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第34話:レイクロック、52歳からの執念の乗っ取り劇:

 マクドナルド。皆さん、聞いたことありますか? そりゃさすがに聞いたことありますよね。実はマクドナルド、創業者は会社を追い出されているんですよね、まぁ、アップルもそうですがw。 今日は、レイ・クロックによるマクドナルドの執念の乗っ取り劇についてお話します。

マクドナルドの本社(シカゴ)(wikipediaより引用)

 軽薄なピエロでお馴染みなマクドナルドは、1940 年マクドナルド兄弟によって創始された企業です。 マクドナルド兄弟はカルフォルニア州にて、世界で初めてのファストフード店を開業しました。 世界初のセルフサービスを取り入れ、とにかく当時としては画期的なものでした。

 具体的には、メニューはハンバーガーとフライドチキン、ドリンク類に絞り、 食器はすべて廃止して食器洗浄機を廃止。その代わりハンバーガーとポテトは紙で包み、ドリンク類は紙コップで統一しました。 これによりハンバーガー15セント、ハンバーガーを10セントの値段を実現したのです。

 さらに、パテを焼く者、バンズを挟んで包む者といった具合に分業化体制を整えられ、客が注文してからハンバーガーが出されるまで30秒以内を実現しています。 そればかりか清潔な店内が保たれ、メニューを絞ることにより店員の教育は行き届き、今のファストフード事業はマクドナルドによって1940年代に完成されていたのです。

 こんな素晴らしいシステムを作り上げたのは「マクドナルド兄弟」です。 でも、アメリカ人にマクドナルドの創業者は?と聞かれると「マクドナルド兄弟」と答える人はほとんどいません。 多くの人は「レイクロック」と答えるはずです。では、なぜそのような事が起こっているのか?今日はそんなお話をしようと思います。

レイ・クロック(wikipediaより引用)

 レイ・クロックは1902 年、米国イリノイ州シカゴ近郊の町オークパークで生まれました。 高校中退後、様々な職業を経験しましたが、紙コップのセールスマンとして成功をおさめ、1941 年、39歳の時した後に、マルチミキサーの販売会社を経営しはじめます。

 さて、レイ・クロックが扱ったこのマルチミキサー、同時に5 種類のミルクシェイクをつくれる優れもので会社は順調に成長していました。冒険なんてしなくても順風な人生を送ることが約束されていました。しかしレイ・クロックは現状に満足できませんでした。常に上を目指していました。 レイ・クロックは金や地位も大好きでしたが、それ以上にレイ・クロックをつき動かしていたのはマグマのような情熱だったのです。

 「もっと成功したい」と心に誓い日々を過ごしていたレイクロックの人生を変える「一本の電話」がかかってきます。そうそれは「マクドナルド」からの電話でした。運命を変える電話でした。

 1954年、レイ・クロックが経営するミキサー販売会社にマクドナルド兄弟から「マルチミキサー8台、大至急送ってくれ」という注文が舞い込んできます。そして 会社創業始まって以来の「大量注文」に興味をもったレイ・クロックは自分の目で確かめようと、カルフォルニアのマクドナルド兄弟の店を訪れたのです。これがレイ・クロックの運命を大きく動かします。

 マクドナルドのハンバーガーの作るスピード、その洗練されたシステムに度肝を抜かれたレイ・クロックは、思春期の青少年のように一発でほれ込んでしまいます。そしてレイ・クロックは、瞬時にマクドナルド兄弟にチェーン展開をしないかと持ちかけます。 しかしマクドナルド兄弟の答えは「No」でした。なぜならマクドナルド兄弟は「品質」を一番に考えており、「チェーン店」を一気に広げる事により「品質」が低下することを恐れていたのです。

 しかしレイ・クロックはあきらめません。毎日のように足しげく「マクドナルド」を訪れ、とうとうマクドナルド兄弟が折れ、レイクロックと「チェーン店」契約を結ぶのでした。またその契約内容は、売り上げの1.9%をクロックが取り、0.5%を兄弟に提供するという条件でした。余談ですが、この契約の肝は利益の何%ではなく、売り上げの何%という部分です。つまり薄利多売であると赤字になる仕組みなんです。皆様の契約する時は、ここ気を付けてくださいね!

