戦闘においてロシア軍を退却させたのち、30日太子江を渡渉し、9月1日祖父らの軍隊は遼陽付近黒英台の戦闘で多数の死傷者を出しますが、9月5日烟台(えんだい)近くの達連溝まで追撃して行きます。この地に10日ほど滞在しますが、その間の9月9日と12日に第8分隊は原嶋少尉とともに烟台方面に地形偵察に出かけます。以下の図は、当時の図面上及びGoogle earth上で見るこれまでの進軍の経路、ならびに祖父の日記に挟まれた

          祖父の日露戦争陣中日記:(7)梅沢旅団の支援部隊となる