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ルシャナの仏国土 覚者編

(あらすじ)
 プレアデス星団の中ほどにあるサルナート太陽系・第五惑星ルシアでは、地球でも現れる物質的な力の他に『法力』というものが存在している。
 その惑星に、自らは騎馬兵として生まれながら、人の生と死を悲しむ一人の若者がいた。彼は、国王の意向で参与となり、自国がある大陸内をまとめ上げることに成功した。
 しかし、人にとって本当の幸せとは何か、その答えを求めてやまぬ彼は、星の精霊からも講義を受け、僧形そうぎょうの仏陀・覚者かくしゃ変化へんげする。
 全五編からなる「ルシャナの仏国土」シリーズの第一編となる本作品は、主人公ルシャナの生涯を描く。

一.惑星ルシア

 この物語はプレアデス星団の中ほどにあるサルナート太陽系・第五惑星ルシアでの出来事である。

 この星での人類は、火と剣と弓の次に水力発電と風力発電を発明し、文明は発展していった。
 しかし、文明が発展していくにしたがって、村同士の縄張り争いから、民族単位での勢力争いに戦乱も拡大していった。七つある大陸の中でも幾つもの国に分かれ、それぞれが統一されるまで、二千年ほどの時を要した。
 惑星市民条約機関が設立され、機能し始めたのは、ようやく統一されたばかりの各大陸それぞれの統一国家の施政者たちのあいだに平和を求める機運が高まった頃であった。世界が平和でなければ、人々に幸せは訪れない。
 具体的には、惑星市民条約機関は、世界平和を目的として、どの国のどの国民も全て平等に扱うものであった。各々に施政者を「皇帝」に指定し、彼らの施政は常に各国の市民議会の承認を受けなければならない、と定めた。また、剣と炎以外の武器を開発・使用・運搬することを例外なき禁止事項とした。
 大陸間にある海については、近隣のどの国にも属さず、惑星市民条約機関の直轄領と定め、治安は市民機関直属の海洋警察および海洋裁判所が担う。
 ここまでの決定が為されるまでには、実に百年の時を要したが、その決定は惑星全体で完全履行されるに至った。こうして、惑星ルシア全体に、恒久的な平和が訪れたのである。

 ルシャナと名乗る人物が、世の人の「苦」を滅する教えを説いていたことも、この機構設立の基礎となった。宇宙のすべての生命体はそもそも平等であり、人はその心によって本当の幸せになれると説いた彼の言葉は、多くの人々の共感を得て、広く広められることとなった。

 彼の死から千年あまりが経った今日、人々は自らの星をこう呼ぶ・・・「ルシャナの仏国土」と。

二.ナーデルの騎兵部隊

 その頃、世界はまだ各大陸内が数ヶ国にまでしかまとまっておらず、七大陸の一つ、カルタナ大陸においても、ナーデル・ラオプ・オープストの三ヶ国が突出して覇権を争っていた。
 ナーデルの騎兵部隊の団長ジークヴァルト・ペフラインとその妻クリスティーナにとって次男となる一人の男の子が産まれた。名前はヴォルフ。このヴォルフこそが、後世になってルシャナと呼ばれることになるのだが、ある時まではヴォルフと言う名の一介の騎馬兵であった。

 ヴォルフも幼くして武術と騎馬部隊に見合う礼儀作法を習い、十五歳になると一人前の兵士として戦場へと出て戦ったが、騎兵部隊は、部隊長のジークヴァルトとその嫡男ディートリヒが主戦力で、ヴォルフはいつもその補助的な存在に過ぎなかったし、ヴォルフ自身もそれが当たり前だと思っていた。
 しかし彼は戦場ではいつも負けそうになって味方に助けられることが多かった。味方が自分をかばって敵を斬った時、敵の返り血を浴びることもあった。そんなとき母は我が子の怪我を疑い、それが違うとわかると安堵の言葉と抱擁を彼に与えたものだ。
 やがて彼は戦うことよりも、味方のために防護壁を組む才能のほうに長けていることが知られたため、防護壁造営を専門とするようになった。そうして、彼は必然的に闘いを最後方から全体的に見ることが多くなった。

 毎日、仲間たちの幾人かが傷つき、時には死んで帰ってくる。死者の家族となった者たちは、嘆き悲しみながらその遺体を葬るが、翌日にはまた戦いに出て、人を傷つけたり殺したりするのだ。その敵にも家族があるとは考えずに・・・。
 またある時などは、戦いに倒れた敵兵のそばに駆け寄り、嘆き悲しむもう一人の女性兵士を騎兵部隊の一人が切り捨て、そのまま駆け抜けて行った。
 そのような光景を、ヴォルフは後方の防護壁のところから深い悲しみを伴って見続けていた。

 ヴォルフは、父親に問うた。
「父上、私たちは何故毎日戦うのでしょう?多くの仲間たちを失って悲しんでも、戦い続ける。悲しみを生むばかりではありませんか。
 それに、敵となる人たちにも家族がある。戦い続けることは、さらに悲しみを増すばかりではありませんか。」
 父親の団長は言った。
「確かにお前が言う通りだ。だが、我々は戦うことで身を立てて生きているし、我々が戦わずとも、結局は他の誰かが戦うことになる。中には、わざと残忍な殺し方をして楽しむような輩もいると聞く。それを考えれば、我々のような誇り高き正規の部隊が戦うほうが、敵となった者たちのためにも良いであろう。我々は、犠牲を、悲しみを払って、その対価を得ているのだ。」
「しかし父上、世の中には戦いをしなくともよい生き方はないのですか?生きている者は皆やがては死にますが、殺されて死ぬより他に、天寿を全うして死ぬほうが、理にかなっているように思われます。」
「ヴォルフ、お前はやはり戦いには向いていない。防護壁に専しておけ。」
 父親は、そのまま背中を向けて眠ってしまった。
 それから、ヴォルフはずっと考え続けた。世の中には悲しみ苦しみが溢れている。今のままでよいのか。誰も傷つかずに、誰も悲しまずに生きていける方法は本当にないのだろうか。・・・

 ヴォルフ十八歳の時、騎馬部隊が次の戦場へと移動していく途中で、小さな泉で水を補給しながら一休みすることになった。その時、旅人らしき人物が森の中を一人静かに歩いてくるのに出くわした。
 彼は何も持たず一人でただ歩いていただけだったので、兵たちは誰も彼に注意を向けなかったが、ヴォルフだけは違っていた。
(この人は戦ってはいない・・・。これといった荷物もないようだが、一体どうやって生きているのだろう?)

