旧「大宮島」(グアム島)で日本軍の戦跡をたずねる 【My Dark Tourism Guam】
グアムは1521年、ポルトガルの探検家マゼランによって「発見」された。マゼラン側の記録によれば船の装備品を盗まれたことに腹を立てたかれらは、島民を殺害し多くの家屋を焼き払い、島を Islas de los Ladrones (泥棒諸島)と名づけたという(ザビエルが日本へ来る30年ほど前のことだ)。
その後、島はスペインの植民地とされ、イエズス会の宣教師たちが島民たちの伝統的な習慣や文化を禁じたために不満が噴き出して争いに発展し、反抗的な村々はことごとく焼き払われて10万人いたという島の人口が一時は5千人にまで激減したとされる。
1898年、アメリカ・スペイン戦争によってグアムはアメリカへ譲渡される。1941年12月、真珠湾攻撃から5時間後に開始された攻撃によって日本軍が島を占領。「大宮島」と名づけて、日本人の兵士や行政官、民間人の他に、強制連行された朝鮮半島出身者、琉球出身の契約労働者、近在の島の日本語を話す住民たちも移住し、島内には15の国民学校が建てられて島民の日本化教育を行い、神社や交番や料亭、慰安所等がつくられ、稲作水田が強制 された。
1944年8月、再上陸したアメリカ軍によってグアムはふたたびアメリカ領となった。約2万人に及ぶ日本軍の兵士が死に、アメリカ軍側も2千人以上の死者を出し、さらに日本側によって虐殺された島民も700人に及んだ(ちなみに上記約2万人の日本軍兵士の遺骨のほとんどは不明のままで、いまも島内全域に眠っている)。
戦後、アメリカの巨大な軍事基地が置かれたグアムは1960年代のなかば頃まで外国人はもちろん、一般の米国人でさえ入島が厳しく制限された「立入り禁止」の孤島だった。
しかし1962年にこの入島制限が解除されると、1964年の日本の海外渡航自由化とも重なり、日本人による慰霊団が少しづつ増え始め た。新設されたグアム政府観光局は1967年頃から日本のメディア取材を積極的に招致し、それに伴ってテレビ番組(兼高かおるの世界の旅)や水着のポス ター(東レの水着キャンペーン)、テレビドラマと挿入歌(ザ・ガードマン、藤巻潤「恋のグアム」)、若大将シリーズの映画(「ブラボー! 若大将」、「グアム島珍道中」)などによって「青い海、白い砂」のあたらしいグアムのイメージが大量に日本に流れ始めた。そこへ1960年代には日本中の3組に1組は 「南国の楽園・宮崎県」を訪ねたという新婚旅行のカップルたちがグアムへ押し寄せた。
それに呼応するかのように1968年のフジタを皮切りに日系ホテルがタモン湾沿いに次々と建設されていった。1970年に従来機の倍近い400人を運ぶことができるジャンボ・ジェット機が登場、さらに1972年のオイル・ショックでこのジャンボの空席を埋めるために団体割引などができ、さらなる運賃の低廉化と海外旅行の大衆化がすすんだ。
しかし若大将シリーズ「ブラボー! 若大将」がグアムで撮影された1969年には、ロケ地から数キロ先のジャングルでは、いまだ日本兵の横井庄一が必死に「大宮島」を生きていた。そして1970年代のグアム新婚旅行のパッケージは主に有史以前の遺跡やスペイン統治時代の旧跡で構成され、すでに「「大宮島」時代の記憶も、ベトナムで凄惨な 戦闘を続けていた米軍の現状も、その島で生活しているグアムの人々の存在も、きれいに排除されていた」(山口誠「グアムと日本人」岩波新書)のだった。
