あなたはまだジョーカーを見ていない

(ネタバレあり)


ジョーカーはどもる。
ヒース・レジャーは喋り出す前に、唇をひくっと痙攣させ、ホアキン・フェニックスはソファに座ってテレビを見ていると足をがたがた鳴らす。面白くもないのに発作のように甲高い音で笑い声をあげ、必要以上に手足を揺らしてどたどたと走る。本来ならいらない動きが多すぎる。と、言ってしまったが「いらない」とは誰の判断だろう。

正直言ってトッド・フィリップス、『ジョーカー』の演出の質はかなり悲惨だ。そして残念ながらこれは別に珍しいことではない。暗所できらめくぎらぎらとしたネオンはリアルというよりもオシャレで、ここ二十年の間に定着したデジタル映像のつるっとした画面の質感は人間味に乏しく、ぐらぐら揺れるカメラワークは落ち着きがなく、編集は映っているものの動きよりも編集そのものリズムを重視して機械的だ。テレビコマーシャルのようにクリアで、ニュース映像のように意味的で、インスタグラムの写真のように鮮やかで、MVのようにリズミカルだ。これを美しいと思う人もいるかもしれないが、とにかくひどい。美しいと言うよりもなめらかで、あたりさわりがない。なにがひどいかというと、とにかく被写体への敬意がないのだ。

それでも『ジョーカー』に見るべきところがあるのは、ホアキン・フェニックスの肉体が絶えず痙攣するからだ。悲鳴のような高い声でセリフをまくしたてる彼、どたどた走る彼、痩身を揺らして不気味にリズムをとる彼、そしてどもりながらジョークを言うタイミングをなかなか掴めない彼。とにかくもどかしい動きで一生懸命なにかを達成しようとしては不器用に失敗する彼の身体の震えがいつも感動的だ。それなのにもう少し見たいと思うところでショットは途切れ、彼のどもりのリズムを無視し、彼の歪さを取り逃がす。本来最も生々しく、ノイジーな彼の身体の旨味を一つ一つの演出は隠してしまう。

とりわけ注目したいシークエンスがある。コメディアンとしてバーの舞台上に彼が立ち、母親に関するジョークを言うのだが、スポットライトに照らされ、息が上がり、小刻みに震えながらなかなか話し出せない。きらきらと目を輝かせてやっと喋り始めるが何を言っているのかよくわからないし、客にも受けない。ただこのシーンがたまらなく魅力的だ。彼の冗談ではなく、彼の身体そのもの、彼という存在そのものが画面を通して伝わってくる気がする。ただ不思議なのは、このシークエンスはまばゆいスポットライトに彼が包まれ、大きな音で音楽が鳴り響き、恋人らしき女性が客席から微笑みかけると、まるでステージがうまくいったようなムードが出来上がって終わりになる。あんなに不器用だったのに、そんなことあるだろうか。演出がなにかを隠したのではないか。

主人公、のちにジョーカーとなる青年アーサー・フレックはマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)という憧れのテレビ司会者(『キングオブコメディ』の意趣返しで、ロバート・デ・ニーロが演じている)に憧れている。あの日のフレックのステージは、偶然フランクリンの目に留まり、番組で彼のジョークが公開される。そこでは「僕がコメディアンになると言ったら、友人たちは笑った。今は誰も笑わない」という彼のネタが披露され、司会者は彼をコケにする。編集されたテレビ番組では、舞台よりもジョークの意図はよく伝わる。

いくつかの殺人を経て「ジョーカー」に生まれ変わったアーサー・フレックは満を辞し、メイクを施したピエロ姿でフランクリンのショウに登場する。悲哀に満ちたどもる泣き声でブラックジョークをいくつか並べる彼をなだめることに失敗したフランクリンはテレビカメラ目の前でピストルで脳天を撃ち抜かれる。まるで偶然映ってしまった衝撃映像だ。テレビ画面は放送事故後のお知らせの文言が入った静止画面に変わり、いくつものモニターが映った操作室に変わる。それは、これが映してはいけないものだったことを示している。映画の観客はテレビの観客に変わる。いや、映画の観客は自分がずっとテレビの観客だったことに気づかされる。フレックのノイジーな身振りは商売として流通するマス・メディアの商品からいらない部分としてずっと切り落とされてきた。それが今、ジョーカーによるフランクリンの殺害という放送事故は電波に偶然のっかり、まるで意味があるかのようにこれから町中に伝わる。マスメディアが事故としてしか描くことができなかったそれをいまや誰もが知っている。マスコミとポップカルチャーについて映画全体がそういう皮肉としてあるなら、そのときやっとこれは壮大なコメディになれる。

ポップカルチャーが、マスメディアが今まで画面に映さないように拒んできたものとはなんだったのか。それがマスクの下に隠してきたものとはなんだったのか。映画の終わりで、今までカメラに映されてこなかった痙攣的な身振りが善悪も、美醜もないところで力強く蠢き、巨大なダンスになり踊りながら街を破壊する。メディアを通じて語られる社会の中ではなかったことにされてきたもの、とらえきれなかったもの、意味のないもの、ただそこにあるものが一体となって躍動する。なぜこれが悲惨な質の映画かというと、そういうものがこの映画にもほとんど映っていないからだ。ジョーカーは、こうしていつもマスクの下でどもるのだ。

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