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DQ5の聖を聴きながら

私はやっぱりキリスト教徒なのだと思うのが、この曲を聴いた時に浮かぶもの。
DQ5の聖は、オラクルベリーの側にある修道院で流れる曲です。
他にも色々な場所で流れますが、海辺の修道院の印象が強い曲です。
これを聴くと、幼少期に親に連れられて行っていた教会と、そこにいた優しくて温かい牧師さんご夫妻を思い出すのです。

そして彼らを思い出すと、どんなに苦しかろうと立ち上がれるのです。
私に子供向けの聖書を下さった牧師さん。
残念ながら洗礼を受けたのは、そこの教会ではありませんが……
この牧師さんがくれた優しさが、私をずっと支えてくれていました。

宗教というのは、よく分かりません。
だから「入信しなさい」とは言いません。
私のように、自ら望んで行くから良いのです。
誰かに強制されるものではありません。(少なくとも日本国内においては、信教の自由が保証されています)
もし入信する事を強制されるような場所があったら、そこから離れてください。
本当に優しくて温かい場所は、自分から「行きたい」「また会いたい」と思える場所なのです。

私はイエス・キリストの言葉を信じています。
復活するというのなら、するのでしょう。
しないという証明は出来ない以上、いつかすると思う方が心のモヤモヤがなくなります。
救い主という事についても、私は信じています。
少なくとも私の心を支えてくれた人達は、牧師であったり神父(司祭)であったりと、何らかの形でイエスを救い主と信じている人達です。

キリスト教徒と名乗るには、私は敬虔さがないと思います。
教会には通えていませんし、度々愚痴をこぼしたり不平不満を漏らしたりするのですから。
それでも、イエス・キリストの言葉を信じる事は出来ます。

安息日の為に民があるのではなく、民の為に安息日がある。
そんな事を言う場面があります。
土日祝日、休みの日は働いてはいけないのか。
労働という意味では働いてはいけないと思いますが、明日の仕事のプランを練るくらいはしていいと思います。
休みの日に休む為に人があるのではなく、人がぶっ倒れるのを防ぐ為に休みがあるのです。
不眠不休で仕事を続けたら、誰だって苦しくなりますからね。
六日間働いたなら、その後一日ゆっくり心身を休ませましょう……というのが安息日だと、私は思っています。

ちなみに私が洗礼を受けたのはカトリック教会ですが、日曜日にどうしても仕事を休めないと言った時、神父様はこう仰いました。
「日曜日に人々の為に働くのは、むしろ素晴らしい事です」
「時間のある時に神様を意識してくれたら、それで十分です」
……その言葉にどれだけ救われたか。

今は体調面や金銭面から、教会に赴く事が出来ません。
そんな私にも、何か出来る事はあるはず。
そう思って、このnoteを継続しています。
私の言葉を読んで、「面白い」と思ったり「好きだ」と思ったりして、今日一日のどこかで前向きになれたなら……
それもまた、一つの信仰の在り方ではないかと思うのです。
私は、人の支えになりたい。
癒しになりたい。
辛い時、苦しい時、寄り添える存在でありたい。
その為のアドバイスをくれるのが、私にとっての聖書です。
イエス様は、いつも苦しんでいる人の側にいましたから。


こんな事書いといてなんですがね。
旧約聖書はようやくヨブ記なるものを読んだ所なのです。
まだまだ読んでないエリアばかりです。
うう、長過ぎるんだよ!!

ちなみにそのヨブ記を読んだ感想。
「ヨブさん相当病んでます?」
……読めば読むほど「こいつ相当病んでるぞ」と思う内容でした。
今読んでる出エジプト記が平和に思えるくらい、ヨブ記はめっちゃ病んでました。

……私が大人になってから教会に行けたのは、牧師さんの存在が常に心の中にあった事と、DQ5の修道院があった事のおかげです。
あの修道院で主人公が受ける言葉は、私が入門講座を受ける中で挫折しかけた時に、シスターから言われた言葉に近かったです。
こんなんじゃダメだと自分を責めてばかりいた時に、厳しくもあり優しくもある言葉をかけてくれたのです。

DQがなかったら、大人になる頃にはそういうものへの関心が薄れていたかもしれませんね。本当に。

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