 旅人も、やはりその泉で喉の渇きを潤し、水筒に水を満たして、顔や手をすすいでから、そこに座って休んでいた。ヴォルフは兜をぬぎ片膝をついて、おずおずと声をかけた。
「失礼します。私は、騎兵部隊の者で、ヴォルフと言います。旅人よ、少しお尋ねしてよろしいでしょうか?」
 旅人は、ヴォルフを見た。
「青年よ、このような老身に何を尋ねることがあろう。だが、話をしたいならば、まず座りなさい。そのままでは話をするにも落ち着かなかろう。」
「はい。初対面の貴方と話をすることができるかどうかわからなかったので、座るのは遠慮したのですが、重ね重ね失礼いたしました。それでは座らせていただきます。」
 ヴォルフは胡座をかいて座った。カルタナ大陸の当時の文化では、他の人物のそばに座るということは、ただ休むというだけではなく、共に語り合ったり食事をしたりすることを意味する。それ故ヴォルフは、いきなり隣に座ることを遠慮したのである。
「貴方が私に遠慮してくれたのは分かっているが、それで良い。それで、何を話したいのかな?」
 老身たる旅人は言った。目の前に座った青年は、近づいて見るほどに、澄んだ良い目をしている。
「はい。・・・貴方は、武器も荷物も持たず一人で生きておられるご様子。一体どうやって暮らされているのかと、不思議に思って声をかけたのです。」
「青年よ、逆に問う。何故不思議に思うのかね?私は普通に生きて歩いてきただけなのだが。」
「私は物心ついた時には、すでに武器を持って戦う練習をして来ました。毎日のように怪我人や死人が出ても、一族は戦い続けます。それを悲しく思いながら、日々を過ごしているのです。
 しかし、他の生き方を私は知らない。それで、何も持たずに生きている貴方に生き方を伺いたくて参りました。」
 老人は答えた。
「私は、特に何も思わずに生きてきただけなのだが、貴方はそういう意味では賢いのかも知れぬ。戦いが当たり前の中にあって、それを悲しみと感じる心を持つとは。
 世の中には、畑を耕す者たちや、家畜を飼って乳を搾り、肉を捌いて食べ物として分け与える者、竹を編んで籠をこしらえる者、それを売る者、他人のために住まいを建てて報酬ヲを得る者、他の者が作った物を売り買いして差額で生活している者たちもいる。或いは、人々の長(おさ)となり、束ねる者たちもいる。貴方はまだお若い。そういった様々な生き方を注意深く見て学ばれるがよろしかろう。
 また、青年よ、時には何も持たず、何も為さず、何も考えずに、ただ座るだけの時を過ごしてみたまえ。きっと何かが変わるはずだ。」
 老人は、それだけ言うと、その場を立った。

三.最強の盾

 ヴォルフたちが仕えるナーデルのミヒャエル国王には、五人の子がいた。当時は戦争や病のために子供が亡くなってしまうことが多かったので、血筋を絶やさぬよう、支配者層ほど敢えて子を多くしていたのである。
 そのうちの一人、フレデリック王子は、兄のジョセフ、姉シャルロッテに次ぐ三番目の皇位継承者だった。
 ある時、王室一族の耳に、騎馬部隊に生まれながら戦いを悲しみ、防護壁造営に専念しているという若者の噂が届いた。
「世は永らく戦乱の中にあるというのに、戦いそのものを悲しむとは、なかなか興味深い奴がいるな。」
 国王が言った。誰しもが必ずしも戦いを好んでしている訳ではないが、他国からの攻撃がある以上、こちらも立ち向かわねばならぬ。せめて大陸内だけでも統一国家を目指さねば、覇権争いは止まらない。しかしながら、長く続く戦争で国民は傷つき、命や田畑や家畜を失い、不幸になっている。国土も荒れ果てている。何のための戦争なのか・・・。その思いは、王家のあいだでもよく話し合われるものだった。
 フレデリック王子は、ミヒャエル国王にこう申し出た。
「生まれながらにして戦いを運命づけられた者たちは、その多くが戦いを当たり前だと考えております。その中にあって、戦いそのものを悲しむという若者がいるのなら、私は是非とも会ってみとうございます。その者を呼び寄せてはいただけませんか。」
「そうだな。その者がどのような人物か、余も興味がある。」
 こうして、騎馬部隊のヴォルフは王室に呼び出された。

 ヴォルフの両親は、王家の呼び出しに驚き、息子の身を案じた。
「戦を悲しんでいる者と知られて、まさか祖国への忠誠心を疑われたのではあるまいな・・・。」
「行かせない訳にはいかないし・・・。でも、もしお手討ちにでもなったら・・・。」
 しかし、ヴォルフは冷静だった。
「おそらくは大丈夫かと思います。もし、何らかのお疑いが生じたり、お怒りをかっていたりしているのであれば、直ぐさま兵が来て私を捕えて引き立てるはず。しかし、もしもの時は先立つ不孝をお許し下さい。」

 ヴォルフは謁見室に赴いた。腰に差している剣の上に己が兜を抱えた左腕を置き、抜けぬように押さえる。これは王室に対する礼儀の一つだ。そうして待っていると、国王とフレデリック王子が入って来たので、彼は深く頭を垂れた。
「騎馬部隊・隊長ジークヴァルト・ペフラインの子ヴォルフ、お召しにより参上仕りました。」
「うむ。面をあげよ。余が国王ミヒャエルである。」
「は。」
 ヴォルフは顔を上げた。目の前には、二人の人物が静かな表情を浮かべている。
 もう一人が言葉をかけた。
「私は第二王子フレデリックだ。そなたを呼び出したのは、実は私だ。戦いを運命づけられた者たちの中で、それを悲しむ者がいると聞いて、会ってみたくなってな。」
 王子は、ヴォルフを見つめながら問うた。
「そなた、戦いの悲しみを如何にして解く?」
 騎馬兵は答えた。
「戦いを止めることかと存じます。」
「では、如何にすれば、戦いを止めることができる?」
「こちらから攻め込むことを止めます。」
「それでも他国は攻めてくるが、それをどうする?」
「こちらからは領土を出ず、入って来た他国の軍勢を追い返すことのみを繰り返します。もしも、不運にも他国の兵が死んだら、その遺体を丁重に返します。
 さすれば、他国の者も我々と同じことをするようになるでしょう。それによって戦いは起きなくなります。」
「だが、それでも他国が攻めてきたら何とする?」
「同じです。我が国はひたすらに守り通し、こちらからは領土を出ず、他国を侵さない。そのうちに、相手国はきっと和睦を申し入れてきます。和睦まで何年かかるか、何十年かかるかは分かりません。しかし、戦いを終わらせるには、その方法しかないかと。
 いくら力でねじ伏せたところで、相手国の心から戦う意思を取り除くことのほうが、比べものにならぬほど強固な盾となりましょう。」
 それが、彼が十五の時から三年間、考えに考え抜いた末の結論だった。
 勿論これには国王の許可や国全体の同意が必要であり、一介の騎馬兵一人の手には負えぬ規模の話である。それを話すことすら危ぶまれるが、今まさにその国王の前にあって話す機会に恵まれたのだ。たとえそれで命を落とそうとも、話さずにはいられなかった。

「なるほど・・・そなたはそういう結論に至ったか。」
 ミヒャエル国王は言った。この時ヴォルフは内心、己が死を覚悟した。だが、国王と王子の彼を見る目は優しく穏やかだった。
「それで、具体的には、これから如何にすれば防備を強くできる?」
 国王が言った。
「は?」
 ヴォルフは、てっきりその場で捉えられるかお手討ちになるものと決め込んでいたため、一瞬戸惑った。
「は?ではない。具体的な方策を尋ねておる。当然考えておるのであろう?」
 その声は、穏やかで真剣なもののように思えた。
「はい。各地に遠くまで見渡せる見張りを立てておき、隣国の軍勢が見えたら、その進路に油を撒き、火を放ちます。兵たちは、火が燃えさかるのを見れば引き返すでしょう。私は騎馬兵ですから、馬が臆病な獣で炎を恐れることを知っております。道を変えても、同じことをします。その繰り返しです。」
「水攻めの時は何とする?」
「前もって海へと続く堀を巡らせておくのがよろしいかと。幅は馬の脚が地に届かぬ程度にして、街道には跳ね上げ橋をかけます。また、その堀の水は、田畑を潤すものともなりましょう。
 そうして、各国との和睦が成し遂げられた時、人々は平和を享受し、国王陛下および祖国ナーデルを称えることと思われます。
 ・・・申し訳ございません。甚だ身分不釣り合いで差し出がましいことを申しました。」
 ヴォルフは、そこで話を止めた。
「良い良い。なかなか参考になる。・・・時に、そなた、余の傍近くに仕える気はないか?」
 ヴォルフは驚いた。国王が懐深き王だとは聞いていたが、たかだか一兵卒に意見を求め、なおも傍らに置こうとするとは。やはり国王の国王たる器であろうか。

