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【読書】歯ごたえ抜群だった~『学校で育むアナキズム』(池田賢市)~

可愛らしいネコのイラストが付いているので、読みやすい本かと思い、手に取ったのですが、どうしてどうして歯ごたえ抜群です。感覚的には学術書です。


「はじめに」から、引き付けられました。

これまで日本では「無政府主義」と翻訳されることで、アナキズムはとても「危険」な思想のように誤解されてきた。しかし、いま、アナキズム再考の流れができつつある。
(中略)フランスのプルードン(1809-1865)を代表として、アナキズムの思想が「権力支配を排除した相互扶助」としてよみがえってきた。

p.3

恥ずかしながら私自身少し前まで、アナキズム(無政府主義)は、漠然と「危険」な思想のように思っていました。しかしブレイディみかこさんの本を読んだことで、印象が変わり、だからこそこの『学校で育むアナキズム』にも興味を持ったのです。


アナキズムが主張するように、支配を成立させている権力関係がなくなることによって、かえって秩序が回復する

p.4


「実は、アナーキーであることによって、子どもも教員も安心して過ごせる学びの環境がつくれるのではないか」ということを確認してみたい。これが本書のねらいである。むしろ、学校はアナキズムの実践にとっては、とてもふさわしい場所だということも、読者のみなさんとともに、実感していきたい。

p.5

この言葉に非常に魅力を感じたのですが、後述のように、池田さんが理想とする学校には、ちょっと同意しきれないものがあります。


国家なんかは要らない。権威なんかは要らない。誰もが迷惑を掛け合って、助け合う。それでも大丈夫。本当に、みんな優しい。ちょっと資本主義のせいで、意地悪な気持ちになってしまっただけなのだ。ちょっと権力のせいで、嫌な奴になってしまっただけなのだ。

森元斎『アナキズム入門』ちくま新書、2017年、216頁

そこに、ある種の「かっこよさ」を感じてもいた。何かしっかりとした規則に従って行動しているのではなく、困ったことが起これば、その時々の自分にできる範囲で、そのつど解決策を考え、それについてとくに大げさに語るわけでもなく、事が済めば、「じゃ、またね」と言ってそれぞれが自分の世界に戻っていく、といったイメージである。

p.30

本当に軽やかかつ、かっこいいです。かくありたいです。


「未開社会」は、未熟ゆえに国家を持たないのではなく、国家を持つことを回避している、というわけである。この点については、第1章であらためて確認していくことにしたい。

p.21

未開社会の人間は、生き残りのために常時食料を探索するという動物的生活卯を強いられているどころではなく、生き残りという結果(中略)を実現するのに、著しく短い時間を費やしているに過ぎないのだ。(中略)人間が自分の必要を越えて労働するのは、強制力による以外にはない。ところがまさにこの強制力が、未開の世界には不在なのだ。

p.63

これは『サピエンス全史』でも、アフリカのカラハリ砂漠の狩猟採集民の労働時間は先進国の人の労働時間より少ない、という形で指摘されていました。

「欠陥」「遅れ」「無能力」ということではなく、「無用な過剰の拒否」であり、「生産的労働を必要の充足に調和させる意志」があるということなのだ。

p.63~64


「ゾミアに暮らす山の民は平地に発達した国民国家が恣意的に定めた国境線をものともせずに、地形や勾配に応じた農業生態環境を見ながら自らにふさわしい生活拠点を模索し、独自の世界をつくりだしてきた」のである。一見すると、ひとつの地域としてとらえることができないように思われるのだが、そこでの暮らしのあり方に着目すれば、これまでの国家を前提とした枠組みでは見えてこない「秩序」が浮き立ってくるのである。

p.22

「ゾミア」とは、「ベトナム中央高原からインド北東部にかけて、そして中国南部に囲まれ、いくつもの国家の「辺境」に位置し、どんな地域区分にも当てはまらないような」(p.21~22)地域のことです。これを読んで連想したのが、現在読み進めている最中の『11の国のアメリカ史 分断と相克の400年』です。この本でも、国境や州の境にとらわれない各地域の姿が描かれます。


