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記憶のパズル

アガパンサスがあちらこちらで咲いている。英国でもよくみかけた花だ。高く伸びた茎の先に柔らかな空色の花が花火のようだ。緑の筆を迷いなく走らせたような葉も良い。30年前にもみかけたろうかと考えるが、思い出せない。日本語名は紫君子蘭というらしい。「うちの近所にもようけ咲いてる。あっちもこっちもアガパンサスだらけやわ」と妹が云う。「そういえば、私も育ててたわ」と母が云う。「育ててたん?いつのこと?」と尋ねると「さあ、いつ頃やったかなあ」と曖昧だ。

2000年に(最後の)大学を卒業してからは、収入を得られるようになったこともあり、年に一度は帰省していた。友人と会社を作り、働く時間と場所に少し自由がきくようになってからは、2年に3回といった頻度で帰省していたこともあった。帰る時期はほとんどが年末年始や桜の時期、紅葉の頃、父の傘寿の祝い(3月)など、梅雨の長雨と夏の猛暑は避けていた。だから、母のベランダに咲いていたアガパンサスを知らぬのだろう。他にも母はどんな草花を育てていたのだろう。思い出せるのは、祖父が亡くなった時に引き取ってきた木立ベゴニアだが、父方の祖母の介護に東京へと頻繁に通っていた時に枯らしてしまったという。そのことも、私は知らない。

自由気ままに、計画らしい計画も(いわゆるはっきりとした「夢」や「希望」さえ)持たず、ふらふら生きてきた私を、いや、「生きてきた」というよりは「うろうろしてきた」と云う方がしっくりする気さえするのだけれど、両親は愚痴らしい愚痴さえいわず、いつもにこにこと支えてくれた。八十を過ぎて元気な方だとは思うけれど、それでも両親と過ごす時間が限られていることに気がついて、人生の半分を過ごした英国を後にした。覚悟のようなものも未練というようなものもなかった。何年か前に広島の友人に相談した時「その時が来れば迷いも何もなく、心が決まるよ」といわれたのだが、本当にその通りやったなと感心している。そして帰ってきたのが1年ほど前のこと。

英国で学んだことのひとつに、よき家族であり続けるためにメンバーが払う努力があった。「家族」の脆さを知ってだろうか、人々は離れた家族とそれは頻繁に連絡を取りあい、誕生日だ記念日だといってはカードを送り贈り物をし、日曜日だからと集まって一緒に食事をしたりしていた。良き友人なのだと家族に紹介されたことも何度もある。見習うように、私も三日にあげず両親に電話をし、できるだけ、週に一度は顔を見せるようにしている。小さな土産も持っていく。英国時代も週に一度は電話をしていたし、距離が生んだ大きな空白を感じることは少ないのだけれど、それでも所々ぽっかりと穴が空いている。ディテールが欠けている。失くしてしまったパズルのピースのように。埋めることは今更できない。母のベランダに咲いたアガパンサスを、私は知らない。知ることはできない。どれほどの高さまで育ったのだろう。花の色は水色?薄紫?それとも白?

それでも、失くしてしまったと思っていたピースが、何かの拍子にひょっこり出てくることもある。

父が認知症の診断を受けて5年半になる。幸運なことに進行はゆっくりで、父も、彼なりに病気のせいで悩むこと辛いことも多くあるのだろうが、それでも穏やかににこやかに、時には驚くほど陽気に日々を過ごしている。それでも、記憶のパズルのピースは失われていく。少しづつ全体の絵がぼやけてくる。時に、父は自分の半生がよく思い出せなくなる。なんの仕事をしていたとか、どこで生まれたとか、どこに住んだとか、母と出会ったきっかけとかが、わからなくなる。それって、どれほど寂しく悲しいことなのだろう。私には想像することしかできないけれど、想像すると胸の底が冷えて乾いてチリチリとする。

先日、テレビで神田川や皇居のお堀を船で回る番組を見ていたら、父が「ここ、行ったことある。クルーズも乗った」と云った。最近父はいろいろなところに「行ったことがある」という。テレビで映ったところは、沖縄でも槍ヶ岳山頂でも、メキシコでもギリシャでも、どこでも「行ったことある。ええとこやった。」南極の昭和基地に行ったことがあると云い出した時には、流石に「へえ、そうか」と聞き流すのは難しかった。「寒かったやろな。ペンギンには会うた?」とでも尋ねればいいのか。でも東京のリバークルーズならば「へえ、そうなんや」と相槌を打つのは簡単だった。ところが、その後で父は「あ、ちゃう。大阪や。道頓堀川とかやった」というのだ。

驚いた。2年前に帰省した時、道頓堀クルーズなるものに両親を招待した、その時のことを思い出したのだと気がついた。道頓堀川から水門を通って木津川へ出て、安治川と合流するところで東へ折れて堂島川を上り、阪神高速の下を流れる東横堀川を通って道頓堀川へと戻るコース。父は船を降りてからも「楽しかったなあ、本当に楽しかった」と喜んでくれていたのだが、家に着いてしばらくすると出かけたことさえ忘れてしまい、次の日には「え?道頓堀クルーズ?なんや、それ」といった調子だったのだが。それでなくても「僕は今日、朝ごはんは食べたんかなあ」と尋ねるような毎日なのだ。それなのに。嵌めた途端に失われた記憶のパズルの小さなピースが、どこからともなく発見されたのだった。嬉しかった。どうしようもなく嬉しかった。嬉しくて、箸を持つ手が震えた。母も笑って「クルーズの前に食べたお好み焼きも美味しかったな」と云った。

その後は、番組終わるまで何回も何回も、それこそ5分に1回くらい「ここ、行った。クルーズ乗った。あ、ちゃう、大阪や。道頓堀川とかやった」が繰り返されて、その度に私は「そやったなあ。楽しかったなあ」と返事をしつつ、心のうちでは「お父ちゃん、思い出してくれてありがとう。(でも、もう、分かった、分かったんで、堪忍して)」と呟いていたのだけれど。母も、苦笑していた。

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