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境界線を引くもの、分断を超えるもの - Quo Vadis, Aida? アイダよ、何処へ?

もう二十年ほど前、英国で様々な社会的問題を抱える地域の再活性化プラン作りに関わる仕事をしていた時に、ダービー郊外に延々と広がる公営福祉住宅団地で、難民を対象としたワークショップのファシリテーションをしたことがある。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わって間もない頃で、私が話を聞かせてもらったのも、戦火を逃れてきたボシュニャク人のムスリムの人々だった。地域で難民を対象に開かれている英語教室にお邪魔してのワークショップだったが、参加者は全て小さな子どものいる母親たちだった。彼女たちの困りごとの多くは、地域の元々の住民たちとの間に生まれたものだったのだが、参加者の一人が私の目を真っ直ぐ見ていった言葉がいまだに忘れられない。「どうか、私たちの話を聞いてもらう場を作ってください。私たちがどんな状況から、どのような道を経て、どうしてここまで逃げてきたのかを直接聞いてもらえれば、きっと、彼らにもわかってもらえると思うんです」

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1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦下で、国連により「安全地帯」と定められ安全保障のためのオランダ軍が駐留するスレブレニツァで起こった、セルビア人民兵組織によるボシュニャク人住民虐殺が物語の背景だ。アイダは、国連オランダ軍基地で通訳として働く女性で、夫と高校生と大学生の息子二人を救おうと、セルビア人勢力に制圧されたスレブレニツァから、国連職員である自分とともに退避させようと試みる。そのためには彼女はなんでもする、基地へと入ることを許されなかった数千人の中から自分の家族だけを特権を使って招き入れ、同僚に国連職員のIDを偽造してくれと頼み、退避者リストに無理やりねじ込もうとし、職員専用エリアに身を隠させ、「森へ逃げた」と嘘をつく。

内戦が始まるまで、セルビア人もボシュニャク人も肩を並べて暮らしていた街で、アイダは教員をしていた。基地へと迫ったセルビア人民兵の中には、彼女の元教え子がいて、親しげに懐かしげに、ナイーブに、「先生!」と声をかけてくる。彼はアイダの長男とも知り合いで、無邪気に「ハムディアはどうしていますか?」と尋ねもする。

彼を「セルビア人」に、アイダやハムディアを「ボシュニャク人」に分断したのは誰なのか。何者なのか。この「押し付けられた分断」は映画の至る所に立ち現れる。安全な退避が確約された国連職員たちと、いったい何処へ連れ去られるのか定かではない避難民たちの間に。その避難民たちも基地のうちと外とに分断されている。小さなIDカード、細く簡素なゲートによって分たれた人々は、おとなしく、なすすべもなく、引かれた境界線のあちら側とこちら側に留まっている。国連軍もまた現地組と司令部に分断され、現地の声は遠く離れたニューヨークの国連本部には届かない。セルビア人民兵組織の横暴を目にしつつ、虐殺のサインを認めつつ、不合理に歯噛みをしつつも、オランダ軍は本部からの指令なしに動くことはしない。

その分断を境界を乗り越えようと、迷路のような長い廊下を駆け回るのがアイダだ。

集団を分かつ強固な境界を乗り越えさせる力があるとすれば、それは同じくらいに強くて固い個としての人と人との繋がりなのかもしれない。アイダと家族のように。連行される夫と息子たちを追おうとするアイダを力づくで留めた、彼女を慕うセルビア人の元教え子のように。

内戦が終わり、アイダはスレブレニツァに戻り、再び子どもたちを教えるようになる。小さな教え子たちには、セルビア人もボシュニャク人もいる。学芸会に集った保護者たちの中には、元避難民も元セルビア人民兵もいる。かつてのように肩を並べて暮らす人々の間に、見えない境界線がいまだあるのか、分断へとつながる導火線が横たわっていのか、歌う子どもたちは個として分断を超える強い繋がりを築くことができるのか、アイダの鋭い眼差しは、それを見極めようとしているようだった。

そして、カメラを、画面のこちらにいる私たちを、真っ直ぐに見つめるアイダは、ダービーで出会った「私たちの話を聞いてください」といったボシュニャク人の女性を思い出させた。二十年を経てやっと、私は彼女の同胞の話をきちんと聞くことができたのだ。


*下は、ベルリンにある虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(ピーター・アイゼンマン)

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