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マラソンが大嫌いだった人が、500㎞走ってみて気づいたこと

「マラソンなんて、この世からなくなっちまえばいい」

幼いころからずっと、そう思っていました。

小学校時代、根っからの運動オンチだった僕にとって、寒いこれからの時期は憂鬱で仕方がなかった。
その理由は、持久走の存在。
週3回、休み時間をつぶされた上に走りたくもないグラウンドを延々と走らされ、最後に行われる「大会」では、丁寧に全員の順位がつけられる始末。

僕の順位はだいたい一ケタだった。
もちろん、下から数えてですよ。

36位と29位が、僕を指さしてバカにしてきた。
何も言い返せない。悔しい。

「頑張ったじゃん」と、14位が肩で息する僕にタオルをかけてくれた。
ごめんな、その優しさは逆にキツいんだよ。

スタート時に「一緒に走ろう」と声をかけてきたアイツは63位だった。
あの野郎、俺より数字が半分も少ないぞ。なんなんだよ。

中学・高校時代、部活の冬練でチーム対抗マラソンが行われた際には、僕をめぐって各チームでの熱い押し付け合いが繰り広げられた。
高校3年生で部活動を引退したときには「やった!これでもう、毎冬の基礎練習をやらなくていいんだ!」と心の中で小さくガッツポーズしたのを憶えている。

まあそんな感じで、走ること、特に長距離走に関しては全くいいイメージがなかった僕なのですが、ちょうど1年位前からでしょうか、自分でもびっくりするくらいにランニングにハマってしまいまして。
今年の累計走行距離を見たら、なんと500㎞以上も走っていました。
初めは1㎞走るのすら精一杯だったのが、今では10㎞以上の距離を難なく走れるようになり、短い距離なら1㎞5分を切れるようになってきました。
ゆくゆくはハーフマラソンやフルマラソンに出場したり、野山や山林を駆け巡るトレイルランに挑戦してみたいな、と大それた目標まで立てちゃっています。

この記事は、成功談とか、ランニング初心者のためのノウハウを提示するものではありません。
実際、上で書いた「年間500㎞」「1㎞5分ペース」というのは、ガッツリ走っているランナーの方からすれば”へ”みたいな数字です。
能力もメンタルも人並み以下の筆者が、壁と呼ぶにはあまりに低い段差をやっとの思いでよじ登りながら、「走ることを通じて得た気づき」をお裾分けすることを目的とした文章となっています。
お読みになって下さる皆様方には、よちよち歩きの我が子を見守るがごとき温かいまなざしでご覧に入られますよう、ご理解をよろしくお願いします。

Milestone 1.とりあえず走る


1月。
「無理、今日はもうやりたくねえ」
ランニングを習慣にすると決めて3日目の、率直な感想である。

走ること自体は、3~4年前からちょくちょく取り組んでいた。幼いころから「弱い自分を変えたい」という思いがとても強くて、己を鍛える手段としてしばしばランニングを習慣にしようと試みていた。
けれど、いつも続かずに終わってしまっていた。

何かを始め、習慣にしようと思ったとき、最初にぶち当たるのがこの「続かない問題」である。
習慣化コンサルタントの古川武士氏によれば、習慣化を目的として何らかの行動を起こした人のうち、42%は最初の1週間で継続を断念してしまうのだという

「疲れた」「なんかだるい」「4時間しか寝てない」「まだ月曜」etc……
やらない理由が瞬時に、5個も6個も浮かぶ。この状態でベッドに横たわりでもしたら一巻の終わりだ。

そういう時はどうするか。
まず、着替えてしまう。
頭の中で反響する言い訳を全部シャットアウトして、無心でウェアに着替える。鍵をポケットにしまい、Bluetoothイヤホンを耳に突っ込む。その勢いのまま外に出て、準備運動を済ませ、曲をかけて、さっさと走り出す。
とにかく動く。理由なんていらない。

