見出し画像

『武曲 MUKOKU』ー待っていた主演作

久しぶりのnote…なんと更新ほぼ1年ぶりでした^^;
あまりきれいにまとめられそうにないのですが、思ったことを書いてみたいと思います!
(だんだん具体的なシーンにも触れる内容になりますので、未見の方、ネタバレ気になる方はご注意ください。)


『武曲 MUKOKU』公開おめでとうございます!
5/15の完成披露試写会に行かせていただき、6/3の初日も、豊洲の舞台挨拶の回で観ることができました。

観終わってもうすぐに「これ好きだーっ!!」ってなりました。

血とか暴力とか、鼻水よだれ…みたいな目をそむけたくなるようなシーンもあるし、後述のように決して観やすい映画ではありませんが、個人的には観ることができてとても嬉しかった。

ああ、これは、待っていた主演作だ、
と思いました。

綾野さんには言うまでもなくたくさんの主演作品があります。とくに『武曲』と共通するスタッフも多い『そこのみにて光輝く』は、たくさんの賞も受賞している代表作です。
ただ、どうしても『そこのみ』は池脇千鶴、菅田将暉の映画だという気がして。(もちろん、それが悪いとか、気に入らないというのではなく!『そこのみ』は傑作です。)
綾野さんは、ふたりを最高の形で受けるお芝居をされていて魅力的だったのですが、賞レースで主演男優賞にたくさん選ばれたのが、当時、嬉しくも少し意外だと思ったのを覚えています。
そして、いつか、もっともっと綾野さんがさらに輝く新しい主演作を観たい、とも思いました。

『そこのみ』以降、映画もドラマもいくつもの主演作があり、今回だけを強く推すと他を否定するふうになってしまいそうで書き方が難しいのですが、私にとって、『武曲』こそ、待っていた映画(のひとつ)だ、と思いました。

すさんだ、だらしなく、醜い姿。凄惨な、恐ろしい姿。
若く、張り詰めた美しい姿。弱さに苛まれるやつれた姿。
生かされた後のしっかりとした姿。
それぞれのシーンで色合いの違う、いくつもの涙。

ポスターなどで以前から目にしていたメインビジュアルの、伸び放題の髪と髭で三白眼…というスタイルが研吾なのだと思っていましたが、実際は、劇中ひとつひとつの出来事の前後で、内面も外見も声も変化します。
この七変化ぶりは綾野さんの武器で、それが存分に生かされていたのがまず嬉しかった。
20代後半から30代前半という無理のない経年の幅の中で、その時の研吾がどういう心情だったのか、台詞がなくても佇まいだけで伝わってきます。


そんな「綾野剛のための映画」と言っていい『武曲』ですが、ほとんど同じぐらい何度も「ああ、村上虹郎のための映画だ」とも思ったんです。
どのシーンでも素晴らしくて、融が村上虹郎であることは満場一致での決定だったそうですが、本当にほかの人では考えられないと思いました。
そして、時々世の中で言われるような「助演が主演を食っている」というようなこともなく、ふたりが対等に輝きあっていることに感動しました。ふたりの相性が良いのと、脚本のバランスも絶妙なのだと思います。


エロスとタナトス…とまとめてしまうとあまりにも陳腐な感じですが、死の気配と濃厚な色気が漂う映画です。
青年誌のヒロインみたいな甘ったるく生々しい前田敦子ちゃんと、ほっとする暖かなお母さん感の中でふいにはっとするほどの色香をみせる風吹ジュンさん、という女優陣。(研吾の母・静子の神野三鈴さんも、以前舞台のお芝居で拝見したことがあるのですが、すごい役者さんです…!)

「実質ヒロイン」と言われている虹郎くんもしかりで、終盤の、包帯をゆっくりとはずしていくシーンのエロティックなことといったら!
虹郎くんの佇まいは、限りなく無垢でいて同時に自覚的な妖艶さがあって、稀有な役者さんだなあと思います。
そして綾野さん…についてはファンにとっては言うまでもない感じですが…(^^
鍛えた肉体のことがメイキングなどでもクローズアップされていましたが、たしかにどきっとするし、あと、アルコール依存から抜ける過程のシーンが、もう、なんというか「エロい」。そんな目で見ちゃいけないっ…と最初は思いましたが、いや、むしろそういうつもりでつくってるでしょう監督!?と思い直しました笑

そんなエロスとタナトス、血と泥、暴風雨、暴力…みたいな連続があって、その果てに、観終わって残るのは清々しさと希望という。すばらしいです。


粗い展開のような…と思う部分、つっこみどころがあっても、それ以上の美点がある映画だと思いました。隙のない映画ではないかもしれないけれど、映画の力強さってそういうことだけではないはず。

ストーリー展開も『そこのみ』のようにストレートな盛り上がり方ではありません。
前半こそ王道の少年漫画展開のような雰囲気ですが、嵐の中の決闘がクライマックスかと思いきや、そのあと急に置いていかれるような感じがしたり。
何か起こりそうで何も起こらなくて、勝手に先を想像してどぎまぎする…みたいなシーンも多くて、観ているうちになんだかわからなくなってくる。けっこう疲れます。
この感じはドキュメンタリーに近いのかもしれないですね…。
「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、案外、現実って不可解に展開することもあったりする。