便はティー・ウェイ航空。韓国人のスチュワーデスたちはどうしてマッチ棒のように細くて、しかも美人ばかりなんだろう。昼前に関西空港を発ち、夕方のグアム国際空港へ無事到着した。ちなみにこの空港は1941年の日米開戦後に日本海軍の飛行場として建設されたものだ。空港ではそれぞれ娘のために車椅子を借りたので、チケットや検査などすべてにおいて優先してくれて待ち時間はとても少なかった。グアムでも日本人のスタッフが親切にホテルのタクシーまで手配してくれた。まだ若い彼女は訊くと、奈良の橿原が実家だというのでびっくり。
タクシーですんなりタモン湾沿いのアウトリガー・ホテルへ着いた。部屋は16階 のオーシャン・フロント。「オーシャン・ヴュー」はベランダに出て横を向くと海が見えるが、「オーシャン・フロント」は真正面、視界のほぼぜんぶが海だ。 もちろん値段もぐんと高くなるわけだが、「もし娘の体調が悪くて部屋で過ごすことになっても愉しめるように」という母の涙ぐましい配慮による。もともと海外というのは、娘が中学のときに予定していてパスポートも取ったニュージーランドの修学旅行がもろもろのアクシデントで行けなくなり(そのためにわたしは学校側と大喧嘩をした)、その修学旅行代わりに、というこれも母の涙ぐましい心遣いによる。
しばらく部屋からの景色に歓声をあげて、旅装を解いてから、娘のまず一番目のリクエストである「本物の銃を撃ってみたい」をやりにホテルを出た。ホテルに直結したショッピング・モールを抜けて、ひろい坂道の、いかに もアメリカンなストリートに立って、ああ、巨大なUSJやディズニー・ランドのような街だな、と理解した。空港からわずか10分程度。日本語の通じる高層ホテル、ジュエリーやウォッチ、ブランド品が並ぶショッピング街や飲食店街。循環バスに乗って行く先もおなじような「つくられた消費のための街」だ。そし て目の前に広がる果てしなく青い海と遠浅の白いビーチ、ウォーター・スライダー付きのプール。
このグアムの土地のわずか1%の「楽園」で数日を過ごして、 空港の免税店でお土産やブランド品をたっぷり買って帰国すれば、グアムはまさに巨大なUSJやディズニー・ランドとなんら変わらないだろう。あまりにもすべてが当てはまりすぎていて、逆にそのことに驚いているじぶんがいる。
ウエスタン フロンティア ヴィレッジはホテル前のストリートをほんの数百メートルのぼったあたりにある、日本人経営者による実弾射撃場だ。ちなみにアウトリガー・ホテルを選んだのは立地が良いからで、「立地が良い」というのは「娘の足でも何とか歩ける範囲内にたいていのものが揃っている」という意味である。ホテルでも車椅子を貸してもらって、滞在中はホテル外にも自由に持ち出して使ってくれて構わないということだったが、車椅子自体がやはり白人向けなのかがっちりした重いもので、 加えてホテル前の道が坂道の途中でアップダウンもきつかったので結局、外ではほとんど使わなかった。ふだん使っているモンベル購入のトレッキング・スティックが活躍した。
実弾射撃は娘に言わせると「銃を撃つシーンを書くときの参考に、実際に体験してみたかった」というもの。予約なしで、夜遅くまでやっている。当初は娘だけと思っていたが、実際に目の前にしてみたら、こんな機会もそうそうないだろうからとわたしもちょっと欲が出てきた。
娘は反動の少ない 22口径のセミ・オート・ピストル24発。わたしは38口径 (回転式) 12発 + 44口径 (回転式) 12発 + 45口径(セミオートピストル) 6 発。二人で85ドルは高いのか安いのか、比較するものがないので分からん。じっさいに本物の殺傷能力のある銃を撃ってみて、まあ、こんなものか、という程度の感想しかない。銃でなくとも釜でもロープでも何でも人を殺すことはできる。ひとつ分かったのは、よくアメリカ映画の中で主人公が片手で何発も連射する シーンがあるが、あれはどうも嘘くさいというものだ。反動でとても狙えたものではない。
