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普通とはなんだろう? 日本一周を終えて感じたこと

普通とはなんだろうか。
人生とはなんだろうか。

考えてもわからない、答えの出ない問である。
私はADHDなので頭の中がこんなことでよく忙しい。

私はここ2年かけて日本を一周して、北は北海道の利尻島、南は宮古島まで、あらゆるところで、あらゆる人と、生活してみていた。

北海道の利尻島に住んでいたときは、地元の漁師さんから高級利尻昆布を干すバイトをさせていただき、朝3時に出勤してはせっせと体を動かす肉体労働をしていた。

九州にいたときはオンライン上でできるアルバイトを行いながら、ただただ温泉巡りなどしていた。

一応言っておくが、もともとの私は非常にインドア派で、家で引きこもってゲームばかりしていたような女子だった。東京生まれ東京育ち、4年生大学を卒業し、語学やPCスキルの資格を取得、週5で都内のIT企業に務める普通のOLだった。
大学を卒業してどこかの会社に勤めて、このままいつか誰かと結婚するのが無難なのかな、なんて思考もしていたのだった。

まあそれがふとしたきっかけで、会社を辞めることになり、この2年間でいろいろ、本当にいろいろ、体験してしまったのだった。

人は一緒に過ごす人で変わる。
人には無限の可能性がある。
人にはあらゆる面が存在する。

それは私の体感としてはっきり言えることだ。

例えば利尻島でバイトをする前は、3時に出勤なんてありえないと思っていたし、肉体労働とか一次産業ってダサいとか、勝手な固定観念ばかり持っていた。
でもいざやってみれば、左には山、右には海岸と、ビビットな朝焼けを見ながら出勤するドライブは最高!だったし、
輝かしい朝日を全身に浴びながらせっせと肉体労働をしている時間は、アレコレ悩む暇なんかもなく、1日のスタートを清々しい達成感で始められるのだった。
都会で悩みすぎてうつ病になっている人、病んでる人、とりあえずこの自然いっぱいの場所で体動かして見ればいいんじゃないかな、とか勝手に思った。時給も1700円と良い方だった。
素晴らしい体験をさせてくださった漁師さんや当時の関係者さんに感謝しています。

あーあ、写真くらい残しておけばよかったな。諸事情、というか、それも一時の感情に任せて、私は全部消してしまったのだった。

***

いろんな人とも出会った。

人気者に見えた男の子は、実は過去に薬物をやって裸で街を歩いていた事があったらしかった。
明るく振る舞う女の子は、実は数年前に元親友に裁判で訴えられてから、未だに賠償金を払い続けているとか。

他には、
個人事業主として月数千万の月収を手にして、その後に数億の借金を背負ってしまった人。
20代だけど元ホームレスでスーツを着てバッタを食っていた男性。
海外の怖い人たちに追われて髪を虹色に染められ写真を取られた人。
結婚と離婚を繰り返し5人の息子を一人で育てるパワフルな女性。
水商売で月に数百万稼いだ後、一般企業の営業職でNo1になった人。
子供の頃から幽霊が見える人。
神の存在を信じている人もいれば、全く信じないという人もいたし
数多くの人とセックスする事が善だ!という人もいれば、少ない人数のほうが素晴らしい愛だ、という人もいた。

他にも、それって何かのマンガの話?と思うような体験をしてきた人たちと出会い
良くも悪くも、と私の価値観はぶっ壊れたのだった。
正義とは何なのか。何がよくて何が悪いのか。
人と人との争いなんて、いったい誰を責められるのか、そんなもの無いと思ってしまった。

すべての人が、自分の人生を、ただ生きているだけである。

私は私の進むべき人生、納得できる人生、使命のようなものを見つけるために、日本一周をし始めたはずだったのが、着地点は「何でもありだな」という結論になってしまったのだった。

価値観や視点は本当に人それぞれで、
たとえ私とあなたが、目の前の風景を見た時に「キレイだね」と言葉を交わしても、その「キレイ」の観点は絶対に絶対に違う。
もしあなたが、具体的な言語表現を持って、感情を乗せて、目の前の風景がどうきれいなのか訴えかければ、それは相手になんとなく「わかる」だろう。
そういうレベルのものなのだ。
誰かにわかってほしい、なんて無駄だ。

人の数だけ、視点が存在するということ。
何でもありという広い視点、マクロな視点。

私は生きるなら、この世界に役立っている実感を持って生きたい、この世界を良くするためにならなんだってやってやるさ、とさえ思う。
でもその「良くする」は抽象的で、そしてあらゆる視点の人がいると知ってしまった今、
具体的な方向は定まらなくなってしまった。定めたくないのかもしれない。

良い悪いを決めつけすぎず、あらゆる人が「価値観の広がり」の方に目を向けるようになることで、互いを許し、争いが減ったらいいなと思っている。

ただ、じゃあ一体どこまでを「価値観の広がり」として受け入れるのか?犯罪行為はどうなのか?個人の感情はどう扱うのか?

答えの出ない問いである。
すべてを「広がり」と捉えて行動するのにも、前提として「愛」の視点があるかないか、という本質的だが抽象的なものになるんだろう。

目の前の人は、私利私欲で人を利用しているのか、それともマクロ的な目線で人に気づきを与える何かをしてくれているのか。

ここに関しては主観が入ってしまう。
ああ人の持つ「愛」 のレベルが、可視化できればいいのに。
(実のところ、愛は可視化できる技術段階にあるが、愛のない支配者層がそれを食い止めているんじゃないかと思う)

神様レベルのマクロで我々人類の生命活動を捉えれば、それこそ戦争でも何でもあり、なんだろうか。

本当のジャッジは、神様にしかできない。

私は愛の前提を持って、
この地球で遊ぶように生き続けたい

一緒に価値観を広げられる仲間や
何でもありの広い視野を持つ人が増えてほしいなと思う。

最後にもう一度
人は一緒に過ごす人で変わる。
人には無限の可能性がある。
人にはあらゆる面が存在する。

目の前の出来事をどう捉えるかは、
すべてあなた次第なのである。

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