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もし、高校生の自分に会えるなら、「文語の勉強をしちょきや」と言いたいです。

いや、たとえ熱心に勉強をしていても、四半世紀も経てば忘れてしまいます。もう一度、学生気分でやるしかありません。

外国語の変換アプリは、実にお見事な通訳を披露します。使える文語の変換アプリはないのかしら。


故郷発つ好きにしいやと父の肩

(こきょうたつ すきにしいやと ちちのかた)

季語がない句です。父の背ではなく肩で父の思いを詠みたくなりました。

高校を卒業後は、地元の国立大へ進学すると思っていたようですが、娘はさっさと県外の短期大学への進学を決めていました。

故郷を離れる。これをどう詠むか。なかなかぴったりの言葉がなく、「離れる」からの「離る(かる)」で詠みましたが、ここだけが文語もおかしいと「発つ」としました。

「好きにしいやと」か「好きにしいやの」の助詞が悩ましいもんです。過多が語っていることは変わりませんけど。


娘発つ爪切る父の肩に冬

季語は「冬」です。

同じく「父の肩」で詠みました。短期大学や下宿先の雰囲気に早く馴染むために、早々と上京しました。

大阪の南港へ向かうフェリーは、21時20分の出航でした。車で送ってくれるという父は、俯いて爪を切っていました。

乗り遅れたらどうすんねん、と苛つきながら父の背中を見ていました。あの時、父は40歳前でした。大人に見えたけれど、本当は何を思っていたのかしら。

こちらも、「父の肩に冬」「父の肩は冬」と助詞が悩ましいです。

ところで、俳句の先輩が実家を離れる、この句をめちゃめちゃ推敲してくださいました。

旅立つ日爪切る父の肩や冬

なんだか山口百恵さんの「いい日旅立ち」のメロディーのなか、爪を切っている父。その父の肩が、娘に色んな思いを語っているようです。


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探梅や音をはずして歩く父

(たんばいや おとをはずして あるくちち)

足の悪かった父は、足音がリズミカルではなくて、いつも音を外したような歩き方をしていました。

だから、父が近寄ってきたら見なくても分かりましたし、居なくなったことも直ぐに分かりました。

ただ、この音をはずして歩くの表現が、足が悪いことが伝わるかどうかでしたが、まさに賛否両論でした。

「伝わる」と言う人もいれば、「音程をはずして歌っているのか?」と言う人も。でも、どちらでもいいかなと、ファイナルアンサーとしました。

梅の写真がなかったので花桃です。


亡き父のあし音探し探梅行

(なきちちの あしおとさがし たんばいこう)

季語は「探梅行」です。

花を見るのが好きな父は、ラジオで"見頃"と聞くとチェック、「花、見に行こうか~」と誘ってきました。自力で歩けなくなっても、車イスを後部席に載せて、あちこちに出掛けたもんです。

ただ、音を外したみたいな、父の足音はもう聞こえません。疲れたと座り込んだ父を待つこともありません。

すべてがスムーズというのは、なにか物足りないもんです。

独りになって、生き急ぐかのようにバタバタしているわたしです。今一度、父と過ごした時みたいに、スローなペースで生きてみようかな。

こちらは、俳句の先輩より「探す」がダブりと突っ込みがありました。

亡き父の足音辿り梅の園

(なきちちの あしおとたどり うめのその)

少し変えてみました。でも、辿るは見えないはずの足音が見えていますし、やはり探すのほうがいい気もします。


どんど焼き小さな幸の棹の餅

(どんどやき ちいさなさちの さおのもち)

季語は「どんど焼き」です。でも、あとから気づきましたが「餅」は絶対に季語ですね。同じ冬ということでご勘弁願います(苦笑)。

少し前、どんど焼きをニュースで見ました。参加者が棹の先に餅を刺して、それをどんど焼きの炎で焼いて、食べていました。

家族の無病息災、家内安全を願っていただく餅の味は格別なことでしょう。小さなお餅、小さな幸ですが、腹持ちが良さそうです。


老いの手に手を重ね行く探梅行

(おいのてに てをかさねゆく たんばいこう)

俳句の先輩の句を推敲しながら浮かんできた句です。父の手をとる自分の手が老いてきたと思いながら、梅を見に行ったことを思い出しました。

先輩の句では長命寺が使われていました。

老いの手に手を重ね行く長命寺

老いと長命の取り合わせがいい!と自画自賛でしたが、季語がないですね。


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近所、といっても、車で10分程度の所にあるガソリンスタンドです。まわりは田畑と山があるのみです。

たまにネコバスがやってきます。

では、今日もよろしくお願いいたします。