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『おおきなかぶ』の話

 また食べ物の話。
 珍しくカブを切っていたら思い出したので。

 小学校一年生の終わりの頃、国語の授業で『おおきなかぶ』を習った。数コマかけて一通り読んだ後、まとめの回で先生が、「みなさんは、このカブを食べますか?食べませんか?」と聞いてきたことがあった。
 「食べる人。」という問いかけに、半数以上の生徒が手を挙げた。「食べない人。」は、それより少数だった。私は後者に手を挙げた。その後、「食べる派」「食べない派」の意見がそれぞれ述べられ、「食べない派」の中心的な根拠はもちろん、「かわいそうだから」だった。私もそうだった。
 すると先生が、「でもこのカブは、みんなに食べてもらうために抜かれるんですよ。」とか言って、何とか全員が「食べる派」を選択して授業を終われるよう誘導し始めた。このような説得と、挙手を繰り返すうち、「食べない派」の人数は減っていった。それでも最後まで、「食べない派」は0にはならなかった。授業が終わる時間になって、先生は全会一致で終われなかったのが不本意だったのだろう、「食べない派」に対して、諦め口調で何か言っていた。
 最後まで「食べない派」に手を挙げていたのは私だった。いや他にも誰かいたに違いないが、最後に残った1人〜2人のうちの、片方は私だった。当時の私は、人前では本当に、一言も喋らない(喋れない)子どもだったが、ここだけはやたら強情だった。

 このエピソードは何を意味しているのだろう。私が、人の意見を聞いて自分の最初の意見を変えることができない頑固者だということだろうか。それもあるかもしれない。確かに、一度選んだ意見を変えたくないという気持ちはあった気がする。でも、本当に最後まで、「食べられるために生まれる命なんてない」と思っていたのも事実だと思う。
 あるいは人間が、生きていく上で自然を犠牲にしている様に、このときから原罪の意識を持っていたのかもしれない。中学生になって私は、一時期環境問題への意識が高まりすぎてグレタさん化するのだが(笑)、もしかしたらそれを暗示していたのかもしれない。
 あるいは。
 
 私は、宮沢賢治みたいな人になりたいと思っている。『雨ニモマケズ』なんて、ほんと憧れの人物像だ。去年の共通テストの国語の題材は、確か宮沢賢治の『よだかの星』だった気がするが(私は宮沢賢治になりたい割に、たいして作品は読んでいない)、 あれは「どうせ死ぬなら、もう他の生き物を食べないようにしよう」と思うよだかの話だった。もしかしたらやっぱり私は、そんな小さい頃から、"どちらかというと宮沢賢治になれる"寄りのスピリットを持った人間だったのかもしれない。そう考えるとちょっと嬉しい。

 そんなことを思いながらも、今目の前にあるカブは、農家の人が一生懸命作ったものだから。ちゃんと調理して食べよう。


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