見出し画像

【日記】劇団石(トル)の「きむきがん済州四・三鎮魂劇 流民哀歌 ―四月よ、遠い日よ―」を観劇する

 はじめに、笊に載せたたくさんのおにぎりとゆで卵が観客たちに配られる。「梅干しとキムチ、どっちがいい? わたしには分からん」 「あんたゆで卵みたいな顔をして」 それは虐殺から山中へ逃れた者たちへ麦飯を運んだエピソードだ。その笊は運よくわたしの席にも回ってきて、キムチだったらいいな、と思いながらラップにくるまれた小さなむすびをひとつ手にした。

 それから、紙と棒でこしらえた人形たちがやってくる。いまは亡き済州島の人々であり、日本へ逃れてきた人々の似姿でもある。密航船でみなを日本へ連れてきたシンさんが日本で亡くなったときにシンさんの葬式にはだれも来なかった。葬式に出ればじぶんが密航してきたことが分かってしまうから。

 そんな語りのあとで、紙と棒の人形たちがやはり前列の観客たちに手渡される。「社長さん、済州島から来たこの子たちを雇ってください。働かせてください」 観客はそれぞれ人形を手にして劇を見つづける。

 舞台では、生きるために文字すらも読めない国で必死にはたらく人びとが一人びとり、椿の台座に据えられていく。「わたしはキムチ屋」「わたしはパチンコ屋」「わたしは廃品回収」

 舞台いっぱいに立ったそれらの似姿は、やがて済州島に残った人々の運命となる。容赦ない軍人や警察官が手にした竹竿によってかれらはなぎ倒され、宙に飛び散る。銃声。叫び。日本へ逃れてきた幼い少女を抱きしめながら胸が張り裂ける。アイゴー(아이고~)。大地に飛び散った人形たちは前列の観客たちの手も借りて和紙の船に乗せられて退場していく。

 朝から冷たい雨。午後に、当初は奈良のギャラリー勇斎で開かれている安藤栄作さんの個展を娘と二人で見に行くつもりで、娘は奈良演劇のチラシの打ち合わせをそのために午前中に変更してくれたのだが、JR奈良駅から車椅子でぶらぶらとあるいて隣の立ち飲みスタンドで利き酒して気に入ったやつを買って帰ろうなぞと話していたのだが雨ではそれも厄介で、利き酒は我慢して車で近くまでとも考えたが杖をついての歩行は濡れた路面も危うく、娘の方から「やっぱり今回はやめておく」と言ってきた。

 それでわたしは急ぎ夕飯の粕汁とお昼に皿うどんをつくって、天王寺行きの電車にぎりぎり飛び乗った。在日本済州四・三76 周年犠牲者慰霊祭。コロナ禍のZOOMではなんどか見たけれど、やはりいちど現地で参加してみたかった。北口の交差点を渡ったラブホテル街の路地には少々太っちょの立ちん坊が三人ほど、さびれたホテルの軒下に傘をさして立っていた。統国寺はそこからじきだ。

 冷たい雨のなか、テント下のパイプ椅子にすわった。読経があり、追悼の辞があり、在日コリアンのグループによる追悼演奏があり、会場を屋内に移しての第二部が劇団石(トル)による「きむきがん済州四・三鎮魂劇 流民哀歌 ―四月よ、遠い日よ―」であった。

 会場で頂いた四・三事件を説明した小冊子のなかに作家の金石範の言葉が引かれていた。

記憶が抹殺されたところには、歴史がない。歴史がないところには、人間の存在がない。つまり、記憶を失った者は、人ではなく死体のような存在である。半世紀近くも記憶を抹殺された「四・三」は、韓国の歴史に存在してこなかった。口にしてはならないこと、知っていても知ってはならないことだった。私は、これを「記憶の自殺」と呼ぶ。恐怖におののいた島民たちが、自ら記憶を忘却の中に投げ込んで殺した「記憶の自殺」だった

金石範


 わたしはこのごろずっと、死者の記憶と交わることばかりを考えている。その手法について模索している。それはやっぱり124年前に死んだ郡山紡績寄宿舎工女・宮本イサや、104年前に18歳で死んだ女工・金占順(김점순、キムジョンスン)のことである。わたしは彼女たちの記憶をどうやって現在に蘇らすことができるだろうかと考えている。済州島から密航船に揺られてわたしに手渡された人形はキムジョンスンであった。

 帰り道に傘を差しながら食べたおにぎりはキムチだった。韓国海苔に包まれたそれはまだほのかに温かかった。米と麹だけでつくってきたけれど劇中に使うタイミングがなかったらぜひ呑んでいってくださいそれも死者の供養になると思いますからとふるまわれたマッコリも酸味が利いて美味しかった。食べ物と飲み物が死者の記憶と交わる。ラブホテル街の立ちん坊は一人に減っていた。帰宅して、家族が寝静まった自室で、人形のキムジョンスンと語り合っている。




▶︎有料設定の記事も、多くは無料で全文読めます。あなたにとって価値のあるものでしたら、投げ銭のつもりで購入して頂けたら、「スキ」同様に大きな励みになります。加えて感想をコメントに寄せて頂けたらさらにうれしいです。