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一体何が悪いのですか?「プロレス芸」と言って。〈その参〉

トップの画像はみんなのフォトギャラリーからお借りしました。
タイトルは 「矛盾」by ChatGPT
クリエイターは あき さんです。

【読者の皆様へ】
この〈その参〉は、何卒〈その壱〉および〈その弐〉を閲覧されたのちにお読みくださいますよう、強くお奨めいたします。


馳浩衆議院議員(当時)のカミングアウト

 アメリカでは、「プロレスは競技ではなくシナリオのあるエンターテインメントである」ということは、とっくに常識になっています。
 なぜかと言うと、最大のプロレス団体であるWWE(昔のWWF、そのまた昔はWWWF)が公(おおやけ)にそうカミングアウト(秘密であったことの公開)をしているからです。
 WWEは1999年にナスダックに株式上場しているのですが、上場企業には事業内容の全面的公開が義務付けられていたので、カミングアウトせざるを得なかったのです。
 今(2023年12月)、石川県知事の馳浩(はせ・ひろし)さんの発言が、話題になっています。2021年の東京オリンピックがらみの件をめぐってのことです。この五輪大会、終わったのちのほうが、何かと笑かしてくれるニュース報道を生んでいて、むしろ開催期間中のほうがしょぼかった、と私は思います。
 何でも「思い出アルバム」がどうしたこうしたということらしいのですが、話題のキモは「思い出」でも「アルバム」でもなく、もちろん「おかね」です。何でこういう騒ぎになったかというと、馳さんが正直な人だつたから。私はそう思っています。
 馳さんは元ロサンゼルス・オリンピックに出場しているアマチュアレスリングの選手でしたが、のちにプロのレスリング選手になりました。
 参議院議員となり、衆議院議員となり、閣僚を務めたのち石川県知事となり現在に至っている政治家でもあります。

 --と言ってもプロレス辞めて政治家になったわけじゃなくて、国会議員になっても、2006年に引退するまでまでプロレスラーを兼職していました(その引退試合では、元総理大臣を巻き込んだもの凄い事件が起きたのですが、そのことは後述します)。
 ですからとっくに引退したはずなのですが、今年2023年元旦、61歳でプロレスのリングに上がり(もちろん現職の県知事が、です)、ノーザンライトスープレックスで勝利選手となりました(試合は3人タッグマッチでした)。
 あ、プロレスファンには説明不要のことですが、この世界では「引退したのに復帰した」選手なんて数えきれないほどいます(3回以上引退→復帰を繰り返している方も全然珍しくない)。
 話は2000~2002年頃のことに遡ります。
『プロレス・ファン』という同人誌みたいな誌名のプロレス商業誌の取材を受けた馳さんは、こんな不躾(ぶしつけ)な質問をされました(場所は衆議院議員会館だったと記憶しています)。
「日本のプロレスはカミングアウトしないんですか?」
馳さんは怒ることなく即答しました。
「俺は、カミングアウトしなくて良いと思う」
 小学生にだって分かることですが、この言葉自体が、完璧なカミングアウトです。
 馳さんは、やはり正直な方ですね。
 新日本プロレスは、なぜこのとき、現役プロレスラーでもある国会議員の馳さんに、発言の訂正と撤回を求めなかったのですか。

プロレスの実相と不確定性原理および般若心経

 上の記述に反発をおぼえられたプロレスファンも多いことと思います。
 そうした方は、私のことを、こう非難されるでしょう。
「何ッ、お前は結局プロレス八〇長論者じゃないかッ。何が『プロレス大好き』だッ!」
  こんな詰問あるいは非難には、私は胸を張ってこう答えることができます。
「プロレスは、もちろん八〇長ではなく、八〇長でないのでもない」と。
 こうした見方は、プロレスに限らず、万物およびあらゆる事象に共通して言えることです。
 
