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暗闇にカーテンが揺れている。
 手を伸ばしてそれを掴む。ざらりとした布の感触が慣れ親しんだものであることを確かめ、手を離す。

 陽気な笑い声とバイクのエンジン音から、窓が開いていることを知る。腕に当たる春の風は温かい。時間を知ろうとスマホの電源を付け、眩しさに目を細めた。二十二時四十七分。習慣としてLINEを開き、直ぐに閉じた。連絡が来ないことを私は知っている。
 喉が渇いたが、ミネラルウォーターを切らしていたことを思い出した。コンビニくらいなら行けるかもしれない。うつ伏せのまま音楽をかけ、三曲目の途中でなんとか起き上がる。寝過ぎてひどく浮腫んだ顔に冷水をかけるといくらか気分はましになった。汗ばんだスウェットを洗濯機に放り込み、このプレイリストを作った人が遠い海の向こうで選んでくれたTシャツを被った。

 空港での別れ際、体調を気遣ったのが彼らしいと思った。私がちゃんと食べているか、ちゃんと寝ているか、今は元気か、いつもしつこいくらい確かめる人だった。私が一人で東京に戻ったらこうなることなど容易に想像がついたのだろう。現像して壁に留めた写真を眺める。煙草がよく似合う男だった。私などよりはるかに先にどこかを病んでしまいそうで、でも煙草をやめて欲しいとは思えなかった。私はその猫背が好きだと言った。

 存外頭が冴えてきたので、化粧をして髪を整えた。出来栄えが良いと、死ぬ日はこの顔でいたいと思う。同時にそう思う余裕があることを確かめている。せっかくなので少し散歩をすることにした。ちょうどUAの『微熱』が終わったところで支度が終わり、音楽を止める。部屋が静止する。静寂に不安が掻き立てられることはわかっているので、直ぐにヘッドホンに切り替えた。こうしたコントロールを積み重ねることで生活をしている。その一環として彼と連絡を絶ち、もうすぐ一ヶ月になる。
 私たちが共有した固い諦め、後悔、嘘、希望の間には、互いへの赦しと受容があった。私はそれを愛と呼びたい。愛は今も私の中に残っているが、いずれ認識できなくなる。それが私の願いだった。恋や時間によってスポイルされる前の綺麗な色を吸収したいのだった。そうした私の屈折した考えを伝えてもおそらく彼は紗夜らしいと笑うだけだろうが、私は理由を告げずに連絡を絶ちますとだけ書くことで、ささやかな抵抗を試みたのだった。これまで彼にもらった安心に報いるために、宣言は行わなければならなかった。その点でこの抵抗は弱いものにしかならず、案の定彼は食い下がることもなく私の宣言を受け入れた。ただ彼は私の行動をあくまで一時的なものと考えているようだった。それでいいと思った。そのつもりでなくても、連絡をとらないうちに私のことを忘れてくれればもっといい。
 ふと、私は単に臆病なのかもしれないと思う。浮上して落ちるのが嫌なだけではないかと。例えば彼は容姿が優れているだけの女性に興味はなく、独特の考えを持つ人、理解の及ばない聖域を持つ人に惹かれるらしかった。彼はその点で私を過大評価していた。私はそれがずっと怖かった。
「嘉納さんは、いつか私に飽きますよ」
 そう言うと彼は決まって「俺に飽きられることの何が嫌なの」と口角を上げ、「飽きないですよ。紗夜は十分いかれてるからね」と私を安心させにかかった。私はそうした言葉を信じるのが非常に苦手だったが、彼が頑なな女を好むことを逆手にとって文句を言い続けるのは私の美意識に反するので、いつも曖昧に黙ってしまう。そうすると、心配性の彼はからかう素振りを見せながらも私の不安をなんとか取り除こうと頭を回転させて言葉を尽くす。
 思っていることを言葉で説明してくれる人は存外少ないという事実が、歳を取るたびに私を追い詰める。最初に嘉納が私に興味を持ったのは、私が彼を異常に警戒していたからだと言う。おそらくそれは私が絶対に忘れることのできない男に嘉納の容姿が似ていたからだが、ともかく、私の何かを隠している様子が彼の知的好奇心をくすぐり籠絡してやろうという気にさせたらしい。結果的に籠絡こそされなかったものの、いわば捨て猫が手懐けられたような形で、私を安心させられる人間は嘉納しかいないと今でも思ってしまっている。

 コンビニに着き、酒を選ぶ部屋着姿の男女の隣でミネラルウォーターを取ろうと腰を屈めた時、ポケットの中の携帯が震えた。数日前に会った男からだった。明日は日曜だが、今日は気分ではないので電話を切る。年下では初めて、抱かれてもいいかと思った相手だったが、今は段々と醒めていった酔いの感覚ばかりが思い出される。新しい男と寝るたびに、目を瞑る自分の癖を後悔している。会話もせず暗闇で動いているのがいったい誰なのかわからなくなり、彼らは私の中でひとつの曖昧な像に統合されてしまう。目を瞑り体を預けている間、唯一の記憶は髪の手触りと香りだ。指によく絡む長い癖毛は、ろくなセットもしないのに羨ましいほど様になっていた。すっと鼻に抜ける檜のような香水とpeaceの苦味もよく合っていたと思い返す。翌朝彼が流した外国の音楽は心地よかった。バンド名に反して、行為後に煙草は吸わないらしかった。
 こういった男が女に困らないのだろうとぼんやりと思う。だがそのどれもが嘉納とは違った。嘉納は香水など付けていなかった。何度怒られても彼の汗の匂いを嗅ぐのが好きだった。剃り残した髭の感触、上擦った声、肩の形、蕩けた目、それらは唯一無二のものだった。嘉納との記憶だけが独立して鮮明なのは、私が彼を見ていたからだ。揺れる視界の中、黒い影に手を伸ばし頬の輪郭を確かめた。決して間違ったことは口走らない彼との、絶対的な距離を確かめていた。その距離は彼の誠実さだった。
 
 嘉納が私に残した言葉を、私はどれだけ覚えているのだろうか。四季と共に、私に再生と幾度目かの喪失を与えた男。あれから私は空洞を埋める大きな氷と共に生活を続けている。

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