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数えきれない撮らなかったものたちがある

怒涛の展示週間が終わったけど次の日からまた作品撮影を始めたので、良い意味で余韻に浸ることなく元の生活に戻れたような気がする。展示は特別なもののようにいつも感じている。いずれは自分の作品だけに打ち込んで生活できるようになりたいけど、やりたいことは毎日のように変化して行くのであんまり自分で決めたことを決めた通りに…ということに執着しないようにする。

セレクト

前回の少し続きだけど、今ある新しい作品群36枚を講評会に参加した全員で見て、良いと思った写真に挙手して反応を見たあと、瀬戸さんが改めてその場でザッと見直しセレクトする。その結果、36枚から10枚になった。そもそも36枚も本当は38枚あって講評会の直前に2枚を自ら削った。そしてそもそも38枚以上プリントしている。さらに言えばその38枚の決定プリントだけをプリントした訳ではなく、70枚くらいはプリントしている。さらに言えばプリントしていないネガが大量にある。もっと言えば撮らなかったものがこの世に数えきれないほどある。

選択の学問と言われる訳だ、と改めて思った。何を写すかよりも何を写さないか、というのはルイジギッリの写真講義に書いてあったがそれもよく分かる。

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しかし選択の学問と言いつつも、みんなが良いと思うものは必ずあり、そして誰にも挙手されなかった写真もある。もしかしたら人間はだいたい同じものを選ぶということかもしれないな。

その場で突然に現れた写真を直感的に選ぶから「別の日だったら違った」かも、ということも思うが、写真を撮る時だってその場で突然に現れたものを瞬発的に捉えなければならないのだから「別の日だったら違った」なんてことは毛頭考えることができない。だから見るときも同じだと私は思う。そんなことをボーッと考えながらネットでピンと来た写真に(写真だけに)お気に入りに追加して行くということを夜中にやってみた。こうすることも訓練のような気がして。

結局また写真考なブログになっちゃった。また展示したいな。

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