それは、ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901~1976)が明らかにした「不確定性原理」および、そこからオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガー(1887~1961)が導き出した「シュレーディンガーの猫」理論によって明らかにされています。
 この理論によって、厳格な量子物理学的実験(その詳細は省きます)の結果、ある猫が「生きていると同時に死んでいる状態」になることが分かっています。
 このように書くと、物理学者や物理学徒は「お前の言ってることは不正確だ、それは正確に言うとだな…」なんて、私には理解不能な長口舌(ながこうぜつ)を振るい始めるかもしれません。確かに彼らは頭良いし、真理の更新に関しては、自分たちが最先端の研究を行なっていると思っていますから。
 しかし! 物理学者や理系の学者たちは、自分たちの頭の良さについて自惚れ過ぎているのです。
 究極の真理は、すでに2600年~2300年前頃に釈迦(生没年不詳)が説かれた中にあります。
 
何てったって釈迦は「真理を覚った者(=ブッダ)」なのですから。
『般若心経』で釈迦は弟子に対してこう説いています。
(すべての存在するものには)生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。」(中村元・紀野一義訳/岩波文庫/カッコ内および太字を用いた文字の強調は筆者による)
 これこそが、すべて存在するものの実相であり、なおかつ、宇宙的な究極の真理を深奥に秘めている、プロレスというジャンルの素晴らしさを理解し得る叡智なのです。
 村松友視さんの(ジャイアント馬場さんのことをバカにし過ぎるなどの間違いも多い)名著『私、プロレスの味方です』も、私とほぼ同様の論旨で、プロレス八〇長説に反駁している、と言いきって良いと思います。
 シュレーディンガーや釈迦の名は持ち出さずに、「自分が死んだら妻はどのような心情でどのように行動するか」という例をモデルにして、村松さんは「ひとつの事象が、同時に二つの矛盾するものであり得る(=ホントであることが同時にウソでもあり得る)」ことを語っていました。

問題発言があろうと、私は馳さんが好き!

『プロレス・ファン』の取材に対して、馳さんは次のようなことも述べていました(上記の発言と同じ号であったかは定かではありません=以下同、馳さんは何度も同誌の取材を受けています)。
「俺は国会議員であり、胡散(うさん)臭いプロレスラーでもある」と。
 「プロレスラーは胡散臭い」。
 現役プロレスラーでもある国会議員が、そんなことを言ってたのですよ。
 新日本プロレスは、なぜこのとき、現役プロレスラーでもある国会議員の馳さんに、発言の訂正と撤回を求めなかったのですか。
 
馳さんってほんとうに正直な方ですね。
 そんな馳さんのこと、私は好きです。その理由を述べると。
 第一に(アマチュアレスリングの基礎があるだけあって)プロレスがとても上手い方でした。にも関わらず、トップ取ろうとかいう野心がまるでなく、自分の個性・持ち味を心得ていて、いつも適切なポジションにいました。プロレスラーとして、自己認識がしっかりできていたわけです。政治家としてどうなのかは別問題になりますが。
 
第二に、全日本プロレス(馬場さんの団体)でデビューしたわけではなく、大雑把に言えば新日本(猪木さんの団体)系のレスラーと言って良い方なのに、ジャイアント馬場さんのことをちゃんと尊敬していました。
 
第三に。
『プロレス・ファン』の取材記者が、自分のキャバクラ通いについての話をすると、馳さんは「キミはもてないからそんなところでカネ使うんだよ」的ニュアンスで笑っていました(馳さんのモテ男ぶりにつきましては、直系の先輩である長州力さんの証言があるのですが、裏を取れるわけでもないので、ここには書きません)。
 その後、馳さんの懐に入り込んでいた『プロレス・ファン』の有能な取材記者は、タクシーでキャバクラへと向かいます。馳さんをうまいこと同乗させて。
 その車中で突然、馳さんはこうつぶやいたのです。
「やべえ。緊張してきた」
 馳さんは実に正直な方ですね。
 こんな男を嫌いになれるわけがないではありませんか!