わたしたちが終わる頃にかなり酔っ払った赤ら顔のおやじが来て、 「酒を飲んでいる人は危ないから駄目だ」と断られていた。「おれが撃つんじゃねえ。おれは金を払うだけ」とその日本人の男は連れてきたこちらはシラフのおばちゃん連中の支払いだけ済ませて、一人ふらふらと帰っていった。
夕飯はほんとうは翌朝食べに来る予定だった射撃場の並びにある Eggs'n Things。もともとハワイで有名なパン・ケーキ店らしい。早朝7時の開店から列が並ぶらしいが、このときは比較的空いていた。わたしはチャモロ風ロコモコ、つれあいはほうれん草のオムレツ、娘はエッグ&ソーセージ。そして食後に待望のストロベリー・パン・ケーキ。だいたい一品13~15ドルするが、こういうときはいちいち日本円に換算してはいけないと思う。
料理は全般的においしかった。店員の愛想もいい。この店は見た目だけれど、働いている店員はほとんどがフィリピン人のようだ。前述の「日本人とグアム」によれば、2007年のデータで約17万人のグアムの人口のうち、1割が米軍の将兵とその家族。残り9割の内訳は、先住民のチャモロ人35%、フィリピン人30%、米国系白人とグアム周辺の島からの移民が各10%、その他(日本、中国、韓国などアジア 系が多い)が合計15%だという。
ホテルの階下にあるABCストアで缶ビールと明日の朝食用のパンなどを買って部屋へもどった。缶ビールは350m一缶が2ドルくらい。日本とほとんど変わらない。サンドイッチなどは、あまりおいしそうにも見えないのが6ドル近くもして買う気にならない。やはり観光客向けか、全体的に値段が高いように思う。
つれあいと娘が順番にシャワーを浴びたりしている間に、わたしはふと思いついて、夜のビーチを散歩してくることにした。フロント階の下のP階で降りると、 そのままコインランドリー、フィットネスなどを横目に狭い廊下を抜けて、ホテル内のプールからその先のビーチへそのまま出れる。
すでに夜の22時を越えていたろうか、ビーチにはわずかなカップルと家族たちがちらばっているだけだった。しばらくパウダー・サンドとよばれるきめの細やかな砂浜を足裏に感じながら歩いていくと、ちょうどハイアット・リージェンシー・ホテルの前あたり、結婚式場の教会のような建物の正面に出来損ないのコンクリートの基礎のようなトーチカを見つけた。
迫り来る米軍の上陸に備えて日本軍が構築したものの残骸だ。トーチカがあるということは必死の形相でここに籠もっていた兵士がいたのだろう。あるいはその兵士はここで死んだのかも知れない。そのとき、青い水平線には無数の黒い艦影がぎっしりと並んでいたことだろう。
わたしはトーチカの中へ入ってみた。そして銃座からしばらくしずかなタモン湾を眺めた。一瞬、空間が大きく揺らいだような気がした。もうひとつの異なる空間がここにあって、 恰も地層がずれてべつの地層とつながりかけたような、そんな揺らぎだ。グアムはすごいところだ、と思った。ここは島まるごとが巨大な御霊神社なのだ。そしてだれもがそれを(少なくとも日本人のわたしたちはみな)嘘と無関心で塗り固めて済まし顔でいる。
翌日は朝からレンタカーを借りて島内をめぐった。
