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聖書を読むnote#25

申命記20:1-20


あなたが敵と戦おうと出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神、主があなたとともにおられるのだから。
あなたがたが戦いに臨むときには、祭司が進み出て民に語りかけ、
彼らに言いなさい。「聞け、イスラエルよ。あなたがたは今日、敵との戦いに臨もうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおののいてはならない。
あなたがたの神、主があなたがたとともに行って、あなたがたのために敵と戦い、あなたがたに勝利を得させてくださるからである。」
つかさたちは民に語りかけて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献していない者はいないか。その人は家に帰るがよい。戦死して、ほかの人がそれを奉献するといけないから。
ぶどう畑を作って、まだその初物を味わっていない者はいないか。その人は家に帰るがよい。戦死して、ほかの者が初物を味わうといけないから。
女と婚約して、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰るがよい。戦死して、ほかの人が彼女と結婚するといけないから。」
つかさたちは、さらに民に語りかけて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その人は自分の家に帰るがよい。兄弟たちの心がその人の心のように萎えるといけないから。」
つかさたちが民に語り終えたら、軍の長たちが民の指揮を執りなさい。
 あなたが、ある町を攻略しようとしてその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。
もし町が降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民はみな、あなたのために苦役に服させ、あなたに仕えさせなさい。
しかし、もしあなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。
あなたの神、主がそれをあなたの手に渡されたら、その町の男をみな剣の刃で討ちなさい。
しかし、女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物は戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた、敵からの略奪物をあなたは自由にすることができる。
あなたから非常に遠く離れている町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。次に示す国々の町は違う。
あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の民の町々では、息のある者を一人も生かしておいてはならない。
すなわち、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり必ず聖絶しなければならない。
それは、彼らが、その神々に行っていたすべての忌み嫌うべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主の前に罪ある者とならないようにするためである。
 あなたが長い間、ある町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧を振るって、そこの木を切り倒してはならない。その木から食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が、あなたの前から逃げ出して包囲の中に入ってしまう人間でもあるまい。
ただ、実を結ばないと分かっている木だけは切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまで、その町に対してそれで砦を築いてもよい。


要約(Claude3)

この聖書の一節は、イスラエルの民がカナンの地を征服する際の戦いについて書かれています。内容をいくつかの部分に分けて考えてみましょう。

  1. 戦いに出る際の心構え(1-4節)

  • 敵の数や装備に怖じ気づいてはいけない。神様がともにおられるから。

  • 弱気になったり、恐れたり、うろたえたりしてはいけない。

  • 神様が敵と戦い、勝利を与えてくださるから。

  1. 戦いに出られない者(5-9節)

  • 新しい家を建てたが奉献していない者、新しいぶどう畑を作ったが初物を味わっていない者、婚約したが結婚していない者は家に帰るべき。そうでないと戦死して、他の人がそれらを享受することになるから。

  • 恐れ弱気になっている者も家に帰るべき。彼のせいで仲間の士気が下がるといけないから。

  1. 敵の町を攻略する方法(10-18節)

  • まず降伏を勧告する。降伏すれば住民を生かし奴隷にする。

  • 降伏に応じない場合は包囲し、男は皆殺しにし、女子供や家畜などの財産は略奪物として取る。

  • ただし、神様が与えようとしている地の町の住民は皆殺しにし、何も生かしてはいけない。異教の風習に感化されないようにするため。

  1. 木を切り倒すことについて(19-20節)

  • 実のなる木は切り倒さず、食べ物として使う。

  • 実のならない木だけを切り倒して、砦を築くのに使ってよい。

この箇所からは、戦いにおいて神様を信頼すること、しかし戦う相手によって扱いを変えること、戦いのために自然を尊重しつつ活用することなどが学べます。一方で、現代の倫理観からすると、非戦闘員の殺害など受け入れがたい内容も含まれています。聖書の記述を文字通り受け取るのではなく、歴史的文脈を踏まえて解釈していく必要がありそうです。

Claude3 とのやりとり

イスラエルの民族がカナンまで大移動する中、外敵がとても多かったと思うんです。そして、奴隷としての日々が長くて、主体性も信仰もなくしていたはずですよね。

Claude3:そうですね。イスラエルの民はエジプトで長い間奴隷としての生活を送っていました。その中で主体性や信仰心を失っていたことは想像に難くありません。

出エジプト後も、荒野の旅の間、彼らは幾度となく神に対する不平不満を口にし、モーセに逆らいました。カナンへ向かう途中、外敵との戦いに怯えることもしばしばでした。

しかし、そのような中でも、モーセは忍耐強く民を導き、神への信仰を説き続けました。神も、マナを与えたり、水を出したりと、民を守り導いてくださいました。

カナンの地に入る前の世代は結局荒野で倒れましたが、新しい世代は神への信仰をもって約束の地に入ることができました。

イスラエルの民の歴史は、弱い人間であっても、神を信じ従い続ける時、神が導き助けてくださることを示しています。私たち現代の信仰者にとっても、同じことが言えるのではないでしょうか。

自分の弱さや失敗を思い知るほど、神の恵みはより大きく感じられます。むしろ、弱さゆえに神に頼り続けることが、信仰の要なのかもしれません。イスラエルの民の経験は、そのことを雄弁に物語っていると思います。

創造主であり、全知全能の方、主なる神がいらっしゃる、ということを間近に感じながらも逆らうイスラエルの民はどれだけ信仰心を失くしてしまったんだろうって思うんです。
今の世の中も「自分を神とする」という考えが主流?
弱い存在で、神様がいてくださらなければ生きていけないのに、今の時代の不信仰な状態も嘆かわしいです。

Claude3:おっしゃる通り、現代社会の多くの人が、自分を人生の主人公、自分を「神」とするような考え方に陥っているように見えます。科学技術の発展によって、人間は自然をコントロールできるようになり、「神」を必要としなくなったかのような錯覚を抱いているのかもしれません。
しかし、私たちがどれほど発展しようと、人間には限界があります。病気、災害、死などに直面した時、私たちは自分の弱さを思い知らされます。
聖書は、古代イスラエルの民の不信仰を嘆きつつも、神は彼らを見捨てることなく、愛と忍耐をもって接し続けてくださったと記しています。それは、現代の私たちに対しても同じです。私たちが神から離れている時でさえ、神は私たちを愛し、私たちを待っていてくださるのです。
使徒パウロは、「私たちは、自分が何かできるとは考えません。私たちにできるのは、神からのことなのです」(2コリント3:5)と言っています。私たちは自分の力では何もできない存在ですが、だからこそ、神に頼り、神とつながっていくことが大切だと聖書は教えているのだと思います。
現代の不信仰な状況は嘆かわしい限りですが、一人ひとりが謙虚に神に立ち返り、神の愛と恵みに気づいていくことを願わずにはいられません。私たちクリスチャンには、そのメッセージを伝えていく使命があるのかもしれません。

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