見出し画像

断食3日目の夕方から

断食3日目夕方

少し気力が出てきた

断食3日目の夕方から友人が参加する古本イベントに出かけてみる。
自分の体が元気満点で季節も寒い頃なら徒歩で行ってしまう場所だったのだが、今日は自分に優しくしておこうと思い、途中までバスを利用する。贅沢な移動だが、無駄遣いしたなとは感じなかったので正しい出費をしたようだ。

イベント会場となったカフェは雰囲気のいい深みのぎっしり詰まったお店で、そこに魅力あふれる選書の古本たちが並び、鎌倉ローカルたちが集っていた。春になり様々な規模や趣旨のイベントが毎週末のようにあちらこちらで開催されているが、やっぱりローカル同士が集い合うようなイベントが私は好きだ。
そういう場で新しい重要な発見や出会いが生まれる。
誰かと誰かがリアルに繋がり、地元のネットワークがまた一つ広がっていく。

断食中のコーヒー

イベント会場がカフェだったため、ブラックでドリップコーヒーをいただく。
断食開始後初のコーヒーだ。
もっと体がびっくりするのかと思っていたが、案外すんなり飲めてしまった。

この日は結果的に別の場所でも仕事の用事があり、合計2杯のブラックコーヒーを飲無ことになった。しかし胃が気持ち悪くなることもなく、無駄にハイテンションになることもなく、意外にもいつも通りだった。
普段からコーヒーを頻繁に飲んでいるせいだろうか。
断食中はカフェインは推奨されていないようだし、人によっては断食中にうっかりコーヒーを飲んだら心臓がバクバクした、なんてこともあるようなのだが、この辺はカフェインをどれくらい体が処理できるか、耐性があるか、普段から飲み慣れているか、などによる影響も大きそうだなと感じた。

家までの帰りの山登りは、もっと辛くなるかと想像していたが、割と普通に登ることができて拍子抜けした。
これはカフェインパワーの影響もあるかもしれないと思ったのだが、もしかしたら何らかの断食の山を一つ越えたのではないか、という気もしてきた。

体が楽になってきたように思う

帰宅後、すぐに老犬にご飯を食べさせる。
私はようやく具なし味噌汁を作ろうという気力が出てきたので、出汁をとり、味噌を混ぜて、ささっと具なし味噌汁を味わう。極めて薄味の味噌汁にしたのだが、本能的にこれくらいの濃度が今の体に合うよと感じた薄さで作ってみた。ほぼ出汁の味という薄味噌汁はホッとする味だった。
雨の夜に湯気の上がる味噌汁が一段と美味しく感じられる。

今日の友人のイベントに向かいながら考えていたのは、別に食べなくても慣れてきたら案外平気なものだけれど、いざ何かを行動したり重要なことをまとめて考えたりするなら、少しパワー不足かもしれないということ。圧倒的に瞬発力が足りない。歩くスピードも自然といつもよりゆっくりになる。
自分が思うような理想的な人生の過ごし方、何かを深く考えたり、観たり、読んだり、人に会ったりする生き方を実現するために、食べることが少しは必要なのかもしれない、と思いながら、トボトボとおばあさんのようなスピードでバス停まで歩いていた。

いつもならなんてことはないバス停までの道なのだが、気温があがりつつある苦手な日差しの下だったこともあり、少し体調に不安を覚えて、緊急用に持ち歩いていた塩飴を1つ舐めながら、途中のコンビニで入手した炭酸水もこまめに飲む。

「食べることとは、私にとって何なのか」という問いを、飽きもせずしつこく自分に投げかけ続けている。

全く食べなくてもパワー不足で理想の生活が達成できないかもしれない。
けれど食に振り回されてしまうと本末転倒だ。

社会が喧伝する常識や正常と言われる食にまつわるあれこれに惑わされず、
私は私だけのリズムを見つけなければならない。
結局のところ、私がどうしたら快適に過ごせるかは、私にしか判断できないのだ。

断食3日目の終わりにわかってきたこと

少しだけ見えてきたことは、私は充分に満足した上で食についての支払いをしてこなかった時に強いストレスを感じているのかもしれないということだ。
妥協した食材を買い、本当は食べる必要のないタイミングなのに時間で晩御飯を作り、食べる。その結果、体力も時間も食に奪われ、買い物に出かけた時間から作る時間食べる時間片付ける時間の全てがモヤモヤしたものになっていたのではないか。

もしも毎日3食必ず食べなければいけないのなら、毎回納得のいく食材だけで揃えていくのは難しいだろう。
けれど、自分だけの時間があるならば、食べないことも選択肢に入れて良いのだ。
そのことに何故か今まで全く気がつくことが出来ていなかった。

バランスの良い食事を自炊して食べていなければ体に悪い影響が出るのではないか、
ダメな人間なのではないか、正しい生き方じゃないような、謎の不安に囚われていたように思う。
それらの思い込みは、どこかから私に注入されたものだった。
自分で自分のために発見した考えではなく、たくさんの人たちによってまことしやかに囁かれる常識という暴力に、すっかり巻き込まれていたのだ。

常識に囚われない生き方をしたいなんて言いながら、これではすっかり常識という大きな力に洗脳され切っている。

食事にお金をたくさん使うことができなくても、元々の予算のままで支払い先の配分を変えることはできる。食べない時があってもいいんだよ、と自分に言うことで、それが達成できるのではないかという気がしてきた。

100%納得のいく支払いだけで食を完結させることは難しいかもしれないが、少しでも100%に近づけようと工夫することはできるだろう。

最初のうちは「わー、またやっちゃった」と後悔する出費をすることもあるかもしれないが、それでも気がつけば、変えられるはずだ。
これからの生きる方針が少し見えてきたような気がして、希望が心に湧いてきた。

夜寝る前に少し体温が下がってきたような気がしたので試しに計測する。
36.5度。若干下がった。しかし私にとってはやはり微熱発熱の温度。まだ熱感がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?