 てことで、話を戻して。無事マクドナルド兄弟の契約を交わしたレイ・クロックでしたが、妻は夫が新規事業を始めるのに猛反対でした。妻にしてみれば、50歳を過ぎたレイ・クロックが、安定した事業を運営しながら、どうして冒険しなければならないのだという思いだったそうです。

 そしてレイ・クロックが「絶対に儲かる」と説得しすればするほど、妻は頑なに反対します。ま、そりゃそうですよね。「絶対儲かる」なんて話を信じられる人なんてほとんどいないのだから‥‥。

 しかしレイクロックは、妻の反対を押し切り、1955 年、マクドナルドシステム会社を設立。自宅を抵当に借金し、イリノイ州デスプレインズに1号店を出店します。 ただ妻の心配をよそに1 号店の売り上げは上々で、この新規事業の展開にレイクロックは手応えを感じていたそうです。

 ところがここでマクドナルド兄弟の裏切りが発生します。つまりマクドナルド兄弟はレイクロック以外の人物にフランチャイズ権を5000 ドルで売ってしまったのです。 この話を聞いたレイクロックは怒り狂い猛然と抗議をしましたが、その契約は正式な契約書を交わしておらず口約束だったことをいい事に、契約金の5倍の2万5000 ドルを支払い、フランチャイズ権を取り戻すことに成功し事なきを得たといいいます。

 ところが運命は残酷です。そうまでしたハンバーガー事業も、あっという間に暗礁に乗り上げたのです。 出店した1号店の売り上げだけではどうにもならず、レイクロックは借金を抱え、営々と築いてきたミキサー販売会社の利益を補填せざるを得ませんでした。そう新規事業は巨大なお荷物になったのです。

 それでもレイクロックはめげません。まず自分でできる事を目一杯やろうと決意し、毎日誰よりも早く店に出て材料の発注、厨房の準備、トイレ掃除までもこなし、夜まで働き詰めに働きました。それだけではなく、夜にはミキサー販売会社の仕事もしたのです。

 もうどうにもならない、抜本的な改革をしなければ生き残れない! ところまで来てしましたが、当時のレイ・クロックは身動きができませんでした。それは「品質」を一番としたマクドナルド兄弟とレイクロックが交わした「契約」に問題があったのです。

  マクドナルド兄弟は「品質」を一番に考え、どこの店でも「同じ品質」で商品を出すことにこだわりました。そしてその「品質」を実現するために徹底した「規格化」を「契約」に織り込んでいたのです。 つまり店内のデザイン変更といった店舗運営に関わる重要な案件はもとより、ジャガイモの保存
場所といった小さなことまで、レイ・クロックは承認を得るために書面にし、速達書留で「マクドナルド兄弟」の書面による承認を必要としたのです。そう、イリノイにはジャガイモは地下に保存するその土地の風習があったにもかかわらず、「現場」を一切何もみない「マクドナルド兄弟」は、その風習にNo を突き付けたのです。

 それでもレイ・クロックはめげませんでした。寝る暇もなく憑かれたように働き、その甲斐あって、翌1956 年には11号店にまで店舗を広げられます。しかし、これほど猛烈に働いても、レイ・クロックはほとんど利益を得ていませんでした。店舗が増えて売り上げは伸びても働き損となっていました。この原因もやはり「契約」でした。 レイクロックは新店舗のオーナーから認可料として950ドルを受け取り、店舗が運営された後は売り上げの1.9%の支払いを受けるという契約を交わしていたからです。

 つまり新店舗の土地とお店はレイクロックが準備をする必要があったのです。そのため新規店舗の出店ペースは遅く、店舗が運営されるまでには様々な準備に日数とコストを要したのです。 もちろん出店できるまでは1.9%の売り上げはクロックに入らず、彼は950 ドルに手をつけての自転車操業を余儀なくされていたのです。

 また出店したらしたでもう一つの罠がありました。それは「利益率」です。 マクドナルドは客単価が安い「薄利多売」の経営(ハンバーガー10 セント、ポテト15 セントですから、、、、)でしたが、レイクロックの契約は「利益」ではなく「売上」の0.5%をマクドナルド兄弟に払う契約になったいたのです。

 これを解決する手段は「材料費」を落とし「利益率」を上げることしかありませんが、それも「品質を第一」と考えて譲らない「マクドナルド兄弟」は絶対に許さなかったのです。 つまり、チェーン店を増やせば増やすほど「売上」が増え、利益率が少なすぎるので「黒字」には絶対にならない「蟻地獄」経営だったのです。

 そんなレイ・クロックに大きな出会いが訪れます。そう、この後のマクドナルドを急成長させた会計士ハリー・ソナボーンとの出会いです。 そしてレイ・クロックと出会ったハリー・ソナボーンはこう提案します。

「新店舗はレイ・クロックが場所を決め、土地をローンで購入する。さらにその土地を抵当として銀行から金を借り店舗を建設する。フランチャイズ加盟者には、売り上げの1.9%に加えて、抵当権の返済も求める」

 これ、わかります? 「出店」の初期費用のリスクを「新店舗のオーナー」に負わせるシステムなんです。 これによりレイ・クロックは大いに儲かりました。まぁ新店舗のオーナーは大いに騙されて苦しい生活を強いられたわけですが、「土地代の借金契約」が新店舗のオーナーを縛るわけです。あ、どこかのコンビニみたいなシステムと思った、そこの人、お口にチャックですよw

 とまぁ、この「店舗が倒産しても損しない」事業形態により、レイ・クロックは大いに潤いました。チェーン展開は急速に進み、1960年には全米で200店舗にもなります。 そして社名をマクドナルド・コーポレーションと変更し、マクドナルド兄弟にすべての権利を売るように迫ったのです。

 マクドナルド兄弟がレイクロックに経営権を割譲のために提示した金額270 万ドル、それはフランチャイズで得た利益の15倍もの金額でした。 そして会社の利益の1%を創業者たるマクドナルド兄弟に払い続けるという約束をしました。しかしこれは書面でしっかりとした契約を結ばず紳士協定でした。

 かくしてマクドナルド兄弟に残ったのは「自分たちが運営した1号店」のみになり、名前も「マクドナルド」から「The bigM」に変更しての再出発となりました。

 経営権を手に入れたレイクロックは、いままでの鬱憤をはらすように「マクドナルド兄弟」と敵対します。 すなわち、「The Big M」の隣に「マクドナルド」をオープンさせ「The big M」を倒産させると、マクドナルド兄
弟と約束をしていた「紳士協定」を反故にし、一切のお金を支払わなかったのです。

 その後のマクドナルドの発展は皆様がご存知の通り、 そして1965 年、マクドナルドを株式上場し莫大な創業者利益を得て大金持ち(ビリオネア)となり、 1984 年に81 歳の天寿をまっとうするまでに、マクドナルドを世界で8000 店を超す企業まで成長させたのでした。

さて、どうでしたか? 52 歳からスタートし、マクドナルドの乗っ取りに成功をしたレイ・クロックと 「カルフォルニア州」の店から一歩の外に出ず、上から目線で「品質」を盾に「自説を一切」曲げなかった「マクドナルド兄
弟」のお話。ね、面白かったでしょ?

 といことで、もし興味を持った方がいたら、「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」という映画を見ていただけるといいかもしれません。多少脚色はありますが、充分、レイ・クロックという人物の熱さを知ることができるお話になってますよ!


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