朝、出かける準備をするとき「やりたくない」なんて考えている暇はない。寝ぼけたままで何も考えず、ただ体だけを動かす。あれと一緒だ。


走り始めてしばらくすると、後悔の念が襲ってくる。
全然走れない。足取りはどんどん遅くなり、呼吸は次第に乱れてくる。吐く息には痰が混じり、横っ腹が痛くなってくる。
5分しか走ってないのに、歩くような速さでいくのが精一杯。しんどさと情けなさでどうしようもなくなり、足を止めてしまう。そんな自分がカッコ悪くて情けなくて、悔しさで唸り声をあげる。
初めの2か月は、ずっとそんな感じだった。

小中高と運動部で、大学時代もジムに通っていたことがあったから、もう少し走れると思っていた。「これくらいならできるだろう」と設定した最低ラインすら乗り越えられない自分の現状が、不甲斐なかった。

いつまでたっても、駅周辺の2㎞の距離すら走れない。僕は吹っ切れた。

どうせ走れねえんだ。タイムなんか気にせずに、まずは走り切ろう。
タイムとか距離とかは、そのあと考えればいい。

足取りはフラフラ。息は絶え絶え。フォームはめちゃくちゃ。
「止めたい」と思っても、もう少し耐えてみる。
どんなにゆっくりでも、足を前に進める。

走り始めて2か月後、初めて自分で決めた距離を最後まで走り切ったことは、僕にとって大きな自信になった。

Milestone 2.スコアを伸ばしていく


4月。
ずっと付きまとっていた「走りたくない問題」は、ランニングアプリの導入により解決された。

今年の初めに「Nike Run Club」をインストールした。Instagramのストーリーで知り合いが使っているのを見て、自分も試してみようと思ったのがきっかけだった。
実のところ、結構気に入っている。UIがシンプルで、なおかつクールなのが良い。

アプリの導入によって、僕のランライフは大きく変容した。

まず第一に、走る頻度が増えた。それまで週に1~2回程度だったのが3~4回(場合によっては5回!)に増え、回数が増えるにしたがってちょっとずつ速く、長く走れるようになってきた。

ほとんどのランニングアプリでは、走行距離やタイム、1㎞あたりの平均時間などのデータが計測・記録される。
「Nike Run Club」では、1㎞走るごとに累積タイムと1㎞あたりの平均時間を教えてくれる。計測される数字が短くなると「あれ、今日の俺速くない?」と、走ってる最中でも気分が高揚してくる。
加えて、月ごとの累計距離や「1㎞あたりの自己ベスト」などの達成項目をレコーディングしてくれる機能も備えており、成長の足跡を分かりやすく可視化してくれる。

走りを重ねるたび、自分がレベルアップしているのを実感できる。
自分の限界をちょっとずつ超える。その度に、より早く、より長く走れるようになる。
それが楽しくて、たまらなかった。

人間の脳の神経回路には「報酬系」とよばれる部位が存在する。
報酬系はドーパミンなどの脳内物質に反応し、その人に快感をもたらす。そして、その時の快感をもう一度得ようと、原因となった行動を繰り返すよう身体に強く促す。
ソシャゲなど多くのスマホゲームはユーザーの報酬系をわしづかみにしてやろうと、あの手この手を使って快楽物質を生み出そうとする。
それは、ランニングアプリも例外ではない。

僕は報酬系の手綱を「Nike Run Club」に握らせたことで、限界を超えていく楽しさを再発見できた。

Milestone 3.走れない自分を認める


7月。
春はとうに過ぎ、夏の訪れが迫るころ。異変は起こった。

それまで走れていた距離が、なぜか走れない。
ついこの間まで10㎞余裕で走れていたのに、5㎞走るのが精一杯。1㎞あたり5分台前半にまで減った平均タイムも、6分近くまで伸びてしまった。

コンディションが悪い?練習が足りていないから?
それとも、これがいわゆる「プラトー」ってやつか?
僕の報酬系は今や、ピクリとも反応しなくなった。代わりに、結果が出ない苛立ちと焦燥感が脳内を占拠した。

梅雨が明けて、暑さが猛威を振るうようになってきたある日。
僕はいつものように、日が沈む頃にウェアに着替え、踏みなれたコースを走っていた。

4㎞を越えたあたりに、200mくらいの上り坂がある。
そこを上っている時、呼吸がどんどん浅く、せりあがってくるのを感じた。上り坂はどの季節でも例外なくしんどいんだけど、この日はイヤホンで音楽を流していても聞こえるくらいに心臓の鼓動が大きくなり、苦しさで足を前に踏み出すことさえ難しくなってきた。
坂を上り切ったところでとうとう完全に酸欠状態となり、足を止めると同時にアスファルトの地面にへたりこんだ。

ショックだった。
ここまで半年以上続けて、今までにないくらい量を積み重ねた。
それでもこれしか走れないのか?