日本であらかじめネット予約とクレジット決済を済ませていて、当日は通路でつながった隣のデュシタニホテルのロビーまで迎えが来て、いっしょに事務所まで行って車をもらう。車は当初、娘の車椅子が積めたらと思ってやや大きめのRVクラスを頼んでいた(結局、 車椅子は積まなかったが)。確かマツダの CX-5だったと思う。24時間で65ドル。じっさいはこれに任意保険や保証金、カーナビ代などがかかる。
ところで初めての左ハンドル、右側通行だ。方向指示器と間違えてワイパーを動かす。右折は赤信号でも行ける。右左折するときはつい癖で左側へ入ろうとしてしまう。中央のイエローベルトは両車線の緩衝地帯のようなもので、左折インのときにはここへ入って待つ。何もないところでは35マイル規制。ブルーゾーンに停めると罰金500ドル。黄色のスクールバスは追い越し禁止。戸惑いながらも20~30分もしたらどうにか慣れてきた。
問題はナビゲーションだ。レンタカー屋でくれたドライビング・マップはアバウトであまり役に立たない。さいしょは島の北部にある戦没者慰霊公苑を目指してタモンから東寄りの1号線をすすもうとしたのに、どこで道を間違えたか西よりの3号線を走っている。あわてて路肩に停めて、別料金で付けてもらったGPS(カーナビ)で目的地設定をしようとするのだけれど施設名がヒットしない。諦めてマップ上のだいたいこのあたり・・ の設定で走ってみたら、どんどん幹線道路をはずれてひなびた田舎道になり、やがて舗装も切れて、山賊でも出てきそうなさみしい砂利道にひっぱられ、挙句は道のないところが道だ、行けと言う。ノーリードの犬が二匹、車の横をうろつき、林の奥のやや荒れた感じの家の前で黒い顔をした男が怪しそうにこちらを見ている。別の道を行っても何度もおなじような繰り返しで、最後に無理やりぐるりと回り込んで別の幹線道路に出て、それからはじきだった。
正式には南太平洋戦没者慰霊公苑(South Pacific Memorial Park ※ドライブ・マップには平和慰霊公苑 Peace Memorial Park とある)の設立は、もともと1965年、植木光教参議院議員(自民党)を団長とする日本人慰霊団がグアムを訪ねた際に、後述する日本軍によって斬首されたデュエナス神父の同僚であったチャモロ人のカルボ神父に面会し、侵略者であった日本人と被侵略側であったグアム住民とが協力して双方の戦没者を慰霊するための記念碑を共同で建設することを計画したことに端を発している。
ところがその後、米国本土の退役軍人たちの反対運動などによって計画は一時中断を余儀な くされ、名称を平和記念塔( Peace Memorial )に変更して世界平和を祈念するという漠然とした内容となり、当初予定されていた慰霊観光の中心となるような公苑内の噴水や日本庭園、売店などの建設もなくなり、慰霊塔のみの簡素な形になった。確かにジャングルに囲まれた小高い丘の上に簡素なフェンスで囲まれた慰霊公苑は、ひっそりとして、忘れ去られたような静けさに満ちていた。妙にすべてが明るく、静謐だ。
平和寺と書かれたコンクリート造りのお堂があって、その前で年輩のチャモロ人と日本人の男性が立ち話をしていた。わたしたち家族を見て、「ふだんは閉まっているんだけれど」と堂内に招いてくれた。堂内はまさに戦死した日本軍兵士たちの弔いの場所であっ た。すっきりしたタイル張りのフロアの正面に仏像が三体ほど並び、右手の壁面には無数の折鶴が長いハンガースタンドに吊るされてならび、左手にはおそらく 島内で収集されたのだろう日本軍のさまざまな錆付いた遺留品が硝子のショーケースに陳列されていた。その痛々しい遺留品の上には「英霊が栄光を賭けて得た 尊い平和に 感謝を捧げましょう」との文字が躍っている。栄光を賭けて得た平和? ほんとうにそうか?
