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はたらくことは、自分の名前の上に何かを積み上げていくこと

「はたらくって何だろう?」このお題について考えてみた。私は、「 はたらくとは自分の名前の上に経験や知識や何か人に役立てるものを積み上げていくこと」だと思う。

社会人になりたての自分を振り返る

このテーマについて考え始めた時にまず出てきたのは、働き始めた頃の新鮮な思いだ。学生時代ずっと「親に負担をかけている」という思いに苛まれていた自分にとって、企業に勤めてお金を稼げるということが単純に誇らしかった。自分で働いたお金で生活できること、自分のお金で何かを選択できることで生まれる自分への自信はとても心地よく、毎月給与が振り込まれることが単純にとても嬉しかった。

それから十年あまり経った今、改めてはたらくことの意味を考えてみる。

はたらかなかった2020年

ちなみに、私は2020年の大半を「はたらかなかった」。

3月末から産休に突入。5月に出産して育休も取得し、9ヶ月以上社会の中では働かず、家族のケアに専念している。十年以上企業で働いてきた、つまり社会で働いてきた自分にとって、2020年度は働かなかった、いや、「家で働いた」という珍しい一年であった。

出産前、「社会ではたらくこと」と「家で働くこと」には、「仕事の質」に大きな違いがあるんだと思っていた。確かに「仕事の質」にも違いは色々ある。一番印象的だったのは、家の仕事、特に育児は「同じことの繰り返しが非常に重要」ということだ。子供の成長度合いに適した生活リズムをつけてやるために、同じ時間に起こし、食事をさせ、眠たそうなタイミングで昼寝に連れて行ってやる。食べてくれても食べてくれなくても毎日同じように食事をさせることで、だんだんと食べられる食材の種類が増え、人間らしい食事に近づいてくる。常に課題に対する新しいアプローチを求められる仕事との違いを感じた。

一方で「仕事の質」には想像以上に共通点も多いと気づいた。赤ちゃんがいる生活を1日、1週間単位でスムーズに回していくためには、様々なクリティカルパスが存在する。なるべくご機嫌で過ごしてもらいつつ、必要なタスクを大人が回せるようにするためには仕事以上のプロジェクトマネジメントの能力が求められる。保活や離乳食、子供の病気など、新しい課題が次々現れるため、それぞれに対して情報収集、メリットデメリットの検討、方針を立てて実行する必要があるのも企業の仕事とよく似ている。

では、家で働くことと社会で働くことの一番の違いは一体何なのだろうか?

家で働くことのしんどさ

家事、育児という「家で働くこと」にはやってみなければわからない醍醐味がある。一方で、家で働いた今年一年は「かなりしんどい」一年だった。自分が感じた育児・家事がもつしんどさは、自分のリソースを目一杯使って疲れきるまで働いているのに、自分の名前の上に積み上げられる何かがまるでないと感じられることだった。

育児、家事を頑張る。創意工夫し、効率化を図る。その結果は家族の日常をアップデートしていくという形で現れる。育児や家事を頑張ることはとてもクリエイティブな仕事である一方で、成果が「日常生活の中の当たり前」として反映され、自分の貢献や成果は透明化されてしまう。

「社会で働く」ことと比較すると、「家で働く」ことは非常にぼんやりとしている。
- 家族の日常を回すためにどれだけのタスクがあるのか、
- そのタスクをこなすためにどれだけのスキルが必要とされているのか、
- その仕事をこなすことがどれだけの金銭的価値に値するのか
これらはほとんどの場合明文化されず、家族間で共有されることも無い。

何よりぼんやりしているのは、「家で働いているのは誰か?」という点だ。社会で働いていれば当然「個人の名前」で働いているのに対して、家での働きの主語は「お母さん」という匿名の誰かになる。それは私ではない。

心地よい生活が維持されること、子どもが健やかに育つこと、その裏にどれだけの「はたらき」があるのかは非常に見えづらい。そして何より、そこに貢献しているのが「誰か」という点が見えないため、自分の名前の上に評価が与えられたり、何かが積み上がることはないと私は感じてしまっている。

はたらかないことで見えてくる、社会ではたらくことの意味

働かない一年を通じて、社会で働くことの素晴らしさは「自分の名前の上に積み上げられる何かがあること」では無いかと感じるようになった。家で働いていても社会で働いていても、同じように努力し、悩み、試行錯誤しているのに、なぜ社会で働くと自分の上に積み上げられているように感じるのか?それは仕事を中心にした人との関係性があるからではないか。

「一人で仕事はできない」ということを若い頃よく言われた。この言葉はチームワークの重要性やほうれんそう(報告・連絡・相談)に代表されるコミュニケーショの重要性を説くために言われることが多いが、別の側面もあるのでは無いかとこの一年で気づいた。

一つには、「働くこと」の周りには評価し評価される関係性がある。必ず誰かが見ていると言う側面だ。仕事にも規模の大小、性質の良し悪しがあり、「自分にしかできない仕事」や「やりがいがある仕事」ばかりでは無い。また、基本的にはチームでやるものであり、自分がした貢献は何か、というのはなかなか見えにくい。しかし、仕事のほとんどは一人では完結せず、職制上の上司に限らず自分がした仕事は常に評価される機会がある。自分がした仕事について評価され、良い点、悪い点をフィードバックされる。

同様に、仕事の前行程と後工程の人との関係性が成立している、というのも「働くこと」の特徴の一つだと思う。以前先輩に「後工程はお客様」ということを言われたことがある。直接お客様や社会に役立っている訳では無い仕事であっても、誰かに貢献し、役に立てる。大きな目標を達成するうえで、一部分であっても自分のおかげでできた、と自負することができる。

このような「働くこと」をベースにした人間関係があることで、仕事を通じて得た経験値や知識を得るだけではなく、そこに他人からの承認が加わる。「この仕事ならXXさんに」という評価が積み上げられて行く。「はたらく」と言うのはどんな仕事であっても「自己研鑽し、難しい課題にぶち当たり、試行錯誤しながら解決する」ものだと思うが、その結果として賃金だけではなく、自分の名前の上に経験や知識や何か人に役立てるものを積み上げて行けること、自分にとって、それが働いていることの醍醐味かもしれないと再確認させられた。

そしてこの醍醐味は、本来は家で働く上でも感じられるべきではないか?家の仕事による経験、知識、それらも本来は正しく評価され、他人に承認されて個人の成果として積み上げて行けるべきではないのか?それがこの一年近くの「はたらかない経験」を通じて今感じていることだ。

現在、家の仕事の経験、知識が形になったものとして世の中にあるのは、せいぜい「主婦目線で作りました!」「ママの声を反映して作られたサービス!」といった表層的なものばかりだ。しかし家で働くということにはもっと本質的な辛さ、難しさ、専門性がある。この本質的な部分を評価、承認することはどうしたらできるのか、これからも考えていきたい。


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