後になって知ったことだが、やはり夏は長距離走に向かないらしく、プロのランナーでさえタイムが落ちてしまうことがしばしばあるらしい。
そのため、夏場は気温の低い早朝や雨天時を狙って走るのが定石で、距離やペースも「長い距離をゆっくり」がオススメだというのだが、当時の僕はそんなこと知る由もなく「頑張ったのに最初の頃に逆戻りしてる!」と悲しくなったものである。

とはいえ、いつまでも嘆いていてはダメだ。
走れなかったのは事実。となればできることは、もう一度前みたく走れるようになるまで、腐らずにやりつづけるだけだ。

できない自分を直視するのは、大きな苦痛を伴う作業だ。特に、それまでこなせていたことが出来なくなった時の絶望感は、耐えがたいものがある。
けれど思うに、「思い通りにできない自分」を目の当たりにして、そこから立ち直っていく過程で、その人の真価は試されるのではないか。

諦めるか。もう一度挑むか。
もはや選ぶまでもなかった。

できない自分を受け入れて、できるところから始めよう。
1㎞走るのに10分かかってもいいから、最後まで足を止めちゃダメだ。
ダサくてもカッコ悪くても、今の精一杯を出し切っていこう。
再び一からのスタートと心に決めて、走り続けることにした。

Milestone 4.苦しくても息をする


10月。
太平洋高気圧はしぶとく居座りながらも、日が短くなるにつれて少しずつ暑さが和らいでいき、気づけば秋の澄んだ空と爽やかな風がやってきた。

距離もタイムも一気に落ちてから数ヶ月、距離の方はなんとか元の水準まで戻せてきた。アプリを導入し始めた頃のように、走るたびにレベルアップを実感できるくらいの目覚ましい成長は望めなくなっていた。

手頃な目標が見つかりづらくなり、次第に全力を出すのを避けて、ほどほどの余力を残しながら走るようになってきた。
「その日の調子に合わせる、無理をしない」と自分に言い訳して、苦しくなってきたら足を止める、最初に走ると決めた距離よりも手前で止める、そういう日が増えた。

同じ距離を走るにしても、上手く走れる日とそうでない日の差がはっきり判ってきた。7〜8kmを5分半/kmで走れた次の日に、同じルートを7分/kmでしか走れない、なんてこともしばしばあった。

どうにも違和感があったので、走れる時と走れない時の違いを分析してみた。

走れない時は、決まって2kmくらいで息が苦しくなる。そういう時は大体、最初のほうはいつもより速いタイムで通過できる。
「あれ、今日は調子いいんじゃないか」と思った矢先、ストライドは次第に小さくなり、呼吸もどんどん乱れてくる。

そうか。走れない時は、大体最初に飛ばしすぎている。
逆に、始めの2kmくらいは6〜7割の力でいって、後半になるにつれて徐々にスピードを上げていった方が、いいタイムが出ると気づいた。
半年以上経って初めて、僕はペース配分の重要性を理解した。

呼吸の仕方にも、驚くほど無頓着だった。
長距離ランニングにおいては、酸素を効率よく体に取り込むために、普段とは別の方法で呼吸をする必要がある。イロハのイ、基本中の基本だ。

2回吸って、2回吐く。
すっ、すっ。はっ、はっ。

今これを読んでいるあなたも、是非試してみてほしい。最初はうまくできないかもしれないが、コツを掴むとものすごく簡単にできるはずだ。

そう、ものすごく簡単にできる。だからこそ難しい。
走りながら何か別の考えごとに気を取られていると、知らない間に呼吸のペースはメチャクチャになってしまう。
長い時間走り続けると呼吸をするにも一苦労で、特に長い坂を上り切った直後なんかは、すぐにでも立ち止まって肩で息をしたくなるくらいに苦しい。そういうときこそ、普段の呼吸をする。
2回吸って、2回吐く。しんどくても止めない。

