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何思ふとなく

昨日は、今季最強の寒気がやってくる~!とテレビがいうもので、早くからぬくぬくしておりました。

いつも通り、俳句仲間さんの句に突っ込みを入れたり、突っ込まれたり。文語文法が全くちんぷんかんぷんで、現代の言葉をサクッと文語に変換するアプリが欲しいです。

昨日は少し渋く攻めてみたので、今日の句は穏やかな感じです。


小皺寄り褒められるのは干し大根

(こじわより  ほめられるのは  ほしだいこ)

季語は「干し大根」です。

冷たい空っ風に当てることで、漬け物になる干し大根も美味しくなるのでしょう。

ちゃんと干せたかどうかの見極めが、大根の小皺の寄り具合だそうです。上手いこと小皺だらけになって、褒められる大根が羨ましいもんです。

よく経年劣化といいますが、空風に晒されることで美味しくなる大根、踏みつけられらることでより美しさを増すペルシャ絨毯、経年することで価値が増す存在に憧れます。

どうやら「褒められるのは」は説明しているようになっています。添削ができたら載せることにします。


何思ふとなく眺むる冬夕焼け

(なにおもふ  となくながむる  ふゆゆやけ)

季語は「冬夕焼け」です。

何を考えている訳でもなく、ただ、ぼっ~とスロープの始まるあたりを眺めていることがあります。

考えているつもりはなくても、そこに来るといつも「ただいま」と父が言っていたことを思い出します。

でも、この句だけではわたしが思い描く父の姿がありません。もちろん、読み手が好きに想像してもいいでしょうが、俳句の先輩から一句です。

冬夕焼け何思うとなく父の顔

(ふゆゆやけ  なにおもうとなく  ちちのかお)

これですと、誰が読んでも父の姿が目に浮かんできますね。


懲りもせず嫌みこぼすや寒念仏

(こりもせず  いやみこぼすや  かんねぶつ)

季語は「寒念仏」です。

寒中に太鼓や鉦を叩いて念仏を唱えながら、市中を練り歩く修行、寒行です。

ひと言多くなるわたしは、嫌みをこぼしては反省の日々です。性懲りもなく嫌みをこぼしてしまっては、「ごめんよ」と念仏を唱えるかのように、心の中で謝っております。

まさに寒行です。

ところが、ふと気づきました。俳句を始めてからのわたしは、少しだけど、嫌みをこぼす頻度が減ってきているようです。

否、嫌みは相変わらず溢しています。ただ、「五七五」に嫌みを嵌め込もうと四苦八苦をしているうちに、ネガティブな感情が徐々に薄くなってきて、嫌みをこぼす必要がなくなります。

あれ?もしかしたら、「五七五」の中に濃縮されたネガティブ感情が詠い込まれているのかしら。いやいや、まだそれほどのスキルはないですね。

あっ、最初は、「懲りもせで」としておりましたが、どうも文法がおかしくはなさそうですが、そこまで古語にこだわる必要があるかというご指摘あり。

「懲りもせず」でファイナルアンサーです。


頬つつくあの指懐かし寒雀

(ほほつつく  あのゆびなつかし  かんすずめ)

季語は「寒雀」です。あえての中八にして、懐かしさの余韻などを表してみました。

頬をつんつんしていたあの指と、寒雀がつんつんと啄む様子を重ねたのですが、重ねたと思っているのはわたしだけかしら。

最初は、「頬つつくあの指恋し寒雀」としたのですが、もう時間がだいぶ経ってしまったので、もう恋しいは過ぎて、懐かしさを覚えますみたいな。

でも、「恋し」だと中八は解消されるので、やはり「あの指差し恋し」かなあ。

こちらの一句は、コメント欄で熟考中です。

「あの指」、誰の指でもなく、あの人の指という気持ちを「あの」に込めましたが、でも第三者の視点が入ることで、違うものが見えてくるものです。それは、俳句のみでなく、すべてにおいて言えると思います。

さてさて、熟考~