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子どもは、親に嘘をつく

「正しい」という言葉が苦手だ。

それはどんな判断基準で?誰が判断したのか?今はそう考えることができるけれど、小さい頃はそれができなかった。それができずに、与えられた「正しさ」に苦しんだ。
今はもうほとんど思い出すこともなくなった感情だけれど、島本理生さんの小説「ファーストラヴ」を読んで、小さい頃のことを思い出した。島本理生さんは大好きな作家の一人なのだけれど、作品を読むと毎回感じるのは、島本理生さんというのは、いったいどんな感情の受容の仕方をしているんだろうか、ということ。苦しみという感情の受容度がとてつもなく高いんじゃないかと思ったりする。胸を掻きむしりたくなるような、叫びだしたくなるようなその苦しみを、ただ静かに受け止めて、まっすぐに語る、そんな印象がある。


小説の舞台は東京。臨床心理士の真壁由紀の視点から語られる物語で、女子アナ志望の女子大生・聖山環菜が、自分の父親を刺殺したことからストーリーは動いていく。

家族というのは、良くも悪くも絶対的で、閉鎖的だから、子どもはしていいことと悪いことを親の判断基準から学ぶ。そして、親の基準を「正しい」ものとして取り込んでいくんだと思う。世の中には様々な価値観があるけれど、子どもの目にはそれが見えないし、見えたわずかな価値観もなかなか親の「正しい」に勝てない。そして、子どもは「正しい」を、親の言葉と態度から読み取っていく。

私の最初の嘘の記憶は、たしか幼稚園の年中の頃のことだったと思う。お店に置いてあったおもちゃを遊んでいたら壊してしまった。母がどうしたのかと私に聞いたとき、私は、「これ、はじめからこわれてたの。」と嘘をついた。あのおもちゃを母がどうしたのかは覚えていない。でも、嘘をつくことに心臓をどきどきさせながら、怒られなかったことにほっとした思いだったのはよく覚えている。私はあのとき、母の反応だけを見ていたから。きっとあのとき私は、「ものを壊してはいけない」という普段の教えから、おもちゃを壊した自分の行為をいけないことだと判断した。いけないことをしてしまったから、その行為自体をなかったことにした。そして、その行為をなかったことにしたことに対する親の反応を見て、「ものを壊してはいけない」という名文をさらに堅固なものにし、さらに、いけないことをしたときは嘘をついた方がいいと学んだんだと思う。

厳密にいえばこれは、「親がいけないと判断したことをしたときは、嘘をつけば親に怒られない」というだけのことで、親の判断が正しいことを示すわけでも、嘘をついた方がいいわけでもない。でももちろん当時の私はそんなことは考えられないし、私の親は自分たちの「正しい」を絶対的なものだと信じていたから、そうやって親の顔を見ながら親の意思に反したときは嘘をつくことが刷り込まれていったんだと思う。私はそれほど親に反抗しない子どもだったと思っている。
小説の中でも、環菜が母に嘘をつくことに対して語る場面がある。環菜は由紀に「私が嘘をつくことで母は安心してました」と言う。程度の差こそあれ、嘘は親と子の間で生まれるものなんじゃないか。


とはいえ私は、嘘をつくことが悪いことだ思っているわけじゃない。正直でいることで傷つくならば、嘘をついて逃げた方がいい場合もある。家族は閉鎖的な空間だから尚更、そこから抜け出せないのなら嘘をついて親の望む通りの顔をしていたっていいと思う。ただ、いいことも悪いことも嘘をつかずに正直でいられる人間関係があるかどうかはとても大事だよなと思う。だから由紀の夫の我聞さんが、「もっと気軽に僕に向かって、迦葉の愚痴を言ったり、褒めたりしていい」と言ったとき、ほっとした。見せたくないものは見せなくていいし、嘘をついたっていいけれど、いつでも心の内をさらけ出せる人がいるという事実が、苦しいときの救いになる。我聞さんのこの言葉が、小説全体の光みたいだなと思った。

最後に、迦葉のお気に入りを台詞載せて終わりにする。語弊がありそうだけど、島本理生さんのこういう苦しみの拾い方がとても好き。
「日本の法律は血縁関係が強すぎるよ。完全に縁は切れないし、よけいなものを他人に背負わせるつもりはないよ。」

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