「凡災」①

第5回 ことばと新人賞に応募した落選作「凡災」を一章ずつ掲載しています(1/15)


昼は祖母の室にいた。ともに生地に帰つた偶者がわかりますかわかりますかとふた言み言はたらきかけ愛想のない獣園の獅子のように組んだ両腕に伏せつた祖母がたまにあげて返事とも無視ともつかぬ微さで面をゆらす。きめられたわずか一五分は惜しみ惜しみ歓交わすはずだつたが、その実はむしろすることもなで余され施設員からふたりずつと口定められたのにしたがい早々と先からじれつたそうに覗く祖父と代わつた。野球帽と口覆をはいで顔をさらし距離のはずれたおお声で自らを示しつつ、わかるかわかるかと祖母の名をのせた唾泡を塩びにるのしきりに飛ばすのへ返しはかわらず微い。風破外套の両隠から二〇めくりずつ輪ごむできつくとめた年賀を出し場に似つかわしくない自在さで音も沙汰もなくて久しい者らの名を四〇か五〇書きつけたぺらりぺらりをひろげ、判じじみた仕ぐさでひぐちさんは書いた、わしおさんは書いた、めぐろさんももうだしておいたとよんでみるも、祖母の返しの微く鈍く無視に近いのに怒りまじりでしびれて横またぎついてきた杖でこづき、はんのうしやへんぎゃくたいされたいぬといっしょやなと悪態を滑らせた祖父もついにはこともなで余した。それから祖父あてと祖母あてとが混じる四〇か五〇めくりに、おれもずいぶんすくなななっちまったなあとひとりごつ。はじめはたらきがなくなりつきあいも減つた意と思うが差出す先がいちいち死んだのが本意と気づき、まだ友の死も常ならぬ身にそれが常なる祖父の身を照らしあの幾つきか幾ねんかかに一ど会うか会わぬかの人らの顔というより顔の醸すなりが浮かんでは消え消えては浮かぶうちいずれ生きている友かずに死んだ友かずがまさる時がくるがくるとしてもくる時はいつとも知れず予告もくぎりもなくもうきていたとあとで気づくしかないから足先がぬかるみに浸かつて濡れるような心地が下からひたひたとのぼりぞくつと冷えた。
名の思い出せぬ君とあつたのは学府の究室の属がきまるまえに匠授らの仲違いによりいずれかの究室が室ごと解かれんとするうわさが立ちこめた不安の霧の口だつた。あの匠授の室でなければ君は学府にすら用がない。ともに話すときの筋をそのあといつも彩ることになる憂さ遅さがまずはじめ文棟の東を抜け旧文棟のまえをよぎり工棟のまえの輪駐列にそつて北西門をくぐると百万遍へぬけ道路向かいのたいかれーに行き着いた。のこしかけられたかおまんがいをつつき掬いそれがとまり、いきなりアライくんの思ひ出が召された。
アライくんは君の中等の同級で、君らを育んだ豊慢層の屋邸街と工舎にはたらく者の社宅列とあらくれどもの溜池とが巴なるところのそれも彼は屋邸街に立つ孤児舎から出てきた。アライくんは細いのに長けた。小学の私札についた安全針で列車の区間札に走る磁気を掻き竄して幾度もつかえるようにしたし、それで駅と駅とを自在に逃げまわったのを科に検非に追われた。アライくんは君の隣にすべりこんだ。地揺を機にすでに東に越したあとしばらくして西に一時君がかえることがあり、あらかじめ聞きつけていた彼が駅から家にはこぶたくしーを狙撃い閉まる前の戸のすきまにもぐりこんだ。それでついこの一ねんまえ鳶職のアライくんが寝煙草につつまれ焼死んだ。葬儀には出られなかつた。
会つて間もない者のまえで唐突に召されたアライ君が今思えば君の飾らぬ自己紹介であつた。君は君のなりを表すのにその死によつて君がいかなる変様の途にあるのか説いてみせたとあとで悟られるとし月があつた。そのあと幾ねんかのつきあいになる君は報出しても返らぬことがほとんどで、たまに報あると幾つきかにひと度こうして話す友になりそのうちに彼のあと祖母が死に慕つた匠授が死に父が死んだ。死ぬことはいちいち驚くほどもなくありふれ、ただ老いて臥して徐々にいなくなるか、昨日まで話したのが急にいなくなるかの差異のみ際立つ。そのものもそのあともこの生活にかかわらず年賀のぺらりの減りやふいに出される話の味付けやごくまれの不都合だけがささやかな死のしるしだつた。
妻がひとりで夫はひとり母はふたりだが父はひとりで兄弟姉妹はひとりもおらず祖父母はひとりずつまだのこる。あの人が死んだといちいち知らされるのが血族ばかりで、遠くに住む友も忘れようとして思い出せぬひとりであつたかふたりであつたかの君や君らは今この時生きているかいないかいちいち報されず、ここではしるしを境にあちらとこちらをそれぞれわけるならわしがまるで役に立たない。境の曖昧な浅瀬がひたひたと裾を濡らし脚を冷やしつつどこもどこまでも広がるここにはかたちを持つ岸がない。


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