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喜びも痛みも、抱きしめながら。感情の紡ぎ方と、物語の関係について考えるのが好き。/ 読…

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喜びも痛みも、抱きしめながら。感情の紡ぎ方と、物語の関係について考えるのが好き。/ 読書 / 映画 / 一人旅 /ときどきアコギ / コルクラボ 5期生

マガジン

  • コルクラボ ガーデン [CORK Lab GARDEN]

    • 1,117本

    「コルクラボのメンバーが書いたコルクラボに関するnote」を集めたゆるーいマガジンです #コルクラボ

最近の記事

幸運の功罪

レントゲンの画像を指差しながら、先生は涼しい無表情で私を振り返る。 「うーん、ここね、ほんのちょっとなんだけど、折れて...ますね。1mmくらいなんですけどね。」 「1mm...ですか。」 「うん。1mm×3mmくらいかな。ほんとうに小さいけれど。なので、残念ながらあと2週間くらいは痛むと思いますよ。」 はい、と苦笑しながら私が答えると、これからの治療について先生は説明し出した。 骨折━。随分と久しぶりに耳にする響きだ。 骨折というよりヒビと言った方が、頭に

    • 無機質に温度を。

      ビルの連なりに、私は人間を感じない。私の目には、それらはひどく無機質で、生命を失った灰色に見えた。コンクリートも、アスファルトも、電柱も、ガードレールも、曇り一つなく磨かれた窓ガラスでさえ、どれも味気なく、私の視界を横切っては消えていくだけだった。 もう何年も前に東京タワーに登ったとき、視界を埋め尽くすビルを見た。夕闇に染まった夜の街を眼下にして、展望台には静かな歓喜がざわめいていた。 地上の星─。 だれかがそう言う声が聞こえた。きっと、そういう言葉がふさわしい場所だった

      • 物語をわたしのからだに

        " 何があれば、生きていけますか。" そう、問われた気がした。 この文章は、kanako yamazakiが執筆した小説「唇と杏と宇宙人と。」に寄せる思いを綴ったものです。 何があれば、生きていけるか。 その問いに答えを出すのは、きっと容易なことではない。 なぜならそれは、自覚すらできないままに出会ってしまうものかもしれないから。 自分の内側や日常に目をこらせば、たしかに答えらしいものは、見つかる。 愛されたいとか、信頼できる人といたいとか、陽の光を浴びて

        • 月の、おはなし

          「ねぇ、お月さまは、どうしておいかけてくるの?」 夜の闇で、後部座席にすわったまま視線をあげると、まるくて、おおきな、光が横を並んで走っている。 赤い光を放つおおきな"てっとう"は、走るほどにうしろにうしろに流れていくのに、運転席の父が、何度ハンドルを切っても月だけはずっと、ずっと、ついてくる。 あのとき、月から目を離すことができないままその理由を問うたわたしに、父はいったいどんなことばを返してくれたんだろう。 夜の闇が、好きでした。 夜の闇の中で美しく並ぶ赤い

        幸運の功罪

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        • コルクラボ ガーデン [CORK Lab GARDEN]
          1,117本

        記事

          彼女のフィルターを通した世界を

          「はじめまして。私が今回、この哲学対話を企てました、ゆききです。」 ひとの見ている景色は、面白いほどに異なる。 たとえ、同じ空間にいて、目を合わせて、あるいは同じものを見つめて、同じものについて、言葉を交わしていたとしても。 そんなことは知っている気でいたけれど、最近は、それを実感する機会に恵まれている。 あのとき彼女が見ていた景色も、私が見ていた景色も、彼が見ていた景色も、企画に参加してくれた人たちが見ていた景色も、きっと想像できないほどにちがっていたのだと思う。 今

          彼女のフィルターを通した世界を

          捨てた夢をめぐる夜

          幼い頃から、大人に求められるような夢を持っていなかった。 「大人になったら何になりたいの?」「何をしたいの?」と、彼らは笑顔で私に尋ねたけれど、それに答えるための言葉は私にはなかった。 記憶のないほど幼い頃、ケーキやさんになりたいとか、おはなやさんになりたいとか、私はそんなことを話したという。いったいそれはだれの夢だったのだろう。 夢は、持っていた。 けれどそれは、彼らが欲している答えではないことも私は知っていた。だから夢はあるかと聞かれれば、半ば反射的に、特にないと答え

          捨てた夢をめぐる夜

          祖母の命のために

          「死にたいなんて思ってないのよ。でももうわからんのよ。庭をいじったり、お花を世話したり、食べたいものを食べたり、ほら、私こういう変なカバーとか好きでしょう。こういうもの縫ったり、そういうことがしていたいのよ。」 祖母から「死にたいなんて思ってない」という言葉を聞いたのは初めてだった。祖母はよく、「まあもう私、死にたいわ。」とまるで歌うかのように軽く口にしたから。もちろんその言葉が、祖母の何かの行動に繋がるなんてことはないのはわかっていて、それは、もう30年以上前に亡くなった

          祖母の命のために

          いちばんに愛されたかったよね

          あの子の視線がふっとそれて、心は小さく、傷を受ける ああ、今日も私はいちばんではなかった あの子にとってのいちばんは、私ではなかった いちばんに、なりたかった 誰かにとってのいちばんに ねえ、気がついてる? いったい、それなら、あなたにとってのいちばんは誰なの? いちばんなんか挙げられないくせに 自分だけいちばんになりたいなんて都合のよい文句を秘めながら 今日も私、もがいています その人が心をはこぶ場所に、私以外の誰かがいるとわかると すこし、背筋が伸びる 私は、あな