「私は国王陛下の臣下にございます。何なりとお申し付け下さい。
 しかしながら、私は剣の腕は甚だ不確かな者。それでもよろしいのでしょうか?」
「余は、警護兵を求めているのではない。余と平和への願いを共有し、その大いなる理想のために進言してくれる参謀を求めているのである。
 ヴォルフ・ペフライン、只今よりそなたを特命参与に任ずる。より一層の忠誠を尽くすよう。」
「はっ!身に余る光栄!祖国ナーデルと国王陛下の御為、全力を尽くすことをお約束致します!」
 ヴォルフは深く頭を垂れた。この国王は、まさに命かけて仕えるに値する名君に違いない、と確信しながら。

四.特命参与

 ヴォルフは、傍に控えていた侍従に連れられて、衣装部屋に入った。
そこで、身につけていた鎧兜と軍刀を返納し、代わりに上質な官僚の衣服と繊細な象眼細工が施された模造ナイフとを渡された。文官が宮廷内で身につける自衛の武器は、謀反を疑われぬように、わざと丸く形づくられた銅製の模造ナイフのみと決められていたのだ。
 侍従も、先ほどまでは騎兵でしかなかった者に対して、また特命参与という聞き慣れぬ役職に対して、どのような接し方をすればよいのか戸惑っている様子だったが、親切には扱ってくれた。
「私は侍従のヨハン・グラッツェルと申します。ヴォルフ様の身の回りのお世話をするよう、国王陛下より仰せつかっております。ご用の向きがございましたら、お申し付け下さい。
 お着替えが済みましたら、王族の方々のお部屋のすぐ下の階へとご案内致します。そのお部屋をお使い下さい。急なことで、まだ何もございませんが、必要なものは取り揃えます。」
「どうもありがとうございます。まさかこのようなことになるとは思ってもいませんでした。」
 ヴォルフは、感謝の意を込めて素直に頭を下げた。この行為によって、侍従も幾分か安心したらしい。和やかな笑みを浮かべた。
「夕刻には、国王陛下や王族の方々、高級官僚の方々とのご会食がございます。私がお迎えに参りますので、それまでお寛ぎ下さいますように。只今お茶をお持ちいたします。」
 侍従はそう言って下がっていった。

 高級官僚用の少し豪華な部屋に、一人ぽつんと取り残されたヴォルフは、行きかがり上このようなことになった自分を不思議に思った。たしかに思いの丈を国王に話しきったのは幸いだが、よもや参与を仰せつかるとは。だが、任じられたからには、決してその期待を裏切るような結果にはすまい・・・。

 彼が去った直後の謁見室では、国王が同席の者たちと話を続けていた。
「父上、あの者をいきなり重用してよろしいのですか?たしかにあの者の一族は代々仕えている家柄ではありますが、ここにいる皆すべてがあの者とは初対面のはず。」
 第一王子ジョセフが言った。別にヴォルフに不審があったわけではないが、一兵卒をいきなり参与にするというのは異例中の異例だ。
「あの者、おそらく何年もかけて平和をどのようにして実現させるかを考え続けていたに違いない。そうでなければ、あのような策をすらすら話せる筈がない。
 最初、フレデリックとのやり取りを聞くだけにしていたのだが、果たして具体策まで考えているのだろうかと試しに尋ねてみたところ、見事に有効と思われる策を次々と提案してくるではないか。余は、あの者をかなりな策士と見受けたのだ。
 それ相応の力を与えて、やらせてやって大陸内が丸く収まれば、それでよし。何も成果が得られなければ、また一兵卒に戻せば良い。その場合は、あの者は命を助けて貰った恩義に報いようと、これまで以上の忠誠心を持った兵となろう。また他の者たちも彼のようになりたいと励むようになる。いずれにしても我が国は忠誠心溢れる臣下を数多く増やせるのだ。」
「人こそ宝、と申しますからね。」
 フレデリックが言った。彼もまたヴォルフの中にかなり深い信念のあるのを感じ取っていた。あの者はきっとやってくれる。

 王族と、城に家族を呼び寄せて暮らすことを許された高級官僚が揃った中で、ヴォルフは国王直々に特命参与として紹介された。
「今後は、ヴォルフが退官するまで、余に次ぐ権限を与える。皆の者、可能な限り力を貸してやれ。特にフレデリック、お前が主となって口利きなどしていろいろと助けてやるがよい。
 ヴォルフよ、そなたは各国との和睦を計り、平和を目指すのだ。やりたい政策があれば、まず余に話してみよ。余が良し悪しを判断した後にそなたの政策は実行される。皆の者、それで良いな。」
 会食のあいだ、各人は彼を確かめるためにいろいろ話しかけてきた。その都度、彼は自らの平和への思いと、初陣からずっと考え続けてきた方策などを話し尽くした。そうして、すべての質疑応答が終わった時には、人々はヴォルフが特命参与となるべき人物だと理解していた。

「君の家族には、事の顛末を説明しておいた。他に、とりあえず何か希望はあるかな?」
 会食の後、フレデリック王子はヴォルフを自室に誘って尋ねた。王子は彼にワインを勧めたが、彼は下戸を理由に断った。
「フレデリック様、お心遣い誠にありがとうございます。家族にも知らせたいと思っておりましたが、急なことで、知らせられないことを案じておりました。」
 ヴォルフは、胸をなで下ろした。
「それでは早速ですが、この国の地図、隣国の地図、筆記用具、各国の歴史書、堀の作り方の書物などを希望致します。そして、国王陛下におかれましては、三日間のご猶予をいただきたいとお伝え願わしゅう存じます。」
「分かった。しかし、それだけの資料を読み砕くのに、わずか三日で良いのか?」
「とりあえずのご猶予でございます。先ずは一刻も早く、隣国との国境沿いに堀を造り始めなくてはなりませぬ。そうして平和への歩みを着実に進めつつ、私も様々な知識を学びます。必要な視察も行いとう存じます。」
「なるほどな。君の希望は父に伝えておく。
 しかし、先ほどからずっと気になっていたのだが、君は一度も『敵国』とは言わず、専ら『隣国』という言葉を用いているな。それは意図しているものか?」
「はい。ご推察の通りでございます。今は『敵国』かも知れませぬが、和睦した後は『隣国』となります。私は、和睦した後のことを考えて、この言葉を用いているのです。
 事実は、常日頃から使っている言葉の通りに動くものであるからです。」

 フレデリック王子は唸った。事実は言葉の通りに動く・・・か。
 確かに王族も貴族も、戦の間は、言葉遣いも荒くなっている。言葉遣いが荒くなっている間は、不思議に不運なことが多いような気がする。人柄が言葉遣いに出てくるということもあるが、もしかしたらその逆、使っている言葉が事実を導く場合もあるのやも知れぬ。
 この青年、やはり相当な知恵者か・・・。

 三日間、ヴォルフは部屋に隠りっきりで書物と地図を眺め、時には何かを書き入れていった。騎兵部隊で巡った場所の他にも様々な戦略的要所が存在するようだ。

 そうして、四日目の朝、彼は政策要綱と地図を携えて国王に謁見を求めた。
「たいへんお待たせいたしました。これが、当面の計画でございます。」
「待ちかねたぞ。」
 国王はあちこちに線の引かれた地図を見つめた。
 ヴォルフの説明によれば・・・。