森氏の放言、「プロレスラーは知的ではない」

 馳さんが政界入りしたのは同郷(石川県)の森喜朗自民党幹事長(当時)にスカウトされてのことでした。
 1995年、参議院議員選挙に石川県選挙区から自民党の推薦を受けて無所属で立候補し、当選を果たしています(その2カ月後には自民党所属となりました)。ちなみにこのとき、自民党は政権与党ではありましたが、内閣総理大臣は社会党の村山富市さんでした。
 のちに森さんは首相となり、あっという間に首相でなくなってしまいましたが、その後も馳さんとの繋がりは強く、2006年8月に、馳さんが両国国技館で引退試合を行なったときには、観戦に訪れています。
 このとき、馳さんの対戦相手のレスラーやその他のレスラーが、森さんを罵倒したり非難したりし、さらにはツバを吐きかける
ことまでするという、とんでもない事件が起きました。
 すると、元内閣総理大臣森喜朗氏(69)は、決然と立ってパイプ椅子を手にし、応戦しようとしたのです! 男たるもの、こうでなくては!(すぐにSPが止めに入ってコトは治まりました)。
 何でプロレスラーごときに元総理が(私は平気でこう書きます。新日本プロレスさん、文句があったら意見書送ってきてね)、こんな目に遭わねばならなかったのか、ということにつきましては、今では説明しておく必要があるでしょう。
 首相在任当時、森さんは、メディアスクラムを組んだ週刊各誌から、それはもうめちゃくちゃに叩かれまくっていたのです。プロレスラーよりずっと酷い悪口雑言罵詈讒謗(あっこうぞうごんばりざんぼう)で。彼らのほうが言葉のプロですから。
 ある週刊誌(誌名は伏せたのではなく私が忘れただけ)は「森首相の脳ミソの大きさはサメ並み」と書きました。『週刊プレイボーイ』に至っては「サメ並みなんて言うのはサメに失礼」とまで書いていました。もちろん新聞各紙も首相を批判していたのですが、ここまで格調を欠いた文は載せられません。『しんぶん赤旗』だって例外ではありませんでした。
 付け加えておきますと、1955年の自由民主党結党以来、現在に至るまで、党三役(幹事長、総務会長、政調会長)のすべてを歴任し、なおかつ党総裁の座にまで昇りつめたのは、森さんただひとりです。
 さて、馳さんが初出馬したときのことです。当時の森幹事長は、TVでこんな応援の弁を語っていました。
「馳君というとプロレスラーのイメージが強いかも知れないけれど、彼は高等学校の教員をしていた非常に知的な青年なんです」
 あ、書き忘れていたのですけど、馳さんにはそんな経歴もあったのです。2022年には、自民党員の県知事でありながら、日本維新の会の顧問に就任したりしています。何と多才にして多彩な経歴をお持ちの方なんでしょ。
 それはともあれ、良いですか。
 時の政権与党の幹事長が、
「高校教師ならば非常に知的である」「しかしプロレスラーはそうではない」なんて、TVで公言していた
のですよ。
 新日本プロレスは、なぜこのとき、森幹事長に発言の訂正と撤回を求めなかったのですか。

馳知事は言った「新日本プロレスに×××」と!

 こうした私の非難に対し、新日本プロレスはこう反論するかも知れません。
「馳さんや森元総理による、それら一連の発言は、ずいぶんと昔の話だから時効だ。当社の体制も変わっている」と。
 正直に言いましょう。
 こう言い返されたとしたら、少なくとも一理はあることを認めざるを得ません。レッキとした刑事犯罪である詐欺だって、7年経てば時効になります。新日本プロレスの体制が変わっているというのも本当で、私には何だかよく分からないことになっています(いつの間にかIWGP女子王座なんてものができていたり)。
 しかし!
 馳知事は、こんな発言までしているのですよ(私はこの事実を朝日新聞デジタルの記事で読みました)
 地元のJリーグチーム、ツェーゲン金沢の選手2名と社長、ゼネラルマネージャーの表敬訪問を受けたときのことです。このチームの成績は振るわず、J2からJ3への降格が決まっていました。
 そんな彼らに、励ましの気持を込めて、知事は笑顔でこう語りかけたのです。
「活躍しないと、新日本プロレスに入れちゃうぞ」と。
 私の幼年時代にはすでに使われなくなっていた用法なのですが、戦前から戦後の一時期まで、子どもが酷い悪さをしたときに親がきつく叱るポピュラーな言葉に、こんなものがありました。
「そんなことするとサーカスに入れちゃうぞ」と。
 現在の、規模的にもビッグなエンターテインメントとして認められているサーカスとはまったく異なり、昔々のサーカス(曲馬団)には、「あやしげで怖そうなムード、一般の人々とは大きな隔たりのある世界」という、マイナーな、さらに言えばヴァルネラビリティ(負性)を帯びたイメージが、確かにあったのです。
 それがどんなものかお知りになりたい方は、映画『ヴァリエテ』(1925年ドイツ)、『道』(1954年イタリア)をご覧ください。『怪物団』(1932年米、現在は日本でも原題の『フリークス(Freaks)』が用いられています)という作品もあるのですが、これは内容があまりにも酷過ぎるので、絶対にご覧にならないでください。
 上記の発言で馳さんが用いた「新日本プロレス」という言葉は、昔の親御さんたちが使っていた「サーカス」と同一とは言えませんが、同様のニュアンスであることには疑念の余地がありません。
 既述の「胡散臭い」発言といい今回のこの言葉といい、馳さんはプロレスラーという職業を客観視できる方であり、そしてつくづく正直な方です。

