『愛は光にみちて』短編6/7 #魔術師
かすかな衣ずれの音──シスターはゆっくりと席を立ち、ふたたび祭壇にむかった。私は顔をあげ、その背中を見つめた。深い沈黙がその場にわだかまり、時の流れを搦みつけていた。
「K教授はお若いころ、よく旅をなさったそうです」
とつぜんふりかえり修女は言った。そして語りはじめた。たった一人の観客を相手に、追想を独白する女優のように。
私は耳をそばだてた。K教授が出会ったという魔術師の話に……。
そこは海峡に臨んだ小さな港街。その端れにある一軒の酒場。嵐が近づこうとするある晩のこと、その店に一人の男がやってきた。男は黒い帽子に黒い外套。それは折からの雨にうたれ鈍色に艶めいていた。店の中には数人のお客と老獪なマダム、そして閑を持てあました女たち、どの目にも初めて見る男の顔だった。
男は無表情に店内を見まわすとカウンターにすわり、黙ったまま身じろぎもしない。雨がしみたコートも、しずくのしたたる帽子もとらず、海鳴りのような雨音を、地鳴りのような風のうなりを、じっと聴いているかのようだった。
マダムには男が土地の者でも、旅行者でも、船乗りでもないことがひと目でわかった。そしてマダムは男に訊いた、なにしにきたのかと。男は答えた、仕事できたと。マダムはさらに訊いた、どんな仕事かと。男は言った、自分は魔術師だと。
男は店の奥の円卓に席を移した。そこで魔術を披露するというのだ。男の正面にはそれをせがんだマダムがすわり、残りの椅子には太ったお客と金髪の女がすわった。ほかのお客や女たちもテーブルをかこみ、退屈な夜の思わぬ余興に冷やかな嘲笑をうかべて見物していた。テーブルの中心にはランプが置かれ、男の手にはマダムからわたされた一枚のポーカーチップ──縁も欠け飴色にすれた象牙のチップがにぎられていた。男はチップをにぎった手をテーブルの上におくと、これは奇術ではない魔術だ。それも二度はやらない。一度かぎり、一度きりだ。魔術師はそう前置をし、念を押して、ランプの蒼い炎を息を殺すようにして見つめた。
まわりの見物人はチップをにぎりしめた大きな拳と男の真顔、それを交互に見較べては目引き袖引きして嗤っていたが、マダムだけは男の碧い睛を、睛のなかにかげろうランプの燈火を、真剣な眼差で見守っていた。
男は火屋のなかで燃える灯心の炎を正視したまま凍りついたように動かなかった。重苦しい息吹を氷像のうちに封じこめるかのようだった。
ランプの蒼い炎が風を孕むように揺れた瞬間、男が指を開いた。見ると飴色にすれた象牙のチップが、まぶしいほどの金貨に変っていた。誰もが声もだせずに目を瞠ると、男はすばやく指を閉じ、そしてこんどはゆっくりと開いていった。金貨は二枚にふえていた。
周囲の目の色が変るのを男は見逃さなかった。男は金貨の一枚をマダムにわたし、マダムは金貨を確かめると男にうなずき、男は一人の女に目をむけた。男が選んだのはテーブルから一番遠いところで見ていた黒い髪の女だった。リタという名前だった。マダムがリタを呼びよせると、男は残りの金貨を彼女に差しだし、二人は二階の部屋にあがっていった。
翌朝、リタが目醒めると男はもういなかった。外からは嵐がすぎさったことを知らせる小鳥の囀りが聞えてくる。リタはベッドから起きあがり窓を開けた。牢く閉ざした鎧戸を開け放つと、真青な空がひろがっていた。リタは降りそそぐ陽射しに目を細めながら夕べのことを考えた。
あかりを消した部屋……荒れ狂う嵐の哮り……包みこむ甘美な香気……うすれていく意識……盲目の暗闇に一枚の金貨……一枚の金貨は二枚に……二枚の金貨は四枚に……四枚の金貨は八枚に……晦暝に漂う無数の金貨……めくるめく黄金の輪舞……あれは現実……いいえ幻……それとも魔術……あるいは夢……男はどこに?
そう思って部屋のなかをふり返ったリタは、驚きと歓喜のあまり気を失いかけたほどだった。部屋のなかは数えきれない金貨で埋めつくされていた。床にも、椅子にも、棚の上にも、金貨、金貨、金貨……。それは窓から射る朝の日差に、陽を迎えた海のように、きらきらと赫いていた。
常闇から甦った金貨の光芒を全身に浴びながら、これは夢じゃない、そう思うと、リタはもう立っていることもできず、くずおれるようにその場にすわりこんでしまった。目もくらむ黄金の煌めき。その光はたがいに反射しあい、響きあい、囁きあいながら、こまやかに揺れていた。リタは自分の持つ行李ではとうてい入りきらない無量の金貨に、ひたすらうち悸えるばかりだった。
──私は神に択ばれた
その思いに揺り動かされて、リタは目の前の金貨に手を伸ばした。慄える指先は禁断の木ノ実にでも触れるかのように。するとその指のさきで一枚の金貨が不意に床から浮かびあがり、それを追って数枚の金貨がおなじく床から浮かびあがり、その連鎖が波紋のようにひろがっていった。ちょうど床にひろげた敷布のまん中を、爪のさきで抓みあげていくように。
浮かびあがった金貨の先鋒はリタの顔をかすめ、光に誘われるように窓にむけて飛んでいく。リタはとっさに金貨を攫まえようとした。そのときだった。宙を舞う金貨が蝶に変ったのは。鮮やかな黄色い翅をひらめかせ、金の鱗粉をひきずるように、蝶は翔んでいく。待ちわびた一条の光に導かれ、一羽また一羽、蝶たちは次つぎに窓の外へと翔びさっていく。部屋を覆いつくした金貨はすべて黄金色の蝶に変り、金貨が放った光の顫動は、翔び発つ翅の始動に変っていた。
やがて蝶たちは迢かな青い空のなかに、熄えいるように溶けていった。
〈つづく〉
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