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母がつないだ物語

とても個人的なブログです。
昨年6月に亡くなった母が遺した膨大なキルト作品。母が生きていた証として残しておきたいと考え、作品集として制作し、母をよく知る身近な人たちにだけに配りました。
そのうちのひとり、昔、社宅のお隣にいて、新婚同志だったこともあり、とても仲良くしてもらい、それ以来もう30年近くになる友人にこの本を渡しにいきました。子供が産まれるのがこちらが先だったので、うちの娘をまるで自分たちの子供のように可愛がってくれて、預かってくれたりもしたので、母がお礼にと洋服を仕立ててプレゼントしたりしていたのです。
娘が2歳のころ、ご主人が福岡へ転勤になり、その後ずっと福岡在住。いまは二人の息子さんを立派に育てあげて、ニッポンのお母さん風になっている彼女をたずねて福岡へ。
彼女、昨年から今年にかけて立て続けに両親を亡くし、実家の片付けもしているので、ぜひ実家で泊ってと言っていただき、彼女のご両親が晩年を過ごされた福岡の実家に泊まることになりました。

母の作品集の最後の頁は、晩年、母がまだ元気で精力的に制作していた時の、母の仕事部屋で作品や端切れ等に囲まれて、ご機嫌な母の写真を掲載しています。その写真をみて、彼女がいきなり、涙をぽろぽろとこぼし、大泣きに泣き出してしまいました。
「この写真をみて、いま、思い出した。ママがいなかったら、私は今、こうしてないかもしれない。。。」

彼女は私の母のことを、ずっと「ママ」と呼んでくれて慕ってくれていました。当時、母はまだ大阪にいて、私が多忙のときだけ、東京にきてくれてサポートしてくれていました。娘が3歳の七五三に、大阪からは母が、福岡からは友人がそれぞれ上京してくれて、みんなで七五三をお祝いしよう、ということになり、我が家の小さな社宅に、みんなで泊って、娘の明治新宮の
お参りを見届けました。翌日、私たち夫婦は仕事にいき、娘は保育園へ、母は社宅でお留守番。友人は、知り合いの家に泊まりにいってから、福岡へ帰ることになっていました。当時、友人の両親は東京の小金井というところにいらっしゃり、本来なら実家に寄るところなのですが、実は、結婚するときに親から大反対されて、勘当同然、かけおち同然で結婚しているため、実家とは絶縁状態だったのです。実際、「一切の関係を断ちます」という念書を書かされたそう。今から考えると、そこまで反対される理由はないように思えますが、おそらく、長女であった友人に対してのお父様の思入れが強くて、ご両親の考えていた理想の結婚ではなかったのかもしれません。お父様も少し意地になられていたのかもしれません。いずれにしても、三姉妹の下の妹だけがわずかな絆で、連絡先もその妹だけしか知らないような状態でした。

友人がいう思い出した話というのが、用事で外出から社宅に帰った友人に、母が告げた伝言「小金井の実家のおかあさんから、一度帰ってきて、と電話があったよ。私も同じ母親として気持ちがわかるから、お願いだから、顔だけ見せに行ってあげて。もし、どうしても嫌なら、またここに帰ってきたらいいから」
友人いわく、母親として気持ちがわかる、どうしても嫌だったら帰ってきていいよ、という母の言葉で、戻ってこれるなら、と実家に帰るという背中を押されたそう。
結果、この日を境に実家と和解できて、普通に行き来できるようになったそうです。その後、福岡に転勤、自宅を構えた両親とも定期的に連絡できていたので、認知症が進んできたことにも気づくことができ、病院の手配や介護等、週末ごとに世話ができるようになって、最期にも立ち会えたというのです。

「あの時、ママがあんなふうに言ってくれなかったら、絶縁のまま終わっていたかもしれない」と友人は言います。
友人のお父様は別府のご出身。友人の旦那様は、九州の高千穂の出身で、友人は結婚に反対されながらも「転勤族の両親もいつかは福岡へ帰るはず。この人と結婚したら、自分もいつか九州へ帰れるだろう」と思って結婚を決めたところもあったのだと。友人は将来、両親のケアを自分がすることもちゃんと考えていたんです。それなのに、頭ごなしに反対されて、絶縁されていた。両親も、自分から縁を切るといった手前、どう接していいかわからなかったのかもしれません。

偶然とはいいながら、母が何か仲直りのきっかけをつくったのだとしたら、それはそれで、母の生きていた証のひとつなのかな、とこちらも感慨深くなりました。人が生きているなかで、すれ違いやご縁、タイミングがいろいろあります。でも、きっと、その時、その人がいたおかげで、つながっていく物語ってあるのだなと改めて思いました。


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