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中庸

私が学んでいます易経では「中」、「中庸」を重んじます。

仏教でも、世の中の殆どの出来事というものは、「中道」で成り立っている、と、考えられているようです。

中庸も、中道も、極端に偏らない、程々、ということを意味します。

私はこれまでの人生で、南米、北米、ヨーロッパに住んでいたことがありますが、周りの外国人の友人たちから

「いつも曖昧な言い方をして、意見を主張しない。討論にならない。」

と、言われることがよくありました。

若い頃、インターナショナルスクールに通っていましたが、ディベートのクラスがとても苦手でした。自分の正しさを主張し、如何に相手を論破できるか、という授業でした。

私は討論が苦手です。ですがそんな私にも個人的な考えはあって、自分の意見が正しいと、思ってしまうこともあります。

私同様、皆さまにも個人的な考えがあって当然で、10人10色、100人いれば100通りの考えがあり、例えば同じ言葉を聴いても、受け止め方だって人それぞれ違います。

人間関係の摩擦が生じる時というのは、その、自分の持っている意見を押し付けようとするところからなのでは、と、個人的に思います。
意見が食い違う時に、自分の方が正しい!と、主張し合う光景を見ると、二者択一の考え方、若い頃苦手だったディベートを思い出します。私がまごまごしていると、「早く意見を主張しなさい!」と、先生に叱られました。(汗)

仏教や易経からも言えることは、

「あなたの意見は間違いであって、私が正しい!」というのではなく、

「あなたの意見もいいですね、ですが私は別の意見を持っているのですよ。」

というものなのだと思うのです。

ちゃんと自分の考えは持っていて、ですが相手の意見も受け入れますから、自分の意見だけが正しいのだ!とは考えられない、と、外の世界に出てみて改めて自身の平和主義な気質を思い知ったのでした。相手の意見を受け入れながらも、流されずに自分の意見を持っている、と言いますか。押し付けず、押し付けられず、ということで、これまで何とか良好な人間関係を築いて来られたのではないかと思います。

勿論、どちらかハッキリ決めなければならない時も人生には多々あります。
でも、この世の中、白黒ハッキリつけなければならないことって、実は僅かなことで、曖昧にしておいた方がかえって良いのではないか、と、思う事が多いように思います。

意見の押し付け合いからは、何も良いものは生まれません。
相手を受け入れ、相手の意見に耳を傾けること、それが人間関係の始まりであって、関係が深まっていく、と、私は考えます。

若かりし頃は、やっぱり自己主張しないとダメなのかな、自分の意見を通さないとダメなのかな、私って弱い人間なんだろうか、と、悩んだり、迷ったりしましたが、漸くこの年になり、私の重んじる中庸、というものを説明しつつ、意見できるようになりました。(^^)  



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