 先ずは国王自らの意思として、隣国との戦闘を極力避ける方針を国の津々浦々まで、漏れなく国民に宣言する。特に、軍勢に対しては決して国境を越えぬように固く命じる。
 また、国境から僅かに内側を、海岸の近くから幅五メートルに掘り進めて用水路となし、そこに竹林を作る。竹は成長が速く、根が丈夫で土手を補強する効果も期待できる。その葉はそこを駆け抜けようとする者を傷つけるにもかかわらず、それが防衛設備であるとは思われにくい。
 さらに、山上から矢を放たれそうな場所(ヴォルフは手袋をはめた指で指した)には、池を作り、蓮を植える。
 田畑はその内側、牧畜はさらにその内側、そして兵舎、一般国民の生活の場所、それらが城を取り囲む・・・。

「うむ。だいたいは頷ける。早速その通りにしよう。
 しかし、そなたは何故手袋をしておる?」
「はい。私が指し示した場所を、おそらく国王陛下もお触れになりましょう。その時に、私めの指の跡を陛下がお触れにならぬようにと存じまして。その政策要綱も地図も、私は素手では触れておりません。」
「ほほう、そこまで気を遣ってくれるか。」
「勿論でございます。」
 国王は、その日のうちにヴォルフの提言を実行に移し、特に時を要する用水路の建設には直ぐさま着手するように手配した。他国からの攻撃はいつ何時から始まるか分からないからだ。

五.国王の親書

 ナーデルのミヒャエル国王は、国内に隣国への侵攻は一切放棄し、防衛にのみ専念せよと通達を出した。
 また、今年十二歳になる末子のパスカル王子に親書を持たせて、ラオプ・オープスト両国に向かわせた。パスカルは、王国内では少年ながら賢明なことで知られている。
 少年は、一人で剣も持たず丸腰でラオプのウィンバル城の前まで来ると、門番に告げた。
「私は、ナーデルの王子でパスカルと申します。我が父・ミヒャエルの親書を持って参りました。どうかエーベルハルト国王陛下にお取り次ぎ下さい。」
 ラオプ国王エーベルハルトは、ナーデルの王子の訪問に驚いたが、それがまだ少年で一人であると聞くと、最上位の茶と菓子を出して丁重にもてなすように命じて、少年と面会した。彼は、父王からの親書を傍にいた侍従と思しき人物に渡し、侍従は、それを国王へ差し出す。親書には、こう書かかれていた。

 ラオプ国王エーベルハルト陛下

 貴国と我が国とは、永きにわたって互いに大陸における覇権と領土を争ってきたが、戦争というものは、国力の低下や国土の荒廃しか齎さぬ。我がナーデル王家の者たちは内心では争いごとを止め、専ら国民の生活を豊かにすることを希求して参った。
 そこで、今後は貴国が如何にされようとも、ナーデルの軍勢は決して貴国の領土内には足を踏み入れぬことをお約束する。只今、国境沿いに用水路を兼ねた堀を建設しているが、それもあくまでも防衛のため、またそれを越えぬようにするための目印である。どうかご理解下され。
 思えば、貴殿とも即位以来ずっとお目にかかってはおらなんだ。いつの日か0、我が国の平和への切望をお分かり頂ける日が来よう。その折には、是非とも貴殿を我が友と呼ばせていただければと願う。
 なお、同様の親書をオープスト国王にもお送りすることにしておる。どうか我が思いをお酌み取りいただきたい。

ナーデル国王ミヒャエル

「平和への切望、とな・・・。」
 エーベルハルトは目を疑った。ナーデルやオープストとの覇権争いは、もう何代にもわたって繰り返されてきた。一体何が彼にこのような決断をさせたのだろうか・・・。
 彼は、使者の少年に尋ねた。
「君は、我が国にどのような気持ちで入って来たのかな?君たちにとって、我が国は敵国。私の前にいて、怖くはないのか?」
「私は、ただ国のため民のために参上しております。現在、我が国では貴国のことを『隣国』と呼んでおります。隣国を訪れるのに、何を恐れることがありましょうや、」
 パスカルは、毅然とした態度で言った。国王は、この少年が甚だ聡明で、まさに王家の者に違いないと確信した。
「そうか・・・。親書は、確かにお受け取り申した。お返事は、後日必ず書かせていただくと、お父上にお伝え下され。・・・時に、パスカル王子、貴国には最近何が変化がおありなのか?これまで相争ってきた相手国にこのような親書を送ってくるからには、何かのきっかけがあって然るべきかと思うのだが。」
 パスカルは答えた。
「実は、父は最近、平和への実現策を熱く説く者を特命参与としました。我が王家は、かねてより強く平和を望み続けております。故に、真に平和を実現させる者を参与としたものと思います。」
(王子はまだ少年であり、護衛の者もなく、武器も持ってはいない。・・・いざとなれば人質にしてもよい、とのご意志か。
 しかし、ここで王子を人質にしては、後の世にラオプ国王は卑怯者よと蔑まれるやも知れぬ。今日のところはこのまま帰してやろう。)
 エーベルハルト国王は、王子に礼儀正しく接し、その日のうちに少年を帰した。後日調べさせると、確かにナーデル国王にはパスカルという名の王子がおり、容姿も使いに来た者と酷似しているとのことだった。エーベルハルトは、ナーデル国王への親書をしたためた。

 ナーデル国王ミヒャエル陛下

 御親書は確かに拝見いたした。
 貴殿の平和への思い、私も信じていたいと存ずる。しかし、失礼ながら、臣下を納得させるに足る暫しのご猶予をいただきたい。
 貴殿同様、私もオープストに平和を目指す旨の親書を認める所存。
 ついては先ず、双方の国境にある『百合咲く丘』にて互いに文官を一人ずつ連れて面会しようではないか。日時は、八月一日の午前十時。
 お待ちいたしておりますぞ。

ラオプ国王エーベルハルト

 親書をナーデルに届けたのは、二十歳くらいの一人の女性だった。
 ミヒャエルは、パスカルがラオプで受けたのと同じように丁重にもてなした。彼女は、自らを王女クラリスと名乗った。
「父からは、くれぐれもよろしくとのことでございました。」
 と、彼女は言った。美しい唇からは王族に相応しい気品と聡明さに満ちた言葉しか出てこない。
「姫君御自らのお出まし、誠に有難く存ずる。この城にても、何処にも危険はございません。すぐにご帰国されるとは存ずるが、どうかお心安らかにお過ごし下され。
 お父上とのご面談については、委細承知したとお伝え願いたい。」
「父からは、細やかながらパスカル王子に先日のご訪問のお礼に、その時と同じ菓子を預かってきております。どうぞお納めを。」
 ミヒャエルはその菓子をパスカルの部屋に届けさせたが、王子はその菓子を見て言った。
「これは、先日いただいた菓子ではありません。全く異なる物です。」

 ミヒャエルはクラリスに言った。
「先ほどいただいた菓子だが、愚息は先日とは異なると申しておるそうです。何かお間違いがございましたか?」
 クラリスは、ミヒャエルを見つめながら言った。
「ミヒャエル国王陛下、ご無礼の段、何卒お許し下さい。父は少し疑り深いもので、先日ご訪問下さった方が王子様ご本人だったかどうかを確かめたかったようでございます。ですが、これにて疑いは晴れました。」
 ミヒャエルは微笑んだ。
「いや。お疑いはごもっともです。しかし、先日貴国に使わしたのは確かに我が息子でございます。」

