Stranger 「ぶっ放せ! ドン・シーゲル セレクション」(1/24〜)

「第十一号監房の暴動」(1954)


活劇かと思えば、メロドラマだった。
刑務所と聞くから、アクション・暴力・猟奇・脱獄など期待して見るがそのどれも見当たらない。気になるのは、暴動の首謀者らしきダンといういかにも恰幅のいい、悪ガキがそのまま成人しただけのようなジャイアン風の男が、まず四人の看守を人質として獲得するとき、独房の並ぶ廊下を手前から奥に向かって一直線に駆けるショットがやたらと長く艶っぽいとまで言いたくなる特別さで他とは区別されて撮られたショットである。
直後、第十一号監房の柵へと向かう所長が夜の中庭をサーチライトに照らされて歩くショットもまたやや長めに撮られ、ダンの疾走と比して対決する二人の運動を対称に並べたのかとはじめは思ったが見ていくとどうも違う。
ダンが望むのは看守たちへの報復でも、暴力によるフラストレーションの発散でも、脱獄による自由でもなく、受刑者としての待遇改善であり元将校の監房仲間「大佐」の入れ知恵で手の込んだ提案書まで作ってみせるから、どうもこれは刑務所を舞台にした虐げられた者たちの反抗を描く社会風刺の劇かと頭でっかちに解釈してみたくもなるがどうも違う。
ともあれ、待遇改善所を受け取ったハスケル理事が「君が書いたんじゃないだろうな。言ってることがまるで同じだ」と所長を腐すとき、所長とダンとは敵対者ではなく横並びに立つ同士であることをやっと映画が告白する場面は本作の核をなすはずだ。この同じ刑務所で長い時間を過ごす同士として、決してここを出ることができないダンはその境遇を体現するかのように、暴動の最中でさえ一度もこの第十一監房から外に出ない。
やっと彼が初めて出るのは、所長と知事とに承認されたはずの提案書が、州議会で否決されたと告げられるために所長の部屋に呼ばれるときである。二人にしてくれ、と側近の部下を外に出す所長の口調が妙にエロティックであることは見逃し得ない。女性のほとんど登場しないこの映画で、妻たちと再会する人質だった看守たちの場面の直後にこの顔合わせがあることも二人の関係を示唆するだろう。刑務所というひとつの「家」をよりよい環境に改善することをわずかに成功し、ほとんど失敗した二人は束の間、自分たちがカップル(夫婦)であることを映画の観客だけに告白する。このジャイアンめいた体の曲線さえかわいらしく見えてくる。「三〇年の追懲」をくらってすごすごと「家」に帰っていくダンが歩む独房の廊下の直線もまた、最後に少し長く映して特徴づけられるを得ないのだ。

「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」(1956)

宇宙からやってきた謎の種子からできた植物に侵略され、アメリカの街がひとつ見た目がそっくりの人間でない者たちによって複製され乗っ取られてしまうまでをそこから唯一生存して生き延びた男の視点で語るというリメイクにも引き継がれた設定をすべて抜きにして語ってしまうなら、これは単なるもう若者ではなくなりかけてきた一人の男の失恋劇である。
かつてプロポーズを断られた相手と久しぶりに再会した男は、それまで別れて過ごしていた時間が醸した郷愁のマジックでかつての親しい間柄を女との間に幻視するが、初めからこの女との恋愛の成就という未来は一度も約束されていないのだ。具現化した悪夢として何度も彼女の遺体を目撃し、その破壊を拒み、最後はキスによってそれがすでに恋人の身体ではないことを知る。
画面には何度も映っている一人の女が、「ただそう見えるだけで、本当にそうではない。そうでないにも関わらずそのようにしか見えない」という映画のマジックというか呪いを発揮するヒッチコック『めまい』の系譜の作品にあの洞窟のシーンだけでなると思った。
悪夢から目覚めるためにスパイ映画じみた逃走を演じるけれど、山登りと洞窟との群衆のチェイスシーンがネオレアリズモっぽいが、群衆をその力強さではなく人の心を失くしたゾンビたちの悪夢に変えてしまうところがアメリカ映画だと思った。

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