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「なぜ、子どもが欲しいと思ったんですか?」の、私なりの答え

「なぜ、子どもが欲しいと思ったんですか?」

シングルマザー、養子縁組、海外移住カップルなど。
ありとあらゆる”お母さん”という立場になった人たちに、私はこう尋ねてみた。

聞いたほとんどの人が、その質問に答える前に、誰少し上を見上げ考え込んたり、「うーん」と呟き一呼吸置いたりしていて、この問いに対してはっきりと即答することは難しそうだった。

回答を待っている間、なんだかんだ育てたいという欲求は、本能という部分が大きいのかもしれないと、うっすらと考える。(その欲求は人によって量は違うだろうけど)

数秒間の沈黙の後に、彼女たちは「お母さんという立場になりたかった」「今の人生に飽きた」「新しい刺激が欲しかった」「夫との子供を作りたかったから」などの理由を話してくれた。

当たり前だけど、出産というのは子供のためのものではなく、完全に親のエゴでしかないというのを毎回感じる。

私が取材を進めていく中で「自分のために産むって、なんかちょっと不誠実ですよね」とポロリと言葉を漏らした方もいたけれど、じゃあ逆に、子供のためや社会のために出産をする人というのは、はたしているのだろうか?

子供のため?いや、生まれる前の子供の実際の気持ちなんてわかるわけがないじゃないですか。あなたは、特殊能力をお持ちなのでしょうか?

社会のため?いや、いくら「社会のために子供を最低3人以上産みなさい」と言われたとしても、そのための費用と時間はほぼ全て自分たちで調整しなければならないんですよね?それならその言葉は、爆速で右から左へすり抜けていきます。

社会からの圧力?家族の意見?そんなものはあくまで数行くらいの参考文献程度で、「出産」は女性の意思で決行されるものだし、そうであってほしい。
(全てがそうとは限らないが……)

子供を産みたくないという気持ち


正直、私は今までの人生の中で子供が欲しいとあんまり思ったことがなかった。思春期の時は子供を産むことに対して、多くの人が経験してるし、平凡で、つまらなそうだなとも感じていた。もっと人が経験しないような人生を歩んでいきたいと鼻息荒く思っていた。厨二病の時期が長かった。

20代前半の時は、こんな不安しかない社会の中で自分の命より大切な生命体を生み出したくないと思った。そんなの絶対苦労する。生まれてくる子供のためにも、産まない方が良いはずだと。

20代中盤くらいの時は、独立もあったりで、人のことを考える余裕なんてなかった。まずは、目の前の仕事に取り組むことに精一杯だったし、他人を育てるなんて心の余裕はこれっぽっちもなかった。

さらに私には、命を産んで、責任を持って育てるということに対し、ものすごく自信がない。

それは、小学生の時に飼っていたペットが、家から帰ってゲージを覗いた時に亡くなった時からずっと思ってる。平均寿命は超えていたので寿命だったのかもしれないが、最後の瞬間にそばにいれなかったし、結局お世話は母親に任せっぱなしで満足にできていなかった。もっとお外に出たかっただろうな。もっと遊びたかっただろうな。この家で飼われない方が良かったんじゃないのかな。もっとやれたことはあったのにな。そういう後悔がずっと頭にごびりついてて生物を育てることが怖くなった。

「死」を間近に見るたびに「もっとこうしていれば」という後悔がまとわりつく。一度だって、満足して死者を送り出したことなんてない。

そりゃあ、小動物を見たり、可愛いトカゲを見たりすると、この子と一緒に生活したらどれだけ自分の生活に幸せをもたらしてくれるだろうかと夢見ることもあるけど、それでも幼少期のトラウマが頭の中にこびりついて生物を育てることが怖くて仕方がなかった。
まだ植物なら……と現在はベランダでハーブを育てて、少しずつ「生物を育てる恐怖」を治療しているところだ。

植物ですら少し怖かったのに、人間を育てるなんてとんでもない。
出産したら、自分の命も失うリスクだってある。生半可な覚悟じゃ産めない。
そんな人生の中での一番大きい決断を、たかだか他人に「産みなさい」と言われたとしてもすんなり了承するわけがない。命は重いんだ。

産みたいと思ったキッカケ


そんな私が、生まれて初めて産みたいと思ったキッカケは、AMH検査(アンチミューラリアンホルモン)をした時に予想以上に悪い結果が出た時だった。

その時までは子供が欲しいという気持ちがなかった。

でも実際に、子供を作れなくなるタイムリミットがもしかしたら人より早いかもしれないと思った瞬間、途端に涙がぽたんっと落ちた。

あぁ、私は産みたいんだ。そんなの知らなかった。
自分のことは一番自分が理解していると思っていたけど、全然自分のことをこれっぽちもわかっていなかったようだ。

私はどうやら、自分の子供が欲しいのかもしれない。

そして卵子凍結を調べ、取材という形をとってお医者さんに卵子凍結に関する話を聞きに行き、高齢出産のリスクや、今後の自分の人生スケジュールを考えた。
全てのリスクを考えた上で、私は卵子凍結をせず、できる限りなるべく最速で妊活を開始するという決断をした。この決断のせいで、妊娠ができない可能性もあるけど、そしたらそれでその事実をしっかり受け入れようと思った。

以降、付き合ったパートナーとは事前にAMHの値が低いから結婚後はすぐに妊活したいという意思を伝え、結婚後はすぐに妊活をすることにした。

そして昨年、事実婚という形で結婚し、現在妊活中。先日悲しいことに流産してしまったので、現在は身体をお休みさせ、今後の妊活に備えているところだ。

今でも子供を産んでいいのかわからない


できれば戦争がない世界で、できれば環境問題のない世界で、さらに言えば、少子化とか子供何人に対してどれだけの高齢者をサポートをしなければならないとか、そういう今後訪れるだろう難解な課題がなさそうな世界で、子供を産む決断をしたかった。

生きていることは幸せだ。と言われているけど、生きている限り辛いことも隣り合わせだ。
辛い時期と幸せな時期を交互に味わったり、一定の辛い時期を乗り越えなければならないことが人生なのであれば、いっそ生物として誕生しない方が良いのではないかとも思う時もある。

会社員になって、子育て中でキャリアを失って派遣社員として働く女性たちや謝りながら子供のために会社を早退する女性を見て、明るく子育てできる希望なんてものも持てなかった。どうやってそんな希望を持てば良いのだろうか?

でもそれでも、私は子供が欲しい。

存在しないと思っていた「夫婦が仲の良い家族」というのを作ってみたい。
性欲と恋愛を1人のパートナーに依存するという「結婚」という無理ゲーにチャレンジしていきたいし、それが無理そうであれば新たな道をパートナーと話し合っていきたい。
妊活も、子育ても、必ず苦しみがセットで訪れるだろうけど、その苦悩を味わってみたい。

苦しむことは、決して悪いことだらけではないはず。
すべての「やりたいこと」は、苦悩とのセット売りが条件である。

私が今後生み出す可能性のある生命体も、苦悩と喜びを感じ続けながら生きるのかもしれないけど、そういう人生でいいのかもしれないと思ったし、むしろそういう人生だからこそ楽しいんじゃないかと思った。

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