「この度の親書は、新しく特命参与様を任命されたことが契機になったと伺いました。それは、どのような方なのでしょうか?」
 ミヒャエルは答えた。
「その者は、ヴォルフ・ペフラインと言いまして、元々は我が国に代々仕え、騎馬部隊を率いてきた一族の者です。
 戦い続けねばならぬ運命に生まれながら、戦いを悲しみ、幾年にもわたって平和への思いを実現させるための方法を考え続けてきたと聞いて、特命参与として召しかかえました。
 現在は、私の傍近くで、そのための政策を立ててくれております。」
「堀もそのひとつなのですね。」
「そうです。しかし、堀とは言っても、むしろ用水路としての役割のほうがはるかに大きいものとなりましょう。その者は既に、戦が収められた後のことを考えているのです。」
「そうでしたか。国王陛下、できましたらその特命参与様に会わせてはいただけないでしょうか?私も会ってみたくなりました。」

 早速ヴォルフが呼び出され、彼は文官の服装でミヒャエル国王の傍らに控えた。国王と並んでクラリス王女と対面する形だ。
「私はラオプの王女クラリスです。特命参与様、貴方は戦いを悲しみと捉えられる方とか。何故そのような見方をされるようになったのですか?」
 ヴォルフは答えた。
「私は騎馬部隊の一族に生まれ、幼い頃から武術を習い、十五歳の時から戦場に出ました。
 しかし、その中で相手国の兵や私と同じ部隊の者たちが血を流し倒れていくのを間近にして、何故せっかくこの世に生まれてきている人々が傷つき、同じ『人』という存在によって命を断たれ、他者が作った『国』という実体のないもののために死ななければならないのかと切実に思うようになったのです。」
 彼の目は悲しみと憂いとを思慮深く湛えていた。
「そうですか。『国』には、実体がありませんか。」
「はい。私には、そのように見えます。しかし、人々が暮らす場所、安心して生きていける環境というものは必要であり、それこそを『国』と呼ぶのではないでしょうか。『国』は人々を幸せにするための手段に過ぎません。
 どんなに大きく立派であっても、住む人がいなくなった家は、程なくして廃墟となり崩れ去り、あとには野原だけが残るのです。」
 クラリス王女は、居城へ帰る道すがらずっと考えた。『国』とは、一体何であろうか、と。
 広い麦畑が静かに夕焼けに赤く染まっていた。そしてふと、あの特命参与の憂いに沈んだ顔が浮かぶのだった。

六.女王と花束

 オープストのナターリア女王は、ナーデル国王からの親書を幾度も読み返していた。彼女は、両親を流行病で亡くして即位したばかりのまだ二十歳そこそこの女王である。
 この親書に書かれている通りなら、長く続いている戦争も終わり、国土が兵によって踏み荒らされることも焼き払われることもなく、作物も滞りなく収穫されよう。それは我が国の国力向上にも繋がる。膨大な軍事費も必要がなくなる。良いこと尽くめなのは間違いない。
 それに、親書を届けてきた少年は、どうやら間違いなくナーデルの王子本人らしい。国王の覚悟が見て取れようというものだ・・・。
「恐れながら、女王陛下、その内容が事実かどうかは、まだ疑わしゅうございます。」
 女王の片腕であるゼバスチャン・ユング内務大臣が言った。
「ナーデルは、国境沿いに堀を巡らし始めております。堀は戦いのためにあるものかと。」
 つい昨日、ナーデル国王とラオプ国王が直接対面するらしいとの情報が入ってきた。もし、この二つの国が和睦して、オープストに攻め込んでくるようなことにでもなったら、この小国はひとたまりもない。
「それでは、試してみよう。いつもより兵を減らし、怪我人が出ない程度にナーデル領内に攻め込む。相手が我が国に入り込まねば、この親書を信じよう。そうでなければ、この親書には返事を出さぬ。それで良いか?」
「御意。」

 翌週、支度を調えたオープスト軍はナーデル領内に攻め込んだ。
 しかし、その動きは、かねてから高台に配置されていた見張りによって、いち早くローベルク城に伝えられていた。既にその数時間前には、ジョセフ王子とヴォルフの兄・ディートリッヒが兵を率いて国境近くで待ち構えていたのである。
「良いか!我らは相手国の兵をただ領内から追い返すのみ!出来うる限り傷を負わせることも避けよ!隣国の領土に一歩たりとも立ち入ることは許さん!立ち入った者は即刻切り捨てるから、その覚悟で臨め!」
 王子は全軍に檄を飛ばした。ディートリッヒも馬上で剣を固く握りしめる。
(ヴォルフの奴、こんな面倒な戦い方を考えおって!・・・しかし、何故か心が軽い・・・。)
 実を言えば、ヴォルフが堀の建設を海に近い場所から始めたのは、このオープストの動きをある程度見越していたからであった。オープストは三国の中で最も小さい国だ。常に他の二国の動きを恐れている。試みか、本気か、いずれにしろ、近日中に攻め込んでくるであろうと読んだのである。

 オープスト軍のマーフィ大将は、国境に相手国の軍勢が既に陣形を整えて待ち構えているのを見て驚いた。
 不意打ちのはずが、これでは話にならぬ。だが、女王陛下からは今回は相手国の意思を試してくれさえすればそれで良いと言われている。試してやるか!
「かかれ-!」
 彼は号令をかけた。

 戦いは、王子に直接率いられたナーデルの軍勢のほうが圧倒的優位に立った。オープスト軍の兵は、隣国の領土に足を踏み入れることさえ出来ず、運良く踏み込めた者も、軽く手傷をつけられて撤退した。しかしながら、それでいて相手国の兵は国境を越えては来ない。こちらの兵を追い返すと、何事もないのに引き返していくのである。
 と、一人の兵が矢に射貫かれて死んだとの連絡が入った。相手国領内に入った兵の一人が倒れたらしい。
 慌てて駆けつけると、そこには相手国の兵も幾人か集まっていた。中でもかなり高い身分と思しき人物が、その矢を抜き、兵の胸の上に野原で摘んできたばかりらしい白い花を置いていた。彼はマーフィに向かって言った。
「誠に申し訳ない。できるだけ死なせるなと命じておいたのだが・・・。私はナーデルの王子ジョセフ。せめてもの詫びに、この花を手向けさせてもらいたい・・・。」
 彼は兵の亡骸とマーフィたちに向かって頭を下げた。
 一国の王子が、ただ一人の兵のために対戦国の兵たちに詫びるなど、それまではおよそ考えられぬことである。マーフィたちはその姿に心打たれた。
「・・・どうぞお顔をお上げ下さい、王子。貴方のお優しいお気持ちは、我らにもよく伝わります。帰ったら、そのお心を我が主君にも必ずお伝えいたしましょう。」
 オープスト軍は、そのまま退却していった。

 ナターリア女王は、マーフィたちから報告を受けて、ナーデルの親書の内容が本当らしいと判断した。
「私も、ナーデルの国王にお会いしてみよう。まず相手を知らなければ。」
 ナターリアは、ナーデルに親書を送った。国王に直接会いたいと伝え、国境近くのオープスト領ヘルフリヒ市内にあるイッテンバッハ伯爵家の中庭を指定した。双方とも供は一名ずつ、日時は六月十八日の午前十一時、との条件で。
 ナターリアは、ナーデルとラオプ両国が接触する前に、ナーデル国王に会わねばならぬと考えたのである。