「どちらから来られたんですか?」 60歳前後くらいだろう、日本人の男性が訊いてきたので「奈良からです」と答えると、「ああ、奈良から。 高市さんにはよく来てもらっています」とその男性は言うの だ。「ああ、高市さんねえ」とわたしは曖昧に笑う。そうそう、日本側の南太平洋戦没者慰霊協会を名乗る Web Site には名誉会長として元首相の森喜朗、顧問として現首相の安倍晋三の名が紹介されているのだった。そろそろ「英霊」たちをこういう連中の手から解放してやる べき時なんじゃないのか。
男性は25年前に日本から移住してきて、もともとは飲食業などで働いていたらしいが、いつの間にかここの施設の世話役も務めているという話だった。そしてレンタカーで来たわたしたちに「よくここまで来れましたね~ 結構みなさん、道を迷われるんですよ」と言った。男性と話しているつれあいを残して、平和を祈念する合掌がモチーフだという慰霊塔を見に外へ出た。
巨大な白い慰霊塔の横には、ここで全滅した各部隊ごとの遺族らが建立した供養碑が並んでいる。大きさも添えられた文言もそれぞれだが、思いの目方はどれも耐えようもなく重い。そんなものをひとつひとつ眺めていると、アメリカ軍の戦闘機が頭上の真っ青な空を引き裂くように飛んでいく。
慰霊塔を正面に見た右端に、黄色い手すりのついた、広場からジャングルの冥府へと下っていくようなコンクリートの急な階段がある。それを降りると、そこが当時叉木山と呼ばれた、 この山中に追い詰められた将校と残りのわずかな兵士たちが自害した、日本軍の最後の司令部跡とされる洞窟が残る場所である。熱帯の植物に囲まれたジャングルにぽっかりと空いた広場のような棚地で、そこから四箇所ほどに入口をコンクリートで固めた洞窟の暗やみが口をあけている。
変な言い方だが、負けて、追いつめられた者たちにふさわしい凡庸な場所だなあと思った。何だか、ふだんは子どもたちが隠れん坊でもして遊んでいるかのような間延びした空間で、案外と人はそんな凡庸な場所で死なねばならないのかも知れない。階段を下りてくるときはやけに太った油色の蛙や、たくさんのトカゲが足元から逃げていったが、ここは無数の蚊がすぐにまとわりついてくる。
広場へもどると、先ほどのチャモロ人の男性が車に乗ってどうやら待っていてくれたらしい。娘のために、ゲートの入口まで車で送る、どうぞ乗ってくれ、遠慮をするな、と言う。車内での短い会話だったが、かれの奥さんが日本人で、おじいさんも日本人だという。チャモロ人側でこの施設の管理にたずさわっている人らしい。これからどこへ行く? と訊かれて「イナラハンの聖ヨセフ教会に」と言うと、「ここから30~40分ほどだ」と教えてくれた。
相変わらず施設名検索がヒットしないおバカGPSだが(聖ヨセフ教会 Saint Joseph Church すら出ない)、こちらも少しづつ勝手が分かってきた。南部の歴史保護区でもあるイナラハンのだいたい中心部に目的地設定して走り出せば、南下した車はじきに気持ちのいい片道1車線の田舎道、そして気がつけば美しい海岸線沿いのワインディング・ロードを走っていた。何だか日本の南紀の海岸線にも雰囲気が似ていて、「もうじき串本か? 下津か?」なぞとみなで笑い合った。
タロフォフォ湾手前の Jeff's Pirate's Cove で昼食。白人系米国人が経営する海賊をテーマにした海辺のレストラン兼みやげ物屋で、店員はみなドクロマークのTシャツを着ている。わたしは厚さ十数セン チはあるだろうボリュームたっぷりの定番チーズバーガー。つれあいと娘は日替わりの、ピタパンに特性ソースがかかったラム肉のセットを二人でも食べきれないと言いながら分け合った。この後、娘は暑さに参ったか旅の疲れか、少々体調が悪くなって後部座席で横になることしばし。
車でグアムを回ると、タモン湾周辺のいわゆる観光客相手のホテルや免税店が立ち並ぶエリアがグアムの中でいかに特殊な地域かということがよく分かる。その他の町は、まあ村といっても差し支えないくらいのどかで、行政府が置かれているハガニアにしても町としての規模は知れている。古代からのチャモロ文化やス ペイン統治時代の遺跡が残るイナラハンも、車で走ればあっという間に通り過ぎてしまうような質素な佇まいだ。
幸い目指す聖ヨセフ教会は幹線道路沿いに、まるで造られたばかりのような綺麗なベージュ色の堂々とした趣きで立っているので否が応でも目にとまる。1944年7月、アメリカ軍による再上陸作戦が目前に差し迫った頃、この聖ヨセフ教会のイエズス・バザ・デュエナス神父は、日本軍の占領からジャングルに逃げ隠れていたアメリカ軍通信兵の潜伏場所を追求され、衆人環視のもとで行われた四日間の拷問の末にかれの甥と共に日本軍によって斬首されたのだった。
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