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生ききる②


彼が転院してきてから僅か一時間かそこら、あたしたちは息子さんの運転するワゴン車に乗っていました。

病院から一時間以上かかる、山あいの集落にある彼の実家。「疲れるので横になって行きませんか?」と声を掛けたけれど、彼は車窓から見える光景から、片時も目を逸らそうとしませんでした。

実家には段差があって、車椅子は役に立ちません。でも、屈強な息子さんふたりが父親を抱きかかえて、家の中に運んでくれました。

久しぶりの我が家です。仏壇の前に座らせてもらった彼は、正座して先に亡くなった妻やご先祖様に手を合わせ、時間をかけて祈っていました。そして、顔を上に向けると、壁にずらりと飾られた写真を眺めていました。

「自分の布団で寝たい」

息子さんが父親の部屋に布団を敷いてくれました。畳の上に敷かれたお布団、横になった彼の血圧と酸素飽和度を測り、ゴロゴロいう痰を引かせてもらい、濡れたオムツを交換しました。

寝息を聞きながら、彼が目が覚ますのを待ちました。

しばらくすると彼は目を覚まし「いつも行きよった散髪屋に行きたい」と言いました。

事前に理髪店に電話を入れて、待つことなく散髪ができるよう、息子さんに手配してもらいました。

馴染みの理髪店の店主、事情を察してくれていて、到着すると貸し切り状態でした。

髪を切り、髭を剃ってもらうあいだ、シャンと背筋を伸ばして、食い入るように鏡の中の自分を見ている彼の凛とした顔。そんな父の姿を眺めながら、店主と昔話をしている息子さんたち。

静と動と。死にゆく人と人生の盛りの人と。

存在しているけれど存在していない、まるで黒子のようなあたしは、彼ら親子の姿をただ眺めていました。

彼の小さな身体にはエネルギーが満ち溢れ、彼の後ろ姿は美しく、まるで今から特攻隊として出撃する軍人さんのように見えました。

さっぱりした彼は店主に感謝の言葉を遺し、帰路につきました。帰りの車の中では、彼はあたしの膝に頭をあずけ、静かに眠っていました。

病室に戻った彼、その後、起き上がることはなく、ほどなく息を引き取りました。


みやこわすれ