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記憶の片隅にしまっておいた、一生忘れられないFRANCE旅行

人生で初めて海外旅行をしたときの思い出は、一生忘れられない。

特にそれが、ずっと行ってみたくてしかたのなかった国なら、なおさらだ。未知の世界に飛び込むときに抱いていた期待と希望が、どこか甘くて苦い経験となって帰ってくる。

先日、めったに開かない棚の中にしまっていた箱の中を片づけていたときのこと。20年前にフランスに初めて旅行した時に書いた日記と、その旅行中に撮った写真が数十枚入った小さなアルバムと目が合った。

スマホがなかった時代で、重くて分厚い日記と、撮った写真をすぐに確認できない(自撮りなんてもっと至難の)使い捨てカメラをバッグに入れてパリを歩いた。スマホなしで海外旅行をするなんて不便極まりなさすぎて、今では想像ですらきないけれど。

とはいえ当時はスマホがないのが当たり前だったのだから、不便さにすら気がついていなかったのだ。見るからに年季を感じる、色あせた日記とアルバムを箱から取り出し、数秒ほど眺める。

すると、あることに気がついてしまった。

「一生忘れられない」はずの初のフランス旅行の思い出が、私の中でいつしかその日記やアルバムのように色あせていたことに。

それは待ちに待った憧れの地に降り立った記念すべき旅行だったはずなのに、20年の時の流れが記憶を霞ませている。日記とアルバムの表紙を見つめながら、それがあの旅行のときのものだとわかっていながらも、断片的にしか思い出せないのだ。時間で言うと、4日間の旅行のうち、日記やアルバムの中身を見ずに思い出せるのは数秒ほどの瞬間だけ。

当時フランスに憧れる大学生だった私は、将来はフランスに関する仕事がしたいと思うようになり、卒業後に1年間フランスに語学留学をする準備をすすめていた。

でもまずその前に、「全く知らない土地にいきなり住み始めるのは...もし自分に合わなかったら、1年間も住めないのではないか」と、恋人と結婚前にお試しで同棲するかのように「フランスと私の相性を見極めるため」と称して4泊6日の旅行を計画したのだった。4泊で相性がわかるのかどうかは置いておいて。

かろうじて見覚えのある日記の表紙をめくり、だいぶ薄くなった自分の文字を読んでみるも、本当に自分が経験したことなのかと不思議な感覚になってくる。他人事のように思えてしまうのだ。でも確かに自分の字だし、写真にはときどき自分が写っている。

手がかりを探すように写真をながめ、心の片隅に潜む記憶を引っぱり出して照らし合わせていく。すると、白黒だった映画に新たに色がつけられるかのように、少しずつ思い出も鮮明によみがえっていった。

さらに日記を数ページ読んでようやく「そうだ、そんなことがあったんだった」と自分事として読めるようになっていった。

「記念すべき生まれて初めての海外、FRANCEへ旅発つ。」

その日の私は、そんな一言で日記を書き始めていた。FRANCEとアルファベットで書くところに、フランスへ行くことに対する特別感がうかがえる。

4時35分にアラームをかけて起きたことや、その旅行はパリの語学学校の下見もかねていたこと。準備を終えて6時07分に家を出たこと。最寄駅からはバスで空港まで行ったこと。9時13分に空港に着いて、10時35分になるまでカフェでアイスティーとスコーンを食べたこと。傷のない新品のスーツケースを持つことに対してハズカシイと思ったことなど…

時刻と行動と心理描写を細かく書いているので、日本からフランスに着くまでに軽く2,000字は費やしている。一時も日記を手放さずに、時計を確認しながら書きとめていたのだろう。

日記を読んでいるうちに、言葉の狭間からぽつぽつと浮かび上がってくる思い出の数々。

あまりにも些細なことまで書いてあるので飛ばしながら読んでいると、不意に大きなフラッシュバックが起こることがあるから要注意だ。心の準備ができていないまま、過去にタイムスリップする感覚に襲われる。

それは無事にパリのホテルへ着いてチェックインをしたときのこと。大学の第2外国語として習っていたフランス語力を試すべく、なるべくフランス語でコミュニケーションをはかるようにしていた。

「フロントで部屋の場所と朝食の時間などを聞く。理解できてよかった」

日記には、たった1文で書かれた一瞬の出来事だけれど、初めてフランス語を使って意思疎通ができたことへの感動がよみがえる。しかも念願のフランスで。

ホテルに入った時の、コーヒーとタバコと香水の匂い。オレンジ色の照明の下で見たカウンター越しのお兄さんの顔。深い赤茶色の絨毯。日記には書かれていない、写真にも残されていない映像と感情。そのシーンが切り取られて脳内再生される。

