生き方

自分のことを、自分自身が、存在として丸ごと愛し、

もはや「愛そうとする」という努力も必要ではなくなり、

存在が愛そのものに還ったとき、


地球に生まれてきた「私」としての人生は終わるのではないかと思う。




そしてそこからは、”存在”として、この地球で人間を生き始める。



もともと私たち(魂)は、宇宙でのただの存在そのものだから、

「存在として生きる」ということは、「宇宙を生きる」とも言えるのではないかなとも思う。



これは一見、なんだか「すごいこと」のように思えるかもしれない。


だけど、「存在として生きる」と、「存在として人間を生きる」は違う。

「存在として生きる」とは、「傷つくのを恐れるが故に、それを選択する(意識的でも、無意識的でも)」ということであるように思う。


成長過程。

そこを通過していたような気がする。



そしてその過程にいる場合、人間としての喜び(の体験)を得にくくなってしまうのではないかなとも思う。



「人間としての喜び」とは、

愛し、愛されることだと思う。


とてもとても、シンプルなこと。




存在として生きることは、楽なこともたくさんある。

「私」は自分ではないのだから、悩まないし、考え込まないし、落ち込まない。

昇華済みだから、没入しない。心が傷つくことも、減る。




だけどそれは、どこか虚しくて、

感情の波はないけど(正確には感情の揺らぎに自分そのものが呑まれることはないけど)、求めているはずの「穏やかで温かい状態」とはちょっと違って、

糸の切れた凧のように、「このままどこへ行くんだろう」と、あてもなく独りゆらゆら彷徨う。




「存在として生きる」は、私は選ばない。

それは私にとって、ただ人間を生きることから逃げた生き方でしかない。


「存在として、”人間”を生きる」。

これから、その生き方をする。




存在にも、人間(人)にも、偏りすぎることなく、

バランスを取りながら、

・・・というか、人間を霊的な存在として捉え、

「捉える」という概念もなくなり、

ただそう生きる。




現実は内側の投影だから、

自分自身のことを、存在としても、人間としても大切にし、

それが当たり前になったら、

現実にもそういう存在が現れる。



無理なく自然体でありながら、関係の構築に丁寧に取り組む。努める。


ただ愛という存在のままでありながら、

愛する、愛される、ということに対して能動的な態度でいる。






溶けていながらも、ちゃんと「いる」ように生きる。

シンプルな自分の望みに、

どこまでも素直に生きる。












読んだ?ねえ読んだ!? お金ちょーだい🥺💕