体験型イベントの参加者は主体であるのか?客体であるのか?

謎解きイベントを始めとする、体験型イベントの参加者は主体なのか客体なのか?ということを考えながら書いた文章です。

主体と客体がわからない人はいないと思いますが、一応Wikipediaから引っ張っておきます。

世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。 客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。

◆イベントのときの参加者

一般的に普及した「リアル脱出ゲーム」を考えた時には、参加者は完全に主体であると言い切っていいのではないでしょうか。

謎を解く(主体)、脱出する(主体)参加者のみがそこに存在します。

◆参加者が何者かであるイベントの参加者

たとえば、「あなたは医者です」とか、「あなたは謎のXです」みたいに役割を振られており、その役に応じてやることがあるものを想定しています。(例がどう見てもある飛行機からの脱出)

この場合においても、役割を演じるという要素はイベント内に存在しますが、その演じた役割自体は参加者の主体のみと考えることが出来るでしょう。

◆もっと参加者がイベントに関わるもの

ある種のイマーシブや双方向性のイベントの場合どうでしょう。この場合は

参加者が1人もしくは少数グループの場合、意図的に主体と客体を入れ替えることが出来る、でしょう。

参加者が複数人以上の場合、意図的であろうとなかろうと参加者が客体となる時間が存在します。自分や自分と近しくない参加者が主体となり、自分自身はイベントの中身として見られ、知覚されるシーンが存在します。

※この主体客体の変化の妙こそが、没入度なる謎の感覚の現れである可能性。

◆参加者のみで構成される遊び

例えば人狼ゲーム、例えばマーダーミステリのように(GMと言った半ゲーム外の存在を除き)参加者のみで構成されるイベントの場合、参加者は主体であり同時に客体となります。

◆よく「茶番」と言われるのはなぜか?

ここで、体験型イベントにおいてイベントないのキャストと何かやり取りが発生するタイプの構成において、度が過ぎたものを「茶番」と言うことがよくありました。

私はこの表現が大の嫌いなのですが、しかしながらこの嫌いの理由が名言が出来ずモヤモヤが続いていました。

若しかすると「客体であるはずの参加者が、客体としての認識が過度に不足している場合」に、キャストとのやり取りが茶番になるのでは無いでしょうか?

(昔から「なんかイキってるオタクが苦手なんだよなあ」という変な感覚があったのですが、イキってるオタクという表現は正しくなく客体である認識が過度に不足している人間が苦手、という方が正しそう。ごっこ遊びとの違い)

◆まとめ

見ていいのは見られる覚悟があるものだけ


三月ちゃんをいろんなイベントに出張させることが出来ます。ヤバそうなイベントに自分で行く気はないけど誰かに行ってきてほしいときに使ってください。