フランスで電話をかけるには、まずテレカルトというカードが必要だった。パリに着いたことを両親に伝えたかったけれど、テレカルトはホテルでは売っていないので、近くのタバコ屋まで買いに行く。

テレカルトを手に入れたら、今度は公衆電話を探さなければならない。ホテルの近くに公衆電話を見つけられず、長時間のフライトで疲れ果てていた当時の私は、そこで電話をかけることをあきらめている。20年前ならではの不便さだ。今では存在すら忘れてしまっている公衆電話を探し求めて歩きまわった頃があったのだ。

旅行中、フランスに住む日本人の友人たちと会う予定があったので、まずホテルのフロントにかけてもらい、そこから内線で部屋の電話につないでもらうか、こちらから公衆電話で電話をかけるなどして連絡を取り合う。電話の向こうから聞こえる日本語に、どれだけ安心感を覚えたことか…

言葉の通じない海外で心にしみる、人のやさしさへは忘れられないものだ。旅行中にお世話になった人たちのことは時々思い出し、思い出すたびにお礼がしたい気持ちに駆られる。今では音信不通になってしまって、どこで何をしているのかわからなくなってしまった人たちもいるけれど。それでも、連絡を取り合うのも一苦労だった頃に出会い数日を共にした人たちのことを、ときどき回想することがある。

連絡を取り合うことの他にも、約束の時間に相手があらわれない時の不安や、電車が遅れて時間に間に合わなくなってしまう焦り、地図と通りの名前を見比べて目的地を探すのにかかる時間など…今ではスマホで指先から数秒で人と連絡を取り合い、ケータイの画面が行き先まで案内してくれるけれど、20年前のアナログな旅には時間と労力がかかるものだった。

幸いなことに、フランスに住む日本人の友人たちのおかげで、ルーブル美術館やモンマルトル、オペラ座、シャンゼリゼ通りなど、たった4日間の滞在ではあったが迷わずにパリを歩きまわることができた。

それぞれの観光名所に対する感想は、日記によると意外にも「きれいだった」「感動した」「素晴らしかった」などとシンプルなものだった。人はあまりに圧倒されると言葉を失う。日記には書かれていないけど、言葉でどう表現していいのかわからないほど感動した、というのは心が憶えている。

日記に書かれていない、あまり思い出したくないこともある。たとえばパリを歩いていて、不意にスリに狙われて恐怖を感じたり、差別的な言葉をかけられたり。そのたびに悲しい気持ちになったけれど、負の一面を垣間見ることで自分の振る舞いを見直し、学んでいくのだ。

とはいえ、友人たちのおかげで実際に被害に合うことなく安心して観光できた思い出は、楽しかった記憶として脳内で処理されている。ただ、いい意味でも悪い意味でも強烈に印象深く記憶に残っているのは、不安と焦りと安堵に溢れた、モン・サン=ミシェルに行ったときのことだった。

フランスに行ったら必ず訪れたいと思っていた場所に行くため、頼りになるパリ在住の友人たちは一緒に来れない、付き添いなしの「遠足」を計画した。数か月後に1年間ひとりでフランスに留学をする予定だったのだから、「少しの遠出くらいできなければ」と意気込む。けれど、やはり当日の朝からとても緊張していた。穴があきそうなほど読み込んだガイドブックを胸に抱えてホテルを出る。もちろんスマホもナビもない。

モン・サン=ミシェルへ行くには、まずパリからレンヌまで行く必要がある。そしてレンヌ駅からバスだ。日記によると、朝7時にはパリのホテルを出て、レンヌ行きの電車に乗るために北駅へ行く…はずが、「間違えて東駅に着いてしまった」と書かれているので、早朝からハプニングが起こっていたことがわかる。

走って走って、幸いにも北駅発の電車に間に合った。ほっとしたと同時に窓の外に目をやると、自然豊かな景色に見入る。牛やヤギが放し飼いにされている草地が広がり、しだいにレンガ造りの家々が見えてくる。

パリから約2時間後にレンヌ駅に到着。駅近くの、モン・サン=ミシェル行きのバスの切符売り場が休みだったため、無事に行けるのか再び不安に。バス停で運転手らしき人に質問して、切符はバスの中で買うことができることがわかり安心する。

ただ、モン・サン=ミシェルからレンヌ駅に戻るときのバスの到着時間だと、その後のパリ行きの電車に間に合わないことに気づいてしまった。バスが出発する前に、パリへ戻るための電車のチケットを駅で変更してもらった。

今では直接言葉を交わさずにネットで事前予約や決済が可能なことでも、この頃は当日に窓口でチケットを買うしかなかった。問題があればその場で交渉してチケットを変更したり、行き当たりばったりでどうにか乗り越えなければならなかったのだ。