規制緩和についての著者の考察には、ぞっとしました。

これまで人々の自由に任されていた領域にまで規制をかけていくという意味での「緩和」なのではないか。これまで限定されていた規制の対象を広げ、公的な縛りの範囲をどんどん広げていくための用語なのではないか、と。「規制」するという行為に対する規制を解除し、人々の日常生活レベルにまで国による「規制」の網がかぶせられてきている(管理・監視の対象になってきている)、つまり、規制行為が「緩和」され、拡大したわけである。

p.23~24


後でも繰り返すことになるが、確固たるもの、固定的なものとしての「個人」は、近代社会が要請する幻想である。いったん固定されれば、問題はすべて個人化されていくだろう。自己責任という考え方とも親和性をもつ。これに基づけば、権力機構は、何をやっても免責される。あくまでも悪いのは本人であるのだから。

p.37


信号機を撤去し環状交差点にしたら、かえって事故が減ったというオランダの実験は興味深かったです。

信号機は、人々がそのつど状況を見ながら行う機能を代替している(というよりも、その調整力を人から奪っている)のだが、実際には、人々に命令を下し、従わせる力を得てしまっている。要するに、「調整」するという自発的な相互行為を誰か(何か)にゆだねると、譲渡されたものが人々に命令を下すようになる、ということである。ここに、権力機構が誕生する。

p.56

ある学校に勤めていた時、その学校に行く途中に、時間帯によっては人も車もほぼ通らない横断歩道がありました。私はその横断歩道を、生徒がいない時間帯で、車が絶対に来ない状態であれば、赤信号であっても渡っていました。そうしたら、どこで誰が見ていたのか分かりませんが、ある時副校長に注意されたのです。しかも直接ではなく、遠回しな言い方で……。

私の行動が、教員として相応しかったかというと、もちろん疑問の余地はあります。でも絶対に安全な状況でも、赤信号であれば止まらねばならないというのは、思考停止だと思ったことを思い出しました。まぁさすがにその後は、赤信号で渡るのはやめましたが。


電気自動車を増やすのではなく、自動車への依存そのものを問い直させばならないし、タブレット型端末の配布に代表されるように、かなりの電力を消費するパソコン機器の教育界への大量導入ではなく、それらを使用しなくても子どもたちが安心して学べる人間関係を大切にしてはどうか。

p.65~66

激しく同意します。


一定の区画に一種類の牧草の種を蒔いた場合よりも、何種類かの異なる種を蒔いたほうが、個体数でも全植物体の乾燥重量でも多くなることが紹介されている。
このようにダーウィンを参照しながらクロポトキンは、絶えず互いに闘争しているものと、互いに扶助するものとでは、後者こそが「最適者」なのだと述べる。

p.74

これは「ビッグイシュー日本版 VOL.466」で紹介されていたマヤの伝統農法「ミルパ」で実証されていることですね。


「個人」という言葉はindividualの訳であり、これ以上分解できないという状態を意味するということは、現在ではかなり知られている。(中略)
わたしたち自身が「分解できない」個体だと想定すると、そこで何が起こるか。それは、バラバラになった個人間の生存をかけた「自由な」競争である。しかも、この競争には、強制的に参加させられていく。しかし、そこでの競争は不平等な競争なのだから、当然、格差が生まれる。

p.86~87

封建社会の終焉後、私たちは幸せになれたのか、考えてしまいます。もちろん、封建社会が良いわけではありませんが。


ロビンソン・クルーソーについての指摘も、興味深かったです。

彼は、無人島にいるにもかかわらず、「近代的労働」を行うのである。

p.88


「自己有用感」という言い方もある。(中略)自分が何かの役に立っているかどうかが自分の存在の肯定につながるというものだが、役に立っているかどうかをいったい誰が判断するのか。そこに権力関係が入り込むのであり、誰かから評価を受けないと自分が保てない状態だということになるのだから、普通はそういう状態のことを自己肯定感が低いと言うはずである。

p.95

確かに!


校則は、教育を受ける権利が確実に保障されるために必要な規則でなくてはならない。子どもたちの「権利」を書くのが校則なのである。
(中略)要するに、学校という場で、いかに安心・安全に学習を遂行していけるか、そのために障害となっているものが学校の中にないかどうか、それをチェックし、子どもたちの権利を守っていくのが校則の役割である。

p.119

校則は「生徒心得」とは異なる。今日、世間で問題となっているのは、この「生徒心得」のことである。多くの人はこれを勘違いして「校則」と呼んでいる。この学校の生徒である限りは、このような生徒であってほしいという学校側(校長や教員)からの願いを書いたものが「生徒心得」である。

p.120


文部科学省は、みんなが一斉に同じ授業を受けている場面を「画一的」と呼んでいるのだろう。しかし、タブレットの中で、みんなが同じ内容・目標に向けて、その進度に応じて、それぞれの時間で学習していることは「画一的」ではないのだろうか。(中略)みんなで一斉に学習が行われているのなら、そこには絶対に「ブレ」が生じる。画一的に学習は進まない。理解の早い遅いもあるし、子どもそれぞれが学習内容に刺激されて、あるいは相互に学習状況を確認し合うことで、さまざまに学習場面は展開していく。