 かくして、オープスト領内にあるイッテンバッハ家の中庭テラスで、ナーデルのミヒャエル国王とナターリア女王との面談が行われた。伯爵家の中庭だけあって、そこはよく手入れがなされ、人の腰ほどの高さに切り揃えられた様々な色の薔薇が溢れんばかりに咲き誇っている。ナターリアにはゼバスチャン国務大臣が、ナーデル国王にはジョセフ王子が付き添った。
「お招きにより参上した。私がナーデル国王ミヒャエルです。これは、我が子ジョセフ。」
「お初にお目にかかります。当地の国王、ナターリアと申します。この度は、わざわざのお運び、誠に恐縮に存じます。それに控えておりますのは内務大臣のゼバスチャンでございます。」
 両国の国王同士の話し合いは、終始和やかな雰囲気で続いた。ナターリアは、相手国領内に息子とだけ来た隣国の国王の堂々たる振る舞いに感動さえ覚えていた。それに、傍らで静かに話に聞き入る若き王子も、好ましい人物のように思える。ゼバスチャンもまた主君と同じ印象を持った。
「時にミヒャエル国王陛下、誠に失礼ながら、この度のご親書の内容は本当なのでしょうか?最近はわが国との国境近くに堀を作られているとも聞いており、ご親書の内容をにわかには信じられないという臣下もおります。本日ここに来て下さったことは有難く存じますが、その他にも我が臣下を納得させられるだけの証が欲しゅうございます。」
 若き女王は、国を守るために必死だった。ゼバスチャンは、主君の国を思う心を改めて知り、それをいじらしく思った。
(あの幼かった姫様が、今は祖国を守るために堂々たる隣国の国王と対等に話し合っておられる。我がご主君ながら、なんとご立派に成長あそばされたことか・・・。)

 ミヒャエルの彼女を見る眼差しもまた優しく静かだった。
「ご懸念はごもっともです。それでは私が何故この時期に堀を巡らせ、また親書をお送りしたか、その理由をお話ししましょう。
 かねてより、我が国は戦による国領内の諸々の禍を無くすことを祈念して参った。しかし、なかなかその機会に恵まれなんだ。
 そこへ、騎馬部隊の家系に生まれながらも戦いを悲しみ憂う若者があると聞き及びました。私はその者の平和への思いに賛同し、特命参与に取り立てました。今回のことも、その者の発案により、私自身の意思として実施したもの。
 まず堀ですが、あれは我が軍勢が国境を越えぬようにする目印であると同時に、農業用の用水路になる予定で造らせているものです。程なくしてその一部に池ができ、そこに美しき蓮の花が咲くのをご覧になることでしょう。
 そして、親書はその内容の通り、我が軍勢が国境を越えぬということを隣国に宣言するもので、他意はありません。それを書いたのも、やはり特命参与を採用したことがきっかけです。その者はすでに貴国との和睦がなされた後のことを夢見ておるのです。何卒我が心をお汲み取りいただきたい。」
 やがて、話し合いが終わろうとすると見たジョセフは、挿していた剣を鞘ごと抜いて脇の荷物台に置き、代わりに同じ台に置いていた花束を取って、ナターリアの前のテーブルの上にゆっくりと差し出した。
「これは、先日の戦いの折、我が方の手落ちにて命を落とされた方のために持って参りました。そのご家族にお渡しいただければと存じます。」

 ミヒャエルとジョセフが去った後、ナターリアはゼバスチャンに花束を預けた。
「これは明らかに追悼のために作られた花束でございます。」
 ゼバスチャンは言った。花束は、白い菊を基調にして青い花があしらわれ、それに若葉を加えて丁寧に設えられていた。
「この花束こそが何よりの証・・・そう思いませんか、ゼバスチャン。白い菊と青い花はまさしく哀悼の意を表し、それらを引き立てている若葉は我が国の繁栄を願う御心の象徴。この場において我が国に贈られるものは、これ以外のものではいけなかったのです。」
 ナターリアには、その花束に込められた意味が十分に伝わっていた。周りから咽び泣く声が聞こえる。実は、周りには数人の武装兵が潜ませてあったのだ。

「ヴォルフ、喜べ。オープストから和睦を申し入れてきたぞ。」
 数日後、ミヒャエルが言った。
「それはよろしゅうございました。オープストの女王陛下に会いに行かれた甲斐がございましたね。」
「うむ。そなたが用意してくれたあの花束もだいぶ効いたらしい。礼を申すぞ。」
 ナターリアが武装兵を潜ませていたのと同じように、ミヒャエルもまた必ずしも不用意に他国に足を踏み入れた訳ではなかった。会談が行われた伯爵家は、ナーデルとも親交があり、武装兵が配置されていたことも、また会談後の様子も、密かに知らせてくれていたのだ。
「勿体のうございます。しかしながら、それは国王陛下とジョセフ様のご功績と存じます。」
「そなたは謙虚な男よのう。初い奴だ。来たるエーベルハルト国王陛下とも心が通じ合えれば良いが。」
「国王陛下なら、きっと成功なさいます。私めも信じております。」

七.進言

 七月、針葉樹林に覆われているナーデルは、緑の鮮やかさが増して、人々の心も浮き立つ。
 その中で一人、ジョセフだけが何故かずっとふさぎ込んでいた。母親のオリーヴィア妃に話しかけられても、生返事ばかりでまるでうわの空だ。
「ジョセフ、そなた何かあったのか?ここしばらく少しの笑みも見せていないではないか。父に話してみよ。」
 息子の異変を見かねたミヒャエルが、夕食後二人きりになったのを見計らって問い詰めた。
「実は オープストのユング内務大臣から、内々にお便りをいただきまして。ナターリア女王が近頃塞ぎ込んでおられるので、理由を尋ねたところ、私の顔が浮かんで消えぬと。思うに、これは貴方に恋をしてしまったのかもしれませんと書いてあったのです。
 私は、ナーデルを継ぐ者。他国の女王と恋をすることはできません。」
 ジョセフはそこで言葉を切って俯いた。
「・・・それで?」
 父王は息子の思いがけぬ報告に動揺しながらも、平静を装って再び問うた。
「ですから、これから何かの折には顔を合わせるであろう女王陛下にどう接していこうかと悩んでいるのです。」
 少しの静けさがあった。父は、息子に言った。
「そなたにも、ご婦人に対する時に男としてどう行動すべきかを常に言ってきた筈だがな・・・。とにかく女王陛下と直接お話ししてみろ。今のところは、内務大臣の推測に過ぎぬように聞こえるがな。
 そして、もし女王陛下のお気持ちがそなたに傾いていて、なおかつそなたも添い遂げようと思うようであれば、はっきりそう言え。中途半端が最も恥ずべき行為だ。ご婦人に対して失礼にあたる。特に相手は女王陛下なのだぞ。」
「しかし、父上!」
「それとも、そなた、ナターリア陛下では不足か?」
「め、滅相もありません!女王陛下は、お美しく、必死なご様子が放ってはおけないというか・・・。」
 ジョセフはなおも何か言おうとしたが、咄嗟には言葉が思い浮かばない。彼が言い淀んでいる間に、父王はナターリア女王への招待状を書き始めていた。

オープスト国王ナターリア陛下

 先日は、直接お目にかかることができ、たいへん有意義な時間を過ごすことができました。またこの度は、両国和睦の運びとなり、感涙を禁じ得ませぬ。
 ついては、両国間の平和条約を締結いたしたく、我が国領内の国境近くにあるベーレンドルフ伯爵家の中庭にて、女王陛下をお招きいたしたく存ずる。そしてもし可能であれば、そのまま三日ほどご滞在いただき、ゆるりと我が一族や国土のことをご覧くださると嬉しく思います。
 貴国はもはや我が国の友好国と考えます故、武装兵も幾人かお連れ下されても構いませぬ。ご都合の良い日時を教えてくだされ。