苦しい時、うまくいかない時ほど、人は基本を見失いがちになる。
しんどい時こそ、当たり前のことをおろそかにしない。

走ることに限らず、これは何にでも当てはまるな、と思った。

Milestone 5.なんでもいい、ただ走る

12月。
最近は、休みの日に朝早く起きて、10km以上の距離を走るようにしている。

土曜日の晴れた朝に、朝日を反射して煌めく水辺の遊歩道を走るのは、たまらなく気持ちがいい。1時間以上かけてコースを一周したときには、まるで戦地から故郷へ凱旋する英雄のような気分になれる。

長い距離を走ろうと思ったら、いっそう呼吸に集中しなきゃ身が持たない。
余計なことは考えず。吸って吸って、吐いて吐く。一定のリズムを保ちながら、地面を繰り返し蹴り続ける。

そうして走っているうちに、思考をめぐらす余裕がなくなってくる。
感じるのは気管の伸縮と身体の振動、そしてイヤホンから流れる音楽だけ。
やり残した仕事とか、友達のインスタ投稿とか、嫌なニュースとか、将来の不安とか、日ごろ抱えているあらゆるモヤモヤが、全部吹き飛ばされる。

そして、走り始めてから1時間を過ぎてくると、思考が介在する余地が一切なくなって、体だけが勝手に動く。そういう境地がやってくる。

京都で座禅を体験したとき、そこのお坊さんが「身の回りのあらゆる刺激に反応して思考を巡らすと、それに執着してしまい、やがて悩みや苦しみの原因になる。だから刺激を受け取ってもそれについて考えないで、ありのままに感じることが大切なのです」と言っていた。
おそらく、走り続けた僕の体は、似たような状態になっているのだろう。
呼吸と足踏みだけが規則正しく続けられる。頭はどんどんクリアになって、「今、この瞬間」に強烈にスポットライトが当てられているのを感じる。

過去も未来も、関係ない。
「今、走っている自分」が、自分にとっての世界のすべてになる。
そんな瞬間が、たまらなく幸せだ。

その他一切がどうでもよくなるくらいに、没頭できる瞬間に巡り合えた。
それだけで、1年間走り続けた意味があったんじゃないか。

最後に


こんな感じで、
「まず続ける→成長を実感する→伸び悩む→基本に立ち返る→没頭する」
といった具合に、走ることを通じた心境の変化を振り返らせて頂きました。

実はここまで、本文章では一度も「努力」という言葉を使っていません。
お気づきでしたか?

これにはちゃんと理由がありまして。
自分の現状を、正しく認識できなくなってしまう気がしたんです。

ひとつの目標に向かってがむしゃらに頑張る姿は確かに美しいですが、「自分は努力している」という認識はともすれば自己陶酔につながり、むしろ効果的な成長を阻害するおそれがあります。

実際はたいして行動や経験を重ねられていないにも関わらず「自分は努力している」という自己認識だけが肥大していくと、「頑張っているはずなのに結果が出ない、でも傍から見たら頑張っているように見えない」という、当人にとって何のメリットもない状態が生まれてしまいます。

僕もこれまでずっと「自分は努力している」と言い聞かせて、結果を出せていない現状から目を背け、自分や周囲をあざむき続けてきたから、よく分かります。
2年ほど前に、そういう姿勢がひどく不誠実なものだと気づき、それからはなるべく「頑張る」という言葉を人前で口にせず、行動で示すように心がけています。


何かを習慣にして、積み重ねていくのは苦しい作業です。

やりたくない気持ちと毎日格闘して、結果の出ない日々にイライラして、格好悪い自分自身に何度も絶望して。
それでも、「今、この瞬間」だけをなんとかやり切って、自分の限界をちょっとずつ超えていく。
それしかできないんです。

僕は、未来を見据えて努力するのをやめて、今できることを全力でやることに注力するようにしました。
何をやっても長続きしなかった僕が、何とかランニングを1年続けられたのは、こうした心境の変化があったからなのかもしれません。

このnoteは「書くとともに生きる」ひとたちのためのコミュニティ『sentence』 のアドベントカレンダー「2021年の出会い by sentence Advent Calendar 2021」の13日目の記事です。


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