今はなき「かつてのサーカス」の世界について

 まず、私自身の率直な感想を述べておきます。
 上記の馳さんの言葉は、何らおかしなものではなく、かつては新日本プロレスに所属していた元レスラーとして、ウィットのある励ましになっている、と思います。況してや非難される筋合いなど、まったくありません。
 なぜか、ということを述べる前に補足的に説明しておくべきことがあります。
 既述のとおり、その昔のサーカスはマイナーなジャンルというのが一般的な認識でした(例外的な「大サーカス」はありましたが)。現在のサーカスはみな、堂々たるメジャーな存在です(「マイナーなサーカス」では観客を惹きつけられず、生き残れないので弱小サーカスは淘汰されてしまったから)。
 それは、サーカスにとっても観衆にとっても良いことだと思います。
 しかしながら。
 マイナーであり、明らかにヴァルネラビリティを帯びていたかつてのサーカスには、現在のサーカスにはなくなってしまった美質、素晴らしさもありました。
 あたり前です。黒電話さえない家のほうが多かった時代には、スマホを持っていてあたり前の現代にはない良さがありました。
 私はかつてのサーカスにあったそんな美質を「チャプニスク(チャップリン風)なヒューマニティーとペーソス」と呼びたいと思っています。
「チャプニスク」は別に私の造語ではありません。
 アカデミー主演賞受賞女優のシャーリー・マクレーンが、1968年にミュージカル映画『スイート・チャリティ』(米)に主演したとき、その演技を賞讃してこの言葉が用いられました(おそらくもっと古い用例もあるのでしょうが、私は知りません)。マクレーンが扮したのは、男たちに裏切られても明るさを失わない、けなげな踊り子でした。
『スイート・チャリティ』は喜劇ではなく、マクレーンはチャップリンのようなパントマイムを披露したわけでもありません。しかしマクレーンの演技には、たしかにチャップリンを連想させるヒューマニティーとペーソスがあったのです。
 それは、この映画の公開当時、すでに世界からほぼ失われていたものでした。
 ちなみに『スイート・チャリティ』は、イタリア映画『カビリアの夜』(1957年)のリメイクです(ただし、原典のほうの主人公は踊り子ではなく娼婦でした)。この映画の主演女優は上述の『道』と同じジュリエッタ・マシーナ。ついでに言うと『道』と『カビリアの夜』の監督は同じフェデリコ・フェリーニです。もうひとつつけ加えると、マシーナとフェリーニは実生活では夫婦でした。
 私はかつてのサーカスにはチャプニスクなヒューマニティーとペーソスがあった、と言いました。
 その素晴らしさを存分に味わえる映画があります。
 主演、監督、脚本はチャールズ・チャップリン。
 タイトルは『サーカス』(1928年米)。
ぜひご覧ください。

