市民運動と、吃音持ちの私の感覚

社会問題解決のため、とりわけ社会における諸問題の意識向上のために取り組んでると、時々怖くなることがあります。私は”社会のレール”から外れてるのか?私の仕事や発信を他の友だちはどう思ってるんだろう?とか

そして、動かない石をずっと押しているような気持ちになったり、なぜ周りはもっと立ち上がらないのかとか、問題意識を持っていないと思われる人に対して、なんでよ、もっと考えてよ!という気持ちになることがあり、これについて深く考えて問題の大きさに落ち込むことがあります

話が変わりますが、私と関わってくださったことのある方でもまず対面でわかる人はいないと思うけれど、私は吃音を持ってます。

特に単語の先端にナ行とマ行とヤ行がある言葉が言いづらく、毎日頭の中はその文字を回避することに集中します。私の名前は「まりか」なので、自分の名前が発音しにくい。これも全く言えない訳ではなくて、周りの雰囲気や環境によっては言える時もあり、それも発音するその時まで言えるか言えないかがわからない。なので、自己紹介の機会が訪れるタイミングには、恐怖を感じ、そわそわしてしまい、はじめて私とお会いした方は嫌な感じとか、へらへらしてると思わせてしまったことがあるかもしれません

また、今この話したい!と思っても、その出だしの単語が言いにくいとわかったら言うのを諦めることが日常です。なので、そんなときは話をふることができず、その場を共有する人からしたら、人見知りなのかな?寡黙なのかな?と思われてしまうことがあると思います。これは親しさに関わらず、どんなに親しい人に対しても起こります(当然話さずにその場はすぎるので、相手は私が話をしたかったということはわかりません)。今この人と話したい!と思っても、話しかける第一声を出すことができないために、話しかけず終わることもあります。

私が吃音持ちということは、まずぱっと見ではわからず、何年も一緒にいる家族や友人すら、私から言わない限りわからないのではと思います。吃っている場面をみない限り、私の吃音はまずわからないと思うし、リラックスした状態では吃りにくい+日常的に吃りやすい単語は回避する脳になってる(吃音あるあるだと思います)ので、まず吃ることすらほとんど起きないのです

これは私の吃音の程度が軽度ということでもある一方で、軽度だから理解されないということも感じています。「普通に喋れてるじゃん?吃音じゃないんじゃない?」「そんな風には全然見えないし、気にしすぎだよ!」という反応は、励ましてくれているんだと理解できる分ありがたい側面もありますが、私にとって言いたい単語が発音し難いことは、多分経験していない人にとって想像以上に、日常的にしんどいことであり(慣れているところもありますが)、日々の会話にフラストレーションがある分、ナイフのように刺さります

日々の吃音を実感する経験は辛いですが、理解されにくい吃音という症状と生きているからこそ、「ひとは自分が見えている側面だけが全てではない」ということも、私は感覚的に自分ごととしてわかり得ると思っています

例えば、「きちんとした“大人”なら、挨拶をするのが当然だ」という考えを持つ人がいるかもしれません。そんな中、社会には挨拶しない人もいると思います。そんな人と出会ったとき、なんか嫌な感じだな、無礼だな、と受け取るかもしれません。でも、もしかしたらその人は、挨拶をしたくても”できない人”かもしれません。それが吃音なのです。

この感覚は、社会問題解決に従事する上で、私にとってポジティブに作用している面があると思う。

私は仕事などで、市民の問題意識を上げる活動をしている時、周りを見渡して、問題が差し迫ったものであるが故になぜもっと問題を知ろうとしてくれないんだろう?気づいたとしてもなぜ行動してくれないんだ?と周りとのギャップに苦しむことがあります。そしてその感情は積み重り、気づいた時にはベクトルの分からない怒りの感情になっていることもあります(以下、同じように怒りの感情になる人を責める意図はありません、怒りは特権を持たざる人と連帯し寄り添う大切な手段であり当然だと思うし、怒りの感情に押し潰されないのは自分には特権があるからとも思います、私も大きな権力には怒ります)

しかし、そういう考えが発生したときには、「自分がそう思っているだけで、実は私が知らないところで考えを巡らしてくれているのかもしれない」、「今は行動できない何かしらの理由があって、将来的にはその人の行動をちょっとでも変える大切な何かに繋がるかもしれない」、「きっとその人が問題を知っても行動に移さないのは、その人なりの考えや環境なり要因があるのだろう。それはなんだろう?」と無駄にでも思考をめぐらせる側面(癖)があります

といっても、私もまだ未熟な人間で、考えが至らないが故に人を判断して傷つけてしまうことがあります。それに常にこの考えを携えて生きているというよりは、辛い気持ちになった時に自分の吃音の経験を呼び起こして追憶するという方が近いかも。ただ吃音持ちの自分を肯定したいのかもしれません

ですが、人からは見えない吃音を経験している身としては、自分の見えている部分だけが全てではなく、人と関わる以上は相手の置かれた状況や環境、どんな生活をしているのだろうと知ろうとしたり、想像して考えることが大切だと思うんです。そう思えば、問題意識の種蒔きをするときも、私はいとおしく感じています。自分が知らないだけで、もしかしたら花はすでに咲いている(或いは将来どこかのタイミングで必ず咲く種を撒いている)かもしれないんです

なぜもっと人は行動しないのかということにフラストレーションを感じる人がいたとしても、その人を否定したり、その考えが否定的なものだと言ったり、悪いものだという意図はありません。私自身も落ち込んだり、フラストレーションが溜まらないというわけではなく、むしろそのような心の状態になることの方が多いです。人それぞれの市民運動と関わるかたちがあって良いと思います。でもその中で、この感覚は私だからこそ感じていることなのかなと思います

追記:
上述のとおり、私の吃音はきっと自分から打ち明けない限り、人から気付かれることはないと思います。ではなぜここに書いたかですが、社会問題に取り組む”活動”をする人(いわゆるアクティビストと呼ばれる人)も多様であり、その中に吃音持ちがいるということを伝えたかったというのもあります。吃音症を持つ人は100人に1人いると言われています

書きながら思ったことですが、同じゴールに向かって取り組む人と”連帯”し、目標の達成を目指す市民運動では、その問題自体に焦点を当てて取り組むことこそが目的であるが故に、アクティビスト”個人”の性質が見えにくくなってしまう側面もあると思いました。ある社会問題に声を上げている人たちも、一見プラカードに書かれたメッセージは皆同じに見えるかもしれませんが、どんなに考えが同じに見えても、そもそも多様性のない人の集団など存在しないはずなので、実は人それぞれ多様なバックグラウンドを持っているし、大なり小なり考えも異なることはあり得るし(それが致命的な亀裂になることもありますが)、できることやできないこと、得意不得意が違って当然ではないかと思います。初めから市民運動を均一的なものとして、特定のアクティビストの個人の性質を無視して排除してしまうことは、時に人権侵害になりかねず、最終的に連帯を不可能にしてしまう危険性をも孕んでいるのではないかと思いました

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