          いちばんに愛されたかったよね

          伝えたいことは、言葉にならないから

          ほんとうに伝えたいことがあるとき、言葉につまる。 伝えたいことがあれば、言葉は溢れ出そうなものなのに、予想に反してそれは言葉にならない。 それはどうしても簡単な言葉ではおさまらず、言いすぎるのも違う、言わなすぎるのも違う、あっちをとがらせ、こっちをへこませ、何度も何度も頭の中で言葉を組み立てる。 言葉はすこし、線路に似ている。 線路は、右へ左へゆるやかに曲線を描きながら、えきに寄り、人をのせ、目的地に向かっていく。言葉もきっとそうだ。詰め込みたい思いをのせるために、曲

          伝えたいことは、言葉にならないから

          腕時計 と 愛の記憶

          腕時計がゆるくなった ベルトの金具をひとつ分短くしようか悩む すこし、痩せた 時計のベルトの余分をつまみながら 頭に浮かぶのはおばあちゃんの笑顔 あれはちょうど、あの子が痩せてるとか太ってるとか 可愛いとか可愛くないとか 人気者だとかそうじゃないとか そういうことが気になりだした頃だった わたしは昔から肩凝りがひどくて おばあちゃんはわたしの肩をよく揉んでくれた 書き間違いではない おばあちゃんが、わたしの肩を、揉んでくれた それでもおばあちゃんは嬉しそうに孫の肩

          腕時計 と 愛の記憶

          「好き」だと声にだすことで、「好き」が深まる

          好きなもの、好きなこと、好きなひと。 「好き」は私のまわりに溢れている。 だけど私は、「好き」だと言うことがあまり得意ではなかった。正直に言えば今でも得意ではない。 「好き」を声にだせないというもやもやとした思いは、実は10代のときから抱えている。高校のとき、ONE OK ROCKが大好きな友だちが、「大好きだけど、だから軽い気持ちで話したくない」と話していて、その気持ちも、すこしわかるのだ。「好き」と声に出すには、その意味で、安心安全が担保されている必要がある。 「好

          「好き」だと声にだすことで、「好き」が深まる

          世界が離れていく夜に

          それは、あるとき突然に、ゆるやかに。 予兆はあったかもしれない、けれどそんなものは知らないの。 自分を世界の中心だと思ってはいけないと、こどもの頃だれかが教えてくれた。 それでも世界は、わたしの目をとおしてしか見ることができなかったし わたしの耳でしか聴くことができなかったでしょう。 わたしの隣でひとは笑ったし わたしに聴こえてくるのが世界だったもの。 あるとき突然ふっと、胸のおくのほうにあったちいさな輝きが ぎゅうっと膨らんで おおきな風船になってふわふわと飛んでいく。

          世界が離れていく夜に

          おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語 〜『モモ』を読んで

          モモとジジの関係の美しさ。 それが、おそよ15年ぶりに読んだ『モモ』に関するいちばんの感動だった。 『モモ』。言わずと知れたミヒャエル・エンデの名作。時間どろぼうに奪われた時間を、モモという少女が取り戻す物語だ。 10年以上前に読んだ本を再読するのはすごく面白い。 小学生だったわたしが、『モモ』を読んで何を思ったのかは、正直あまり覚えていないけれど、いくつか、ああそうだった、このシーンが好きだった、というところは思い出す。 もともとは、時間について考えたくて読み出した本だ

          おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語 〜『モモ』を読んで

          「身体」が実感すること 〜「知性は死なない」を読んで〜

          ときどき、心を軽くしてくれることばに出会う。 それはきっと、ふとした会話の中で、なんとはなしに読んだ小説の中で。 例えば、今ではわたしの大のお気に入りの1冊となった、平野啓一郎の「ある男」を読んだとき。 弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。 宮崎に住む里枝には、二歳の次男を脳腫瘍で失って、 夫と別れた過去があった。長男を引き取って、十四年ぶりに 故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、幸せな家庭を築いていた。 ある

          「身体」が実感すること 〜「知性は死なない」を読んで〜

          「救われる」の正体をしりたい

          「救われた」という感覚に救われてきた。 それは、わたしにとって、とても大切な感覚。 「救われる」というからには、どこかに苦境があって、そこから引っ張りあげられる状態をイメージする。 わたしは苦しんでいたのだろうか。 苦しんでいたかもしれない。 生きることは、とてつもなく簡単で、すこし、難しい。 平和な時代に生まれたわたしが、ただ生き残るのは簡単だ。不慮のなにかに巻き込まれなければ生きていける。それはわたしの力の及ばないことで、するべきことはなにもない。 けれども、ものご

          「救われる」の正体をしりたい

          わたしには「人をみる目」がない

          「人をみる目」のある人に憧れた。 その思いはおそらく幼いころからずっとわたしの中にすみついている。 どうしてもタイトルが思い出せないけれど、小学生のころに読んだ本のなかに、「人をみる目」のある女の子が出てきた。 名前はたしか、あいちゃん。 あいちゃんは、人にあった瞬間に、その人が人でなしかいい人を見分けることができて、人でなしには卵を投げつけたりするような子だった。けれどあいちゃんに認められた人は、他の大人たちからも認められるような存在になったし、あいちゃんのその能力は

          わたしには「人をみる目」がない