「それ」はプロレスにとって恥辱ではなく名誉


 私は、今でも、そしてこれからもプロレスはヴァルネラビリティを帯びたジャンル(村松友視さんは「ジャンルの鬼っ子」と呼んでいました)であり続けると思っています。だって、Eスポーツがオリンピック種目になることはあっても、プロレスがそうなることは永遠にありっこないもの。
 私が大学生だった1981年に、ロバート・アルドリッチ監督の遺作となったアメリカ映画『カリフォルニア・ドールズ』が公開されました。
 アルドリッチは、大スターのゲーリー・クーパーと当時の新星バート・ランカスターが、火花散る競演を見せた西部劇大作『ヴェラクルス』(1954年米)や、息もつかせぬアクションのおもしろさで今も多くのファンをもつ『特攻大作戦』(1967年米)で知られる名匠です。
『カリフォルニア・ドールズ』は、女子プロレスのタッグ・チームを主人公としたロード・ムービーです(マネージャー役で『刑事コロンボ』のピーター・フォークが共演しています)。この映画には、アスリート的な(=アスレチックな)世界には絶対にあり得ない、プロレスならではのチャプニスクなヒューマニティーとペーソスが、確かにありました。
 同じ年に(『カリフォルニア・ドールズ』に触発されたわけではないのですが)、私は明治大学SF研究会発行の同人誌にこんなことを書いています。
「プロレスこそは、20世紀におけるチャプニスク(チャップリン風)なヒューマニティー(ヒューマニズムではない)とペーソスの、最後の砦なのである」と。
 私は真剣にそう思っていましたし、今でもそう思っています。
 
と言うことは。
 20世紀が過去のものとなって、じきに四半世紀を迎えようとしている現在、プロレスからもチャプニスクなものは失われ、したがって、そんなものは世界じゅうのどこにも無くなってしまっているのではないか--そんなふうにも思えます。それは、少なくとも私にとっては淋しさを禁じ得ない、哀しいことです。
 しかし、もしも現在もなお、その要素をプロレスがどこかに保ち続けているとしたら、こんなに嬉しいことはありません。私はそう思います。
 今はない昔のサーカスのごとくに認知されるとしたら、それはプロレスにとって恥辱(disgrace)ではなく、名誉であり栄光(glory)なのです。
 ですから。
 私は上記の馳さんの発言、間違っていないと思うだけでなく、ひそやかな嬉しさすら感じています
 お分かりいただけましたでしょうか。

新日本プロレスの卑怯なダブルスタンダード!

 しかしながら。
 すでに述べたとおり、これは「私の率直な感想」です。
  私とはまったく異なる(しかしとても分かりやすい)思考回路と、私には良く分からない種類のプライドをお持ちの新日本プロレスさんのご感想は、全然違うはずです。違っていなければおかしい。辻褄が合いません。平仄(ひょうそく)も合いません。
 良いですか。
 塩村さんの「プロレス芸」発言が、仮に不当な間違っているものであったとしても(そんなことあり得ないのですが)、それはあくまで比喩表現であり、仮にそこで貶められているものがあったとしたら(そんなものはないのですが)、それは「プロレスというジャンル全体」です。
  ところが馳知事は、ずばりピンポイントで「新日本プロレス」という固有名詞を出して、「そこにJリーガー(所属チームがJ3でも)が入団させられるとしたら、罰(ペナルティー)を課されることに相当する団体」である、と言っているのですよ。論理的には間違いなくそういうことになります(お分かりと思いますが、こういうマヌケなChatGPTもどきの杓子定規な論理、私は大嫌いなのですけど)。
 書き忘れていたのですが、この発言がなされたのは今年(2023年)の11月28日(嘘です、忘れていたわけではありません)
 塩村さんの訂正、撤回、謝罪からわずか4日後のことです。
 新日本プロレスは、なぜこのとき、馳浩石川県知事に発言の訂正と撤回を求めなかったのですか。
 かつては新日本プロレスに所属していたプロレスラーでもあり、プロレス界の表も裏も知り尽くしている馳さんには訂正も撤回も求めないのですか。
(いろいろと叩かれてきたけど)今も政界に影響を保ち続けている森元総理とは昵懇(じっこん)の仲であり、憲政史上最長の政権に君臨した故・安倍総理とも親しかった、閣僚(文科相)まで務め、プロレス界なみならず政界においても業師(わざし)である政治家には何も言えないのですか。
 
政治力という点で、現在のところ馳さんには及ばない(そう言って良いと思います)女性議員のツィートには、速攻で難癖つけたのに。
 そういう二重基準(ダブルスタンダード)を、臆面もなく使い分けるような根性を「卑怯」と言うのです。
 
今からでも、いや、年が明けてからでも全然遅くはありません。
 新日本プロレスさん、馳浩石川県知事にもぜひ意見書を送ってくださいね。
 最後に今一度、私は問います。
 一体何が悪いのですか?
「プロレス芸」と言って。
 




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