あらすじを読んだときに思った以上に重要なポイントだったなと観て思ったのは、研吾が、ただ酒に溺れているというレベルではなく、深刻なアルコール依存症だということです。

現実離れしたいくつかのシーン、手の震えなど、最初観たときはちょっとびっくりしたのですが、アルコール依存と離脱症状、そこからの回復ということを踏まえると、その前後に飲んでいたかいないかなどきちんと繋がっているのがわかりました。

そして融の側にも「洪水で溺れて死にかけた」というトラウマがあることで、幻視のシーンが入る余地があるので、ふたりの見る幻と現実が混じり合って、なんともいえない世界観になっています。
例えば、融が研吾の家を訪ねていくシーンも、ありふれた道をただ歩いていくようでいて、現実世界とファンタジーが混じり合うような感覚があります。

その世界観の中に、素晴らしい役者陣のたしかな実力が杭のように打ち込まれて、あまり今までに見たことがないようなバランスの映画が成立しているように感じました。


研吾は、たばこを吸い、酒に酔ってふらふらと歩く、重い過去を背負う男、という点で、『そこのみ』の達夫とよく似ているけれど、やっぱり全然違う人格で。
いちばん違うなと思ったのは、表情。
達夫は、悔いとか皮肉とかナルシシズムとかが滲む表情で何より他者への愛に溢れていたけれど、研吾はすごく純度の高い悲しい表情をしていたのが印象的です。
具体的に挙げると、例えば序盤のお父さんの髭を剃るシーン。
観客は、「カミソリを持って父に向かう研吾」という状況で、不穏な予感しかしないのですが、それを鮮やかに裏切って、当の研吾は、恨みや怒りではなく、ただただ「悲しい」という、親の前の子どもの目をしていました。
そこではっとして、ああ、研吾ってこういう人だったんだ…!と一気に理解できた気がしました。


説明はないけれど、融の家は母子家庭のように描かれていて、私は、融の父は融が溺れたときの洪水で亡くなったのかと思いました。「事故」で父親を亡くしそれを「自分が殺した」と認識しているという共通項が研吾と融にはあるのかなと、その点でも惹かれたのかな、と。融にとって、研吾は同類でもあり、新たな「父」的な存在でもある。(インタビューでは、虹郎くんは融の父は死別ではなく離婚で不在なのではないかと考えていると、お話されていました。)
ふたりの師匠の光邑(柄本明さん)は、父とは別の、おそらく初めて認めてくれた大人で。
光邑との関係性では、融と研吾は兄弟であり敵でもある。

それから、「母」について。研吾と、父の愛人だった小料理屋女将(風吹ジュンさん)。ここも不思議な関係性で。
純粋なあこがれや恋心があるようでもあり、父へのあてつけのようでもあり。
耐え忍ぶ妻のように描かれた静子とは違うタイプの女性。
静子の墓参りに行かなかったのはなぜかとか、研吾が思い出す海辺の幸せな子ども時代のシーンが愛人といるときの父ってどうなんだ…?静子さんに対して薄情?とか思ったのですが、ふと、もしかして、研吾は自分は父と静子の子ではなくて女将が実母なのではと疑っていたのかな、と思いました。それが、終盤で父の手紙を読んで「静子と私の大事な息子」という一文に疑いが晴れたのかな…って。原作も未読なので、あくまで妄想の範疇ですが…。

いろいろな要素があって観るたびに新しい発見がありそう。


完成披露舞台挨拶のとき、最後に綾野さんが、この映画にはいろいろな要素があってそれぞれ語ることはたくさんできるけど今日伝えたいのは、誰もが誰かの子どもだったということ、そして、生きていること自体が希望だということ、このふたつだ、とおっしゃったのが、とても印象的でした。

聞いていて、それまでの舞台挨拶の笑いもたくさんの和気あいあいとした雰囲気の最後に、急に斬りこまれたような気持ちがしました。
その力強さに呆然とするぐらいの言葉でした。
そして、「うわあ、やっぱり綾野さんだ…」と嬉しく衝撃を受けました。(変な言い方ですが(^-^;)

綾野さんはいまや全方位に向けたスターぶりで…。バラエティでも作品でも安定しているように見える綾野さんを、好きになった時の綾野さんと結びつけてうまく想像できなくなることがあって。ちゃんと自分の中で想像力を持たなきゃ、とここ最近思ったりしていたのですが。
あの頃の綾野さんと変わらないのだということを、がつーんと殴られるように気づかされて、また何度目かの惚れ直し、でした。(綾野さんはぶれないのに、勝手に惑っているファン(^^;)


ゴシップ的な、生い立ちの話とかをしたいわけではないのですが、研吾や融の物語は、綾野さんにとってシンクロするところが多かったのではないか…とどうしても妄想してしまいます。
まさに綾野さんは、苦闘を経て、「誰もが誰かの息子であり、誰かの娘である」ということ、そして「生きている人すべてに希望がある。〝生きている″ということ自体が希望なのだ」ということを体感した人なのではないか…
そう思うと、『武曲』はもう一度その道を踏みしめて辿る物語のようにも思えました。


…なんて、長々といろいろ書きましたが、もうただ単純に、
高揚する音楽とともに叫びたいような映画でした!

上映館がちょっと少ないのがもったいない…これから広がりますように!

(おわり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?