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【春の特別開扉】興福寺・北円堂の無著菩薩と世親菩薩を見に行く

朝9時前の興福寺境内

 朝からひさしぶりの自転車で興福寺まで走り、北円堂の運慶作とつたわる無著(むじゃく)、世親(せしん)の像を見てきた。9時の開扉と同時に入って、堂内のポジションをあれこれと変えながら二つの像を眺めつづけ、辞するときに手元の時計を見ればきっちり一時間を過ごしたことになる。濃密な時間であった。お腹がいっぱいになって、他に寄り道をする気になれず、臓腑でゆれる何物かをこぼさないよう、まっすぐに帰ってきた。

春の特別開扉は5月7日まで


 ふつうの仏師であれば、魂のふたつやみっつくらいは取られてしまってもおかしくない像だ。無著と世親は5世紀の頃、インド西北に位置したガンダーラ国(現在のパキスタン、ペシャーワル地方)の兄弟僧。一説では兄の無著が過酷な修行の果てに兜率天へ昇り、そこで弥勒菩薩から唯識のおしえを伝授されたともいわれている。

 じっさいに、無著が両手にささげ持った布で包まれた箱は、あれは何が入っているのでしょう? とそばの寺の者に訊くと、骨壺か、もしくはブッダが托鉢に使っていた容器との説があるとの返事がかえってきた。「弥勒下生(みろくげしょう)に際して礼拝供養されると説かれる仏鉢(無著分、袋に包む)と仏舎利(世親分、宝珠または宝塔に入れる、亡失)」ではないかという説は近年出てきた解釈らしいが、それがほんとうであるなら、56億7千万年後に下生して人びとを救う未来仏・弥勒からブッダのおしえを引き継いだという無著にふさわしい。

北円堂

 老貌の無著はほそい顎とひきしまった口元に一見厳しさを感じるが、目元は「56億7千万年」を見据えた哀しみをたたえているようにも見える。伏し目がちの目線は「心のほかには実体はない」とする唯識のおしえのとおり、もはや見るものは内なる真実のみだという諦念を感じる。

 一方で兄よりも若い壮年の僧をあらわした弟の世親はふくよかで力がみなぎり、その視線もずっと遠くを見つめているが、わたしにはその瞳が何やらこの人のある種の不器用さをあらわしているようにも感じられた。武骨で、ひたむき。だが、迷いがある。大逆事件で獄中自死した僧・高木顕明の瞳に似ている。

「心のほかには実体はない」とする唯識のおしえは、その心の存在も「一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく」。わたしは老貌の無著を長い時間、見つめ続けた。かれが生きた時代、ブッダが死んですでに千年の時間が経っている。それでもかれと弟は、兜率天で弥勒から預かったというブッダの依り代である仏鉢と仏舎利をささげ持つ。56億7千万年の時間のなかでは、ブッダが死んだのは先週の水曜日だ。

堂内は撮影禁止


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