p.154~155

その通りです。


教員からの声として、パソコンの活用による学習で、子どもたちの積極的態度も引き出せるのではないかとの議論もある。ネット検索などでいろいろな調べ学習も活発化する、といったように。しかし、少し注意しておくべきことがある。「調べる」と称しているその行為は、実際には、誰かが「調べたもの」を見ているだけなのではないか、ということを自覚しておく必要がる、という点である。

p.156

大切な指摘です。


アクティブ・ラーニングについての指摘も、膝を打つ思いでした。

一見すると話し合ったり、議論したりしていても、ただそのような場が設定されているのでそうしているだけであったり、何のためにやっているのかが自覚されていなかったり、その議論が自分にとってどんな意味があるのかがわかっていなければ、「受け身」の学びだということになる。

p.157

私は個人的に、アクティブ・ラーニングには懐疑的です。うまくやっている先生方も、もちろんおいでだと思いますが、「見本」として映像で観た授業が、どれも結構「何だかな」という感じだったので。アクティブ・ラーニングについての私の思いについては、以下の記事をご覧ください。


ただ、池田さんが理想とする学校については、ちょっと同意しかねます。

前を向いている机は5つほどで、残りは、実にさまざまな方向を向いていた。窓際が人気で、何人かは完全に窓に向かって机を並べていた。静かに教員の話を聞いている雰囲気ではなかったのだが、生徒たちは聞いていないようでいて、実はしっかり聞いているようだった。(中略)その高校では、いろいろな方向に机が向いていることこそが、安定した状態だったのである。それが許容されることで、生徒たちの学級での「生活」が保障されていたのである。

p.164

別に机をきちんと揃えて、全員まっすぐ前を向いて、私語抜きで授業を聞けとは言いません。さすがにそれは気持ち悪いし、逆にやりにくいし。でも窓に向かって机を向けている子たちがいる教室は、嫌ですね。


チャイムがない学校というのが出てきているそうですが、それは「他者から時間を知らされなくとも、自分でしっかりと時間管理をする習慣を身に付けさせるため」です。

この目的を知ったときのわたし自身の驚きと落胆は、かなり深刻であった。チャイムがなくなることで、わたしは、「今日はひたすら図書館で歴史の本を読むぞ~」とか、「カーブを投げる練習を徹底的にする!」といったようなことが実現するのかと思ったからである。

p.187

そういう風にしたいのなら、学校で授業を行う必要はありませんよね。池田さんは図書館や実験器具といった学校の設備は必要かつ、生徒が好きな時間に使えるべきだと思っているようですが、授業ばかりは時間を決めてやらないわけにはいかないでしょう。授業も生徒が好きな時間に受けるというのなら、オンデマンド授業しかないですね。


国際的には、後期中等教育(日本では高校段階に相当する)は、権利としてすべての人に保障されるできとされており、これをふまえれば、進学希望者は、全員、高校教育にアクセスできる制度でなければならない。つまり、日本のように、高校教育の機会の教授に、かなり選抜性の高い入試というハードルを設けていること自体が問題なのである。たとえば、フランスのように高校の1年目までが義務教育期間である国では、当然ながら、高校入試は存在していない。他の国でも、受験がないか、あっても簡便なものにしている場合がある。(中略)本来であれば、入試の存在自体が権利保障制度を構築するうえでの障壁として問題にされるべきものなのである。

p.191

これは知らなかったので、ここに控えておきます。


今後の自分の生活デザインにとって必要なら、学びの継続のためのひとつのあり方として受験を位置づけるだろう。アナキズムを体験すれば、受験や就職活動に成功しなければ生存にかかわるなどという切羽詰まった感覚になることはない。成功しようがしまいが、みんな助け合って生きているのだから心配ないのである。かえって落ち着いて受験のことを考えるようになるだろう。

p.214

ほんと、こういう状態になってほしいものです。


そこ(引用者注:学習指導要領)には、教員のやるべきことは書いてあるが、子どもたちが何をしなければならないかは書いていない。これは、考えてみれば当たり前である。教育への権利を行使しようとする者に、やるべき義務が課されているはずがない。

p.231

これは重要な指摘だと思います。


池田さんのおっしゃることに百パーセント同意できるわけではありませんが、いろいろ目を開かされる指摘があったので、読んで良かったです。


見出し画像は、歯ごたえ抜群ではもちろんありませんが、昔ながらの固めのプリンです。




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