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テレビを捨てたら

我が家にはテレビがない。
かれこれ7年ほど、実家を出て以来ずっとテレビがない生活が続いている。

情報はラジオとインターネットで十分に取得できるし、何の不自由も感じていない。

大きな災害があった時ですら、最も早い情報源はTwitterだし、テレビの画面から繰り返し流される恐怖の映像は自分が安全な場所にいる時にだけ見られる物だ。
先日も、自分の身を守るために最速で得なければならない情報、例えば今ここに津波が来るのかどうかは、地方行政による放送やサイレンとTwitterの合わせ技で素早く的確な情報を得ることが出来た。

映像が撮影され、スタジオにその映像が送られて、アナウンサーが伝えるという何ステップにも渡る過程を経て放送されるテレビの情報は遅い。
それでも放送局は通常より手数を省き緊急の対応をしていると思われるのだが、実際に命が失われるかもしれないような場所にいる人にとっては、テレビの情報を待ってから逃げるのではおそらく手遅れだ。

我が家にテレビがない理由は複数ある。
まず、テレビのとっ散らかり具合いだ。
テレビはとにかく「うるさい」。
音、画面の光、動き、物質的な存在感。全てが煩いのである。
部屋にテレビが存在するだけで、どんなにスタイリッシュなデザインのテレビであっても、どんなに物が少なく綺麗な家であっても、あっという間に生活臭が家中に充満する。

テレビのない空間にいることによって、思考が静かになり、自発的に考えようとする脳の部分が動き始めるような気がする。
たまの出張などで滞在先にテレビがあると物珍しくて一度は付けては見るのだが、30分ともたずに消してしまう。疲れるのだ。

子供の頃から、母の教育方針により、テレビは見る番組を選び、その番組の時間だけテレビを付けるということを徹底されていた。見たい番組が終わればパチンとテレビは消され、おやつの時間はラジオやレコード、CDがかけられていた。
音楽も全てクラシック音楽。いわゆる流行歌などは母が嫌っていたため、子供には極力聴かせないようにしていたのだと思う。
家の中に全く音が流れていない時間も多く、静かに読書をしたり、ぬり絵をしたり、折り紙をしたりして遊んでいた。

そんな背景も手伝ってか、現在も無音の家にいても全く苦痛ではなく、むしろ落ち着くのである。
無音、と言っても宇宙空間の真空にいるわけではないので、音はする。
鳥の鳴き声や、風の音、ゴミ収集車が来た音や、近所に宅配便が届いた声、隣の家のテレビの音が遠くに聞こえたり、海辺の街ではたまにゴウゴウと波の音が家まで届いたりもする。
今は飛行機の音が聞こえているし、老犬の寝息も心地よいリズムを刻んでいる。


私たちは本来、とても豊かな音の世界に暮らしているのだ。
それらは様々なテクノロジーによってかき消されている。
五月蝿さに麻痺してしまうと、本来存在する音が生み出す美しさに気がつくのは難しい。


心の静けさを取り戻す最も簡単な方法は、ただ目の前でけたたましく喚いている物を排除して、ゆっくりと深呼吸することだ。
今すぐテレビを捨てられる人は捨てて、それが難しい人はテレビを消して何か好きな布でテレビを覆うというのも良いだろう。
部屋が複数ある人はテレビがない部屋で過ごす時間を長くするというのも手軽に試せる方法だ。
試しに丸一日全くテレビをつけない日を作ってみても良い。いかにテレビのスイッチを無意識に押していたかに気が付けるかもしれない。


テレビそのものが悪いと言うわけではないのだが、それによる弊害と代償はあまりにも大きい。
テレビがつけっぱなしで、ジャンジャン様々な情報が大量に垂れ流されてきても、自分の思考は整理できるし、静かな心でもいられるし、なんの影響も受けないと言うような人ならば、テレビの存在は全く問題にならないだろう。

私はきっと、あまり意思が強くない人なので、テレビそのものが家の中に無い方が、自分をコントロールできるのだと思う。

大勢の人と意見が違っていても、それほど気にならなくなった。
むしろ大勢の意見を知ってしまうと、それに迎合しなくちゃいけないような強迫観念に襲われそうになる自分を立て直すエネルギーを要してしまう。
「だってテレビで言ってたから」これほど恐ろしいプロパガンダは無いだろう。
道で縄跳びをしていた2人の小学生の女の子からこのセリフが聞こえてきた時には、心底ゾッとした。

私はもう、不必要にお金を消費させられて、不必要に物を溜め込まされて、不必要に脳を思考停止にされられたくない。


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