ナーデル国王ミヒャエル


 翌朝この話をミヒャエルから聞いたヴォルフは、想定外の話にしばらく考え込んで、やがてやおら椅子から立ち上がり、国王の前に跪いた。
「ヴォルフ、如何した?」
「これより、甚だしくご無礼なお話を致します。途中で陛下のお怒りをかう可能性も考えられますが、どうか話の最後までお聞き届けいただきとう存じます。」
 彼は二つの策を提示した。
 一つは、ジョセフ王子と女王とが結婚には至らなかった場合・・・これまでの和睦政策の通りに平和条約を締結して、交流を重ねながら、両国がそのまま存続していく。
 もう一つは、その二人が結婚したいと希望した場合・・・ラオプ国王の承認を得た上で、二人を結婚させ、二つの国を一つにする。その際は、王位継承者をナターリア女王に定め直して、国の名を変更、首都もオープストの王都フロイデに定める。・・・
「待て!何故王位継承者をナターリア女王に代えるのだ?それに、国名と首都も変えるだと?そなた、祖国を何と心得る!」
 さしものミヒャエルも、この提案には憤りを見せた。それではナーデル側にとって家名断絶に等しいではないか!国王は内心、あわよくばオープストを併合してしまおうと考えていたのである。
「お怒りはごもっともでございます。臣下の分際で、王位の如何について触れることがいかに無礼で身分不相応なことかは、よく分かっております。
 しかしながら、もしお二人がご結婚あそばされ、そのままジョセフ様が国王となられた時、オープストの国民はどう思うでしょうか。おそらく『ナーデルは女王を籠絡して我らから領土を奪い取った』『政略結婚だ』と感じるに違いありません。それでは国民の心に火種が生まれてしまいます。最悪の場合、内乱も起きるかもしれません。
 ここで、次の国王がオープストの女王陛下に定められれば、オープストの民は、ナーデルを自分たちと同じ君主を仰ぐのだと認めることになります。国名と首都を変えるのも、同様の理由です。
 先日、クラリス様にも申し上げたように、国とは人々が幸せに暮らすためにあるもので実体がない物でございます。人々の心が一つになって初めて国が成り立つのです。人の心を踏みにじるようなことがあれば、それはもはや国ではありません。
 そもそも第一に考えるべきは、ジョセフ様と女王陛下のお気持ちでございます。ご結婚は、あくまでもお二人のお気持から望まれたものでなければなりません。ジョセフ様がもし本当に女王陛下をお思いになるのでしたら、王位が女王陛下に移ることなど、何とも思われぬ筈にございます。
 また、お二人のあいだに生まれるお子様は、ナーデルとオープスト双方のご血統を引き継ぎます。ナーデル王家の血は、新しき国の中に存続していくのです。
 また、ラオプ国王のご承認も取らねばなりません。その際、決してナーデルがオープストを併合したと思われてはならないのでございます。
 国王陛下におかれましては、何卒ご再考のほどを・・・。
 私は今日、甚だしくご無礼なことを幾つも陛下に申し上げてしまいました。これよりしばらくのあいだ、自室にて謹慎致します。」
 ヴォルフは、そのまま下がった。

 その日から半月間、ヴォルフは要人が顔を揃える週二回の晩餐の席に姿を見せなかった。彼は一般兵と同じ食事を部屋に運ばせて、部屋に隠っていたのだ。
「最近、ヴォルフは顔を見せませんね。風邪でも引いたのでしょうか。」
 王族のみの時にアンネリーゼが尋ねた。ヴォルフが元来持っている聡明さと穏やかな話しぶりに加え、オープストと和睦が首尾良く進んでいることで、今では、王家の誰もが彼を信頼し、気にかけるようになっていた。
 ミヒャエルがヴォルフが謹慎した経緯を話すと、皆は一様に驚いてジョセフを見た。ジョセフは、ヴォルフが自分の意志を尊重してくれたのだと理解した。
「とにかく、今一度女王陛下にお会いしてみましょう。ヴォルフは、私が結婚してもしなくても、どちらでも良いように二通りの案を立ててくれたのです。まだ恋愛というものを経験してはおりませんが、確かにヴォルフの申す通りです。私も本当に恋をするのなら、王冠を捨てても悔いのない、そんな恋をしとうございます。」
 彼は言った。フレデリックは、冷静沈着な兄の口からそのような情熱的な言葉が飛び出したことは意外だったが、男たる者そうでなければならぬとも思うのだった。
「ただ、再会の折には母上やシャルロッテ、フレデリックにもいてもらったほうが良いかもしれません。」
「何故だ?」
「ナターリア女王陛下におかれましては、ご家族をすべて病で失ったばかりと聞いております。ご婦人方はご婦人方同士、親しくなっていたほうがよろしいでしょうし、私とフレデリックが同時にいれば、女王陛下にも二人を見比べる機会ができます。それによって、お気持ちをはっきりさせることがより容易になるかと。私もまた同じです。恋愛の相手として見るのと、そうでないのとは雲泥の差。それを見極めたいのです。ヴォルフは、私を尊重して、実によく考慮してくれたと思います。」
 ミヒャエルは、息子の言葉を聞いて、一時でもヴォルフに対して声を荒げてしまったことを悔いた。
 そうか、余は、ジョセフと女王の幸せに思い至るより先に、二つの国が一つになれれば、などと思ってしまったのだ。二国の併合を考え出してからの余は、いつの間にかジョセフの父親、平和を希求する国王ではなく、人をチェスの駒の如く扱う欲深き征服者に成り下がっておった・・・。

 翌朝、ミヒャエルはヴォルフが隠っている階下の部屋を訪ねた。ヴォルフは、国王が自ら臣下の部屋まで出向いてきたことに戸惑ったようである。
「国王陛下!わざわざお越しくださらずとも、呼びつけて下されば参りますのに。」
「いや、先日はつい怒鳴りつけてしまった故、謝ろうと思うてな。余は、ジョセフの心のあるのを忘れて、あらぬ考えをしていた。そなたは、そのことを言いたかったのではないか。申し訳なかった。引き続き、特命参与の務めを果たしてくれ。頼む!」
 ミヒャエルは、ヴォルフに頭を下げた。
「こ、国王陛下!おやめください!このようなところを他の者が見たら動揺いたします。臣下の部屋ではございますが、どうか早く中へ!」
 ヴォルフがそう言って国王を中に案内しようとした時、他にも三つの人影が扉の内側に飛び込んできた。ジョセフとフレデリック、それにシャルロッテだった。
「そなた達・・・!」
 驚く父と参与とに向かって、ジョセフが口を開いた。
「父上、この度のことは、もとはと言えば私の問題ではありませんか。私も話に加えていただかねば。」
 フレデリックは、こう言った。
「ヴォルフは、もともと私が呼び出した者。彼については、私こそが責任を負うのです。」
 シャルロッテも黙ってはいない。
「何事も殿方のみで決まるものではありません。女にとって、恋愛は運命を変え、結婚は時には生死を分けるほどのもの。殿方には、やはりお分かりにはなりますまい。
 実は、私からも提案がございます。今度は私がナターリア女王陛下の元に行って、しばらく女王陛下の人となりを見てくるのです。今のところ、オープストの内部がどのような雰囲気なのか、全く分からないではありませんか。私ならば、オープストの方々も心を開いてくれるかもしれません。ナターリア女王陛下とも、親しくなれるかもしれないのです。また、女王陛下が、ナーデルの地を治めるに足る方かどうか、私が見極めて参ります。」
 この案には、ミヒャエルもヴォルフも驚愕した。
「シャルロッテ!そなた・・・!」
「シャルロッテ様・・・。」
 彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべてヴォルフに言った。
「大切なのは人の心。心こそが最強の盾・・・ずっとそう言ってきたのは、他ならぬそなたですよ、ヴォルフ。」

