写真講義 @Place M
「Traveling11 旅しないカメラ」の展示が終了しました。1週間ありがとうございました。なかなか面白い展示空間で、かなり純粋に写真の話をたくさん出来て楽しかったです。年齢も国籍も何もかもバラバラですが写真が好きという一つのことで人がこうして集まっているのは良いなあ、と思いました。
土曜日は公開写真講評でこれがとても勉強になりました。それをここに書き留めておこうと思います。主に自分のことと、あとは自分が気付いたことなど。
USBを持って行ったので今作っている写真を皆さんに見てもらうことに。瀬戸さんの講評が始まって少ししてから音声を録音したのでひとまず文字起こししました。それとともに色々書いていこうと思います。この場でほとんど発言をしていないので完全に受身なだけなのですが、私はとても学ぶことが多くありました。
写真講評
まず白っぽいものを中心に撮っている、と初めに解説してもらいました。Place Mに通って少しずつ瀬戸さんと話すようになり、写真を見てもらうことも多くあり、そこで写真の中に「白」がある、と教えてもらいテーマを決めました。
・私の写真には中心がないと言う指摘。
…ただ問題はこういうことが写真として面白いかと言うと、中心がないものですからね、どうかっていう。でもここの空気感がなんか不思議と写ってるってことは僕は感じるんだけど。なんかあるわけじゃない。
これまで頂いた指摘で「主題のない写真」「気配がある」、この二つが印象に残ってるけれど、新たに「中心のない写真」が加わりました。
・たくさん並べないとよく分からない作品。
だからこれ一枚二枚見せられてもよく分からないタイプの写真だと思うんですよね。
専門学校時代に卒業制作としてバライタ5枚の風景写真(タイトル:Answer)を見てもらったことがありますが、この時も先生から「数が少ない、こういう写真はいっぱい並べた方が良い」と指摘されたことを思い出しました。
・意識は写真に必ず写る。
それと、これいろいろまだ、まだねえ、なんていうか不純物が入ってるとでも言うのかな、不純な、なんかいろんなものが混ざっている、もうちょっとねえ、こう極めると言うか。
白いものを撮ってはいるけれど、周りに不純物が多いとの指摘。ひとつ言えることは、この指摘を受けた写真は白をテーマに撮ろうと決めてから撮ったものではなく、以前撮ったものの中で白を感じたものを作品群に入れたのでそれがバレていると言うことは確かでした。撮影者の意識は必ず写真に写り、更に言えば鑑賞者に必ず伝わると分かりました。
・中心がないように見えてやっぱりある。
中心がないとは言え、やっぱりあるんだよ、白いとか何か。「私の中心はここだよ」と。
あるんだかないんだか分からなくなってきちゃった……。
・「空っぽ」と「ハッキリ写っている」の間にある。
カーテンとボケる風景が窓に映る写真を見ながら。(記事内写真の一番左)
大事なのはリアリティがあること。全部ボケていたら意味がない。これは布にピントが来ていることが大事だった。他は飛んでても良い。
とのこと。前回の個展「AUTOCORD」ではボケた写真も使ったけれどかなり指摘を受けて反省をした。ただ、ボケに魅力があるということには変わりないが、あまりにもボケが強いと何をしたいのか分からないといったようなことを前回の個展ではかなり多くの人から散々言われた。そしてそれに応えるだけの意思もなく、前回の個展では写真やカメラの特長を活かせなかった中途半端な写真も何枚かあった、という事実が残った。ただ、夜景のピンボケは色が強かったからか意外と気に入ってくれる人が多かった。
ということで今撮っている写真はピントをどこに合わせるかということを意識している。今になってやっと。
・「白」がテーマで「中心はない」、言うなれば「空っぽ」の写真ではあるが、カーテンにピントが合い「ハッキリ写っている」ことでその二つの間の過程にいるような写真とのこと、確かそんなことを言っていたような…。ルイジギッリの写真講義に出てきた写真はどこまで行っても二元論、というのを思い出し、本当にそうだな、と思った。
終
なんかそんな感じでした。言葉にするよりも写真で…、と思うけれどやはり説明が出来ないのはまだ霧の中にいるような感覚であるということだと思うしそれも写真に写るのでもっと自分の内側と向き合って外側に溢れるように表現していきたいです。あと、こういう場でももっと意見や思っていることを活発に発言できる人になりたいです。内気だからちょっと怖いの、訓練訓練。
作品はタイトルもあるしキャプションもあるのですが、、、それはまたの機会にします、要するに出直します。それではありがとうございました😊
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