乗り遅れそうになった電車と、チケットが買えるか不安だったバスを乗り継いで、ついに辿り着いたモン・サン=ミシェル。バスからシルエットが見えたとき、ガイドブックの写真と見比べて、本当にこの場所まで来たのだと実感した。近くに停められたバスを降り、パリの喧騒とはかけ離れた別世界のような厳かな雰囲気と、遠くからでもわかる建物の造りの繊細さ、その美しいバランスに心奪われながら門をくぐる。

パリにも教会や美しい建物はたくさんあるけれど、ノルマンディーの海にひっそりとたたずむ孤島の城のような姿は、人が造ったものとは思えない神秘さがある。しだいに、ここへ来るまでの気苦労が溶けていく。

教会の周りは、城下町のようにたくさんのお店があり賑わっていた。当時はスマホでネットのレビューを参考にするなんてできなかったから、感覚でレストランを選び、ガイドブックで見た名物のオムレツやシードルを飲んだ。

もしネットのレビューがあるなら、「オムレツはフワフワだけど味は薄め、シードルはリンゴの味をしっかりと感じる甘めのお酒」という意見が一つは書かれているに違いない。

迷路のように道が入り組み、いたるところにある階段を上り下りしながらモン・サン=ミシェルで数時間を過ごした。数百年前に修道士たちが歩いていた道に、今は世界中からの観光客があふれている。新婚旅行で来ている夫婦、ツアーで来ている人たち、一人旅をしている人、友達同士で来ている人…その数だけ、思い出が作られていく。

そんな遠足を無事に終えて、フランス旅行もついに最終日となった日。

急に体調が悪くなってしまった。

歩くのもやっとだったので記憶が本当に曖昧なのだけど、体調が悪いとメンタルも弱ってしまう。この旅行で直面した、言われることがなかなか理解できないフランス語と、思ったより10倍くらい話せない自分のフランス語のレベルの低さに不安が増してしまい、落ち込むことも多かった。

そもそも、数カ月後にフランス語を学びに来るとはいえ、こんなにも理解不能な状態でいいのだろうか。友人たちに助けてもらわなければ、何もできなかったのではないか。1年間、この地で生活していけるのだろうか…

今回の旅行の目的「フランスと私の相性」について考え、帰国直前に体調が悪くなったことで「これはもう、フランスに来ないほうがいいということなのだろうか」とまで思いつめていた。

たった4日間の感情の起伏の激しさに、自分でもついていけない。

フライトまでの数時間、観光どころではなくなってしまったのだけど、ふらつきながらも訪れたノートルダム大聖堂では不思議と身体が楽になった。

オルガンの澄んだ音色、美しいステンドグラス、外の喧騒とは対照的な静寂。世界中から多くの人が出入りするにもかかわらず保たれている神聖さ。フランス旅行最終日の寂しさと安堵と、留学への不安が入り混じる感情が溢れる。

木製の椅子に座って休んでいると、無意識に涙がこぼれていた。

涙とともに溢れた感情が浄化されたような気持ちになり、根拠はないけれど「大丈夫」と感じることができた。「また戻ってきます」と心の中でつぶやいて大聖堂を後にし、日本へ帰るために空港へ向かった。

出発前に抱いていた期待と希望は、たった4泊でさまざまな経験を通して甘くて苦い思い出になり、日記や使い捨てカメラ、そして心の中におさまり一緒に帰ってきた。自分への一番のお土産だ。

もうろうとしつつ実家へ帰宅し、母が作ってくれたお茶漬けを食べながら、気持ちはすでに数か月後のフランス留学のことを考えていた。留学先をパリではなくブルゴーニュ地方にしたのは、モン・サン=ミシェルを訪れたことで都会から離れた町の魅力に惹かれたからだ。とはいえ都会も好きだから、パリへはときどき遊びに行く。

あれから20年。旅行から数か月後にフランスへ留学し、そのままブルゴーニュに残り仕事をして、結婚や出産を経てフランスで生活し続けている。

あの旅行で初めておろし、新品過ぎてハズカシイと思っていたスーツケースは、今では傷もたくさんついて年季が入ってしまったけれど、今も現役で一時帰国のときに大活躍してくれている。

いくつかのフラッシュバックで蘇った数日間の思い出にしばらく浸ったあと、またいつか呼び起こすために日記とアルバムを箱の中へ大切に戻す。デジタルじゃない、アナログな保存方法で。

時が経つにつれてどんどん色あせてしまうかもしれないけれど、20年前に書いた自分の字と写真は、たしかにここにある。

これからも記憶の片隅にしまっておく、一生忘れられないFRANCE旅行だ。

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