八.ナターリア

 ナターリアは、ミヒャエルからの二度目の親書を読んで吐息を漏らした。
「ご招待は嬉しいけれど、ジョセフ様とも顔を合わせなければなりませんね・・・。」
 彼女は、ゼバスチャンが密かにジョセフ王子に手紙を送ったことを知らない。今、傍らには、ヨハン・フォーゲル外務大臣がついている。
「誠に失礼ながら、女王陛下におかれましては、ナーデルの王子様をお気にかけられているのでしょうか?」
 女王は悩んでいた。あのもの静かで聡明そうな王子・・・彼女の心は、彼のことでいっぱいだった。公務に打ち込んでいる時は良い。だがそれ以外のプライベートな時間・・・食事や散策の時間などには、決まって彼の顔が浮かんでくる。ことに、就寝前が怖かった。
「ジョセフ様・・・貴方に会いたい・・・。でも、貴方にどんなふうに接したらいいのですか・・・?」

 平和条約締結の日がやって来た。ナターリア率いるオープストの平和訪問団は、国境を越えてナーデル領内に入った。国境を越えた所ではジョセフとフレデリックが数人の文官を従えて迎えに来ていた。ジョセフが弟を紹介した。
「女王陛下、誠に僭越ながらお迎えに参りました。これは弟のフレデリックです。」
「お初にお目にかかります。フレデリックと申します。」
 ナターリアは思った。(この間お使いにみえたパスカル王子の他にも、年の近い弟君がいらしたのね。確かに似ておられる。でも、ジョセフ様のほうにより強い親しみを感じる。この気持ちは、やはり・・・。)
 彼女に随行している外務大臣のヨハンは、これまた内密にゼバスチャン内務大臣から、女王がどうやらジョセフ王子に心を寄せ始めているらしい、と聞いていた。
(女王陛下の眼差しは、通常ではない・・・。女王陛下がジョセフ王子を親しく思っておられるというのは、まんざらゼバスチャン殿の思い違いでもなさそうだ。だが、それでは我が国はどうなるのだ?お二人がご結婚あそばれて併合か?まさか、な・・・。)
 その道すがら、蓮の花を一面に湛えた池と、畑や牧草地に水を送っている用水路とが見えた。
「この蓮の花のなんと清楚なこと。平和そのものですな。それに、これは良くできた用水路でございますね。」
 ヨハンの言葉に、フレデリックが応える。
「我が国では、蓮は花を愛でる他にも、その種を菓子などに入れ、その根も煮て食用に致します。」
「ほう。食用でございますか。」

 二人の王子の案内で、ナターリアたちがベーデンドルフ伯爵家の中に入っていくと、玄関広間にミヒャエルとオリーヴィアをはじめ数人の姿があった。
「お待ちしておりました。これらは我が一族の者たちです。ジョセフとフレデリック、パスカルは改めてご紹介するまでもありませんな。」
 ナターリアはジョセフを熱く見つめ、ジョセフのほうも、彼女を前とは異なる目で見ていた。もしこの人が他国の女王ではなく、自国民であったなら、本当にどんな存在に思えるのだろう・・・。
「そして、我が妃オリーヴィア、我が子シャルロッテ、アンネリーゼ。これで王家は全員です。あとは、外務大臣ハンス・ターメルハイト。」
 ナターリアは、女性たちとハグし、儀礼的な挨拶を交わした。実は少し離れた場所からヴォルフもその様子を見ていたのだが、王族と大臣たちに遠慮して遠くから見届けるに留めていたのである。
 訪問団の一行は、まず滞在する部屋に案内されて、一時間ほど休んだ。最上の茶と菓子が出て、案内してきたジョセフが言った。
「これが、先ほど話題に出た蓮の実を使った菓子です。美味しいですよ。それでは、私がお毒味を。」
 彼は、大皿に盛られた菓子の一つを無造作に取り、口に放り込んで、そのまま部屋を出て行った。
「気さくな方ね。」
 ナターリアは、ますます好感を持った。あの方は、あれが自然体に違いない、と。

 伯爵家の中庭は、一面が緑の芝生に覆われており、およそ五十メートル四方には人っ子一人も隠れるところがなかった。そこに、屋根だけのテントが組まれ、白いレースのテーブルクロスがテーブルにかけられた、眩いばかりの豪華な席が設けられていた。
 そしてそこで、平和条約の内容を取り決め、それを二通作り、互いに署名した。
「これにて、貴国と我が国とは不可侵にして交易も拡大。親しき隣国となり申した。どうかよろしくお願いいたす。」
 ミヒャエルが手を差し出す。
「こちらこそ、よろしくお願い致します。このような機会を与えて頂いたこと、誠に喜ばしく、感謝申し上げます。」
 ナターリアが握り返す。
 ミヒャエルは娘を貴国にしばらくお預かりいただきたいと言った。
「我が子シャルロッテが申しますには、これからは貴国とお付き合いしていくにあたり、是非とも女王陛下や貴国の風土のことなどを知りたいと。私も、その必要を感じております。神経細やかな女性のほうが、こういうことには向いております。ひと月ほど如何ですかな?」
「では、そちらの姫君を我が国に?」
 ヨハンが尋ねた。大きな国が小さな国に姫君を預けるというのか・・・。
「左様。すでにそのつもりで馬車も用意させております。娘は、可能であれば、女王陛下ともお近づきになりたい、などと厚かましいことを申しておりますが。」

 それから三日間、オープストの一行は、ナーデル領内の景勝地や畑や牧場などに案内された。特に、ジョセフとフレデリックはよくナターリアと話をする機会を増やして、できうる限り自分たちをよく知ってもらおうとしていたし、ナターリアのほうでもそれは同じだった。
「ご家族がたくさんいらして、本当に羨ましいですわ、」
 ナターリアは言った。

 ところが、三日後の朝、事態は急展開した。
「ジョセフ様、私・・・貴方とはもっとお話ししていたいと思っていますの。」
 ナターリアが、伯爵家の廊下に一人でいるジョセフを見つけて、自ら駆け寄って話しかけたのだ。彼は、女王の突然の告白に少したじろぐ様子を見せた。
「女王陛下、私と話してどうなるのです?私はこの国を継がねばならぬ身。それでもよろしいのですか?・・・他の方、例えば貴国の方ではいけないのですか?」
 ナターリアは、顔を赤らめながら、それでもはっきり言った。
「私はまだあまり対等な立場の人とお話をしたことがありません。初めは、王室の方々とのお話に慣れていないせいだと考えていました。でも、あの日から貴方のお顔だけがずっと消えず、また国王陛下やフレデリック様の前にいるときは何でもないのに、貴方とお話しするときは、貴方を見つめてしまい、言葉が出てこなくなるのです。・・・ずっとお側にいたいのです・・・。」
 ナターリアはジョセフの胸に飛び込んだ。背中に手を回して全身で彼の暖かさを感じ取った。それはもはや、恋以外の何物でもなかった。
「女王陛下・・・。」
 その時、ジョセフの中でそれまで押さえつけられていた何かがはじけた。彼女をきつく抱きしめて、柔らかな髪を愛おしく撫でる。彼女の仕草、話し方、立ち居振る舞いの全てが、この数日の内に彼にも心惹かれるものになっていたのである。
「私も、ありのままの貴女に触れてみたくなりました。もし貴女が女王でなかったら、私は直ぐさま貴女を我が