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べき

こうある「べき」、こうする「べき」という思考があります。

例えば社会人として、妻として、夫として、恋人として、友達として、女とは、男とは、職業人とは、こうあるべき、ですとか、こういう時はこうするべき、と、使いますね。

こういった「べき」思考って、大抵の場合、幼い頃から生育過程のようなものを経て、知らずに刷り込まれて来たものなのではと思うのです。意識して自らそう思うのではないような、信じて疑わない、という度を超して無自覚に、信じていることさえ気づかない、というような、妙な言葉に感じます。

その、刷り込まれた「べき」思考というものは人生を穏やか且つ自由に生きる流れの妨げとなるように思うのですよね。私が自由気楽過ぎるせいか、「べき」という言葉にはとても窮屈さを感じます。折角の人生に制限やブレーキをかけてしまっているような、生き辛さを感じるのです。何でも許すのが良い、というわけではありませんが、決定的に悪い事態を招く問題ではない限り、「べき」思考で縛る必要もないと思うのです。

そうすべき、と思っている事って、本当にそうすべき事なのでしょうか?
「べき」という思考感情で、人生に制限をかけていないか如何か、こうある「べき」と考えているのは、実は自分だけなのではないだろうか、自分が勝手に思い込んでいるだけではないのだろうか、と、今一度客観的に振り返ってみると、心の滞り、詰まりが解放され、独自の厳しい基準の縛りから解放され、人生の流れが穏やかになるように感じるのです。


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