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光②

 冬の最中に彼の運転で行った江ノ島を思い出す。嘉納が「紗夜を車に乗せたい」と言ったので、レンタカーを借りたのだ。沖縄出身の嘉納にとっては、江ノ島の海など汚いだけだろう。そう思っていたが、海辺に立ち並ぶパステルカラーの家々を見るや否や彼は歓声を上げ、「俺の故郷に似てますね」と言った。

 車を降りて海辺に腰掛けると、それまで感じられなかった潮の香りが鼻をくすぐった。少し低くなりつつある太陽が水面に反射してきらきらと光る。遅れて歩いてきた嘉納は私の横に立ち、目を細めて猫のように伸びをした。そうだ、この人は献身的に見えてやっぱり猫なのだ、と思ったら肋骨の辺りに息苦しさを覚えた。「やっぱり都内だと少し気を張ってるから、知ってる人間がいないところは解放感があるね」その時はそういうものなのかと思っただけだった。だが後に沖縄で共に過ごした一週間で、彼が言ったことを私は痛いほど理解することになる。

 嘉納はどの都市でも閑散とした住宅街を好んだ。江ノ島の東側の、観光客など一人もいない路地をあてもなく散歩し、彼はつらつらと昔のこと、自分のことを話した。私は適当に相槌を打ちながら夕焼けを待った。彼が私を気に入っている理由を説明されるのは退屈だった。私が欲しいのは事実だけだった。愛情表現としての言葉を信じるという考えが私には無い。どうして彼がそんなにも自分の感情を説明したいのか、私には理解できなかった。それを伝えると、嘉納は「紗夜は冷たいね」と言い、上着のポケットからキャスターを取り出して火をつけた。吐いた煙が空に溶ける。
「一本もらってもいいですか」
「あ、吸うんだ。どうぞ」
 同じ銘柄の煙草を昔一人で吸っていた。吸い始めの頃、制服でマックシェイクを飲むたびにこの味を思い出していたのが懐かしい。冬の海辺の寒さが、私に喫煙の記憶を呼び起こさせた。
「可愛いね」
 煙を吐く私を眺め、嘉納は念押しするように言った。風にあおられた煙が目に染みた。

 それぞれのパートナーと呼ぶべき人間と来た場所に、二人でいるのは妙な感覚だった。油絵の具と蛍光ペンのような、違う作品のキャラクター同士を並べたような、そんな滑稽な違和感が拭えない。
 私たちが落ち着けるのはもっと何でもない場所だった。海でもイルミネーションでもディズニーシーでも、ラブホテルでさえも私は同じ違和感を感じていた。嘉納とは煙草が吸える下北沢の暗い喫茶店で珈琲を飲んでいたかった。
 その下北沢に越した今、一番呼びたかった人はここに居ない。わざと暗くした照明も分厚い木の食卓も奮発して買ったレコードプレーヤーも、彼に見てもらわなくては黴が生えるというのに。喪失はじわじわと生活に氷の根を張る。早いところ、蛍光ペンは蛍光ペンのパートナーを見つけなくてはならない。


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