見出し画像

第40話:ドラキュラ伯爵

 皆さんはドラキュラ伯爵が実在していたって知っていますか? ドラキュラ城として有名なブラン城が実在するのだから、ドラキュラも実在したのでは? と思ったとしたらあなたはとても鋭いのです。

ブラン城(wikipediaより引用)

 でも、実在したという表現は正確でないですよね。正確には、ドラキュラ伯爵のモデルとなった人がいたってことなので‥‥。ということで、今日はワラキア公ヴラド・ツェペシュについて話をしてみようと思いますね!

 ワラキア公ヴラド・ツェペシュは、「公」とつくのでよく「公爵」だと勘違いされるのですが、正確には国王です。 まぁ、公爵の時点で伯爵より上の身分ではあるのですが‥‥。とりあえずそこは置いておきますかw

 てことで、ワラキア公ヴラド・ツェペシュことヴラド三世は、1431年ワラキア公国の第二王子として、トランシルヴァニア地方のシギショアラで生をうけます。 ワラキア公国はルーマニアの南部(南カルパチア山脈の南)、現在の首都・ブカレストのある周辺にありました。 歴史的な状況としては、西のハンガリーとは断続的な交戦状態にあり、南からはバルカン半島制覇を窺うオスマン帝国の脅威にさらされる苦しい立地でありました。

緑部がワラキア王国(wikipediaより引用)

 ちなみに父親のヴラド二世は神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に任じられていたため、竜公(=ドラクル)と呼ばれていました。 しかしそんな偉大なるドラクルも、1444年ヴァルナの戦いにおいて、オスマン帝国に敗れ(正確にはワラキア公国を含むバルカン半島の諸侯連合軍・ヴァルナ十字軍が敗れ)、ワラキア公国はオスマン帝国に従属することになりました。そしてその時、「裏切らない」ように人質に出されたのが、ドラキュラ伯爵のモデルである当時13歳のヴラド三世と弟のラドゥ(美男公)だったのです。

ヴラド三世(wikipediaより引用)

 しかしこの人質時代の数年間は、ヴラド三世にチャンスを与えることになったのです。なぜならヴラド三世はこの時代に、オスマン帝国で英才教育施され、いい意味では戦略眼が磨かれ、悪い意味では猜疑心と狡猾さが培われたのです。

 そんなヴラド三世に転機が訪れたのは1447年12 月。 トランシルヴァニア公でハンガリーの摂政ヤーノシュがワラキアに攻め込んできた時でした。実は、この混乱の中で、父のヴラド二世と兄のミルチャが殺害されてしまいます。そしてヴラド三世はオスマン帝国の後押しを受けて、ヤーノシュが公位に就けたヴラディスラヴに戦争をしかけると、見事それを退け、若干16歳でワラキア公の座に就いたのでした。

 しかしそれも長くはもちませんでした。オスマン帝国は、たった二か月で手のひらを返し、ヴラド三世からワラキア公の地位をはく奪されてしまいます。まぁ、ここまでは世界史あるあるなのですが、ヴラド三世の本領はここからだったのです。

 オスマントルコで英才教育おを受けていたヴラド三世は「謀略」の達人でもありました。ヴラド三世はすぐにモルダヴィア(ルーマニア東北部)に亡命すると、父や兄の仇敵であるヤーノシュの協力をとりつけ、ワラキア公国を取り戻そうと決意したのです。そしてその努力が実り、約10年の歳月が過ぎた1456 年、ヤーノシュの支援を得て退け、25歳で再びワラキア公に返り咲いたのです。

 そして国内をある程度掌握した1459 年。ヴラド三世は政治改革に乗り出します。 具体的には、ヴラド3世は父や兄を裏切った領内の貴族たちを粛清し政治制度改革によって中央集権化を進め、強力な直轄軍を編成し国力回復に努めたのです。

  また同年頃より、オスマン帝国への貢納を拒否します。 これに怒ったオスマン帝国が貢納を命じる使者を派遣すると、帽子を取らない使者の無礼を咎めて、 帽子ごと頭に釘で打ちつけ生きたまま串刺し、矢継ぎはやにドナウ河岸のオスマン帝国守備隊を電撃的に壊滅させたのです。この故事こそがヴラド三世を串刺し公と言わしめた故事の1つになったのです。

 ちなみに当時のオスマン帝国(今のトルコ)は、国家として最盛期スルタン(皇帝)メフメト2 世の御代で、当時世界最強の「イェニチェリ」を従えた最強の軍事国家でありました。また 経済的にも、中国と欧州間の貿易拠点すべてを国土に収めており(大航海時代前の時代なので陸路のみ)莫大な通行税収入を持つ、文句なしの「世界最強」国家だったのです。そしてヴラド三世は、こんな最強帝国に喧嘩を売ったのです。

イェニチェリ(wikipediaより引用)

 しかし、オスマン帝国で最新の教育を施され、一流の戦略家であったヴラド三世は強かった。 オスマン帝国は十数万もの兵力を動員して何度もワラキアへ侵攻したのですが、ヴラド三世は奇襲と退却のゲリラ戦術と焦土作戦を使いこなし、僅か1万の兵力でオスマン帝国軍を撃退したどころか、 1462年の戦いでは、メフメト2 世を討ち取るために夜襲を敢行し、メフメト2 世にあと一歩と迫ったこともあったのです。

 またヴラド三世は、戦略的には10倍以上の敵を倒すことは不可能であることを理解していました。そこで考えたのが、軍事ではなく「心理的」にオスマン帝国を追い詰める方法だったのです。

  具体的には首都ワラキアから撤退する際に、捕らえたオスマン兵士を串刺しにし「まるで街路樹」のように「串刺しにした兵士の串」を町中に立てておいたのです。 この異様な光景をみたメフメト二世は戦意を失い、ワラキアから一時は撤退することを決意したというのですから、本当にすごいものです。

メフメト二世(wikipediaより引用)

 ただメフメト二世はワラキアを諦めきれませんでした。なぜなら、ワラキアを橋頭保とし、ドナウ川を越えてフランス(当時は欧州の最強国家)を飲み込むという野望を捨てきれなかったからです。しかし軍事にワラキアを屈服させることが困難だと悟ったメフメト二世は、同年にはヴラド三世の弟・ラドゥを擁し、ワラキアの貴族の離反を図り、クーデターという形でヴラド三世を追い落とし、傀儡ラドゥのもとにワラキアをオスマン帝国の臣従国にすることに成功します。

  一方、ヴラド三世はトランシルヴァニアに亡命したところをハンガリー王に捕らえられ、ドナウ河岸の砦のソロモンの塔に12 年間幽閉されることになってしまします。そして絶望したヴラド三世の妻は、ポエナリの城の塔から投身自殺してしまいます。まさに踏んだり蹴ったりの一年であったのです。

 しかし、ヴラド3 世はこの絶望の中でも決してあきらめませんでした。 幽閉中にヴラド三世はギリシア正教会からカトリックに改宗、ハンガリー王の妹を妻として迎える事により、ハンガリーを味方に引き入れます。

 そして1475年、ハンガリー軍の助力を得たヴラド三世は、モルドヴァに侵攻したオスマン帝国軍を迎撃し、オスマン帝国軍を敗退せしめたのです。 そしてその功績により、ヴラド三世は翌年、ハンガリーの支持を得る形で三度目のワラキア公として返り咲くのです。

 しかしヴラド三世の英雄譚はここまで。その僅か1ヵ月後ヴラド三世は命を落としてしまいます。オスマン帝国軍を撃退し丘に一人で上ったところを襲撃されて戦死したとも、側近に斬りつけられて殺されたともいわれていまして、詳細は不明なのでです。ただ享年は分かって45歳でこの世を去ったのでした。

 ちなみにこの後、ヴラド三世の首はメフメト二世のもとに送られて晒し首にされています。一応、遺骸はワラキアの修道院の祭壇下に埋葬されましたが、 18世紀、当時ワラキア大主教の意向で掘り出され、改めて入り口近くの踏みつけられる場所に葬られたともいわれます。 なんだか少し可哀想ですよね。

 そしてその時、ヴラド三世を貶める形で広まったのがドラキュラ伝説なのです。ちなみにドラキュラの語源は、ヴラド三世は父のヴラド二世はドラクル(竜公)からきています。ヴラド三世は、ドラクル(竜公)の子・小竜公、つまり「ドラクレア」とよばれていました。この英語読みが「ドラキュラ」なのです。

 さて、どうだったでしょうか?  串刺し公ヴラド3 世の話。確かにその残虐的な手法から非難される面もあるのですが、ルーマニアではイスラム教徒(オスマン帝国)から国を守った英雄ともよばれる人でもあります。なんというか 歴史というのは、主語が変わると見方が変わる「いい例」だと思いませんか?

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!