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逡巡のための風景10/技術を磨きたい

ここにこんな花を植えてみようかな、とか、草を引きたいな、とか、そんなことを思うようになった。・・・これはまさか・・・「ていねいな生活」なのか・・・。

ふつうに毎日をていねいに暮らしている人にとって、インスタレーションとか
コンセプトとかステイトメントとか、そんなものは全然ピンとこないだろう。人間の生活を前にして、「アート」の専門用語などなんとちっぽけなんだろう。そう気づいたのはここへ来た7年前。そして年々、日に日に、その思いが強くなっていく。
私のそんな言動が、アーティストたちを傷つけることもあってハッとする。それでも私は、なぜか、なぜなのか、どうしても、アートとしか呼び得ない世界に支えられて生きている。

そんな、アートセンター。



人は誰だって未熟だから、いつどんな場所にいてもそれなりに困ったり悩んだりする。困りごとや悩みごとは大きくなりすぎてしまう前に誰かに相談してしまおうと思う・・・若い頃はあんまりそんなふうには思えなかった。

相談ってほどのことでもないのかもしれないのだ。その、「ほどのことでもない」レベルでモシャモシャモシャっと口に出してしまえば、案外、そのレベルで済んだりする。なんだ、そうだったのか。。。と自分でわかったりする。そう、相手や場所を選ぶことではある。だから、適度に適当な相手や場所さえ持っていれば、人は困りつつ悩みつつも、自分の力で生きていけるのかもしれない。

自分の悩みを口に出す技術、そして誰かの悩みを聞く技術。
そのふたつの技術を磨きたいと思う。
これからもずっと淡々と生きていくそのために。

いかなるものをも肯定する。しかし正当化はしない。そんなふるまいを身に付けたい。人や生きもの、事象の存在を否定せずに認めるということ。けれども何かを「正しい」とか「善い」と決めつけないということだろうか。。。

人は誰だって未熟だから、たとえ何かのきっかけで誰かの親になったとしても、完璧な親になんて絶対になれない。「どんな親だって完璧じゃない」。それを知ることだけが唯一のカギなのかも。

5月の初め、6歳の娘がぽつりと「きもちくない(気持ちよくない)」と言ったときのことを思い出す。「え?何が?どういうこと?」
と私が焦ると、「うまく言えない」と答える。
「いつから?」と聞くと、「今。言ったときから」と答えた。ずっと前からとかじゃないんだ・・・よかった・・・と思う。
気持ちよくないのはシャワーの加減なのか?
今たまたまの気分なのか?
それとも、小学校の入学式から1週後には休校になって、家にいても母親はなんだか常にイライラしていて、誰かと会うときは常にマスク着用だからなのか?
何れにしても、きもちくないに決まっている、そんな毎日だった。
娘の生活習慣はズタボロで、そもそも入学したばかりでやる意義も習慣もわからない「宿題」をやってはくれなかった。
それからすぐ小学校生活が再開し、娘は毎日楽しそうに、ゴキゲンで学校に通っている。片道30分を歩き、ヘトヘトになって帰ってくる。初めはゴネていた宿題や明日の用意も、ずいぶん板についてきた。

子どもは日中おうちを離れ、おうちとは違う世界で悲喜こもごもを体感し、そうしておうちへ帰ってくる。

子どもは親を離れ、親は子どもを離れて、お互いにとって把握のできない計り知れない世界を持つべきだ。そうでないと、お互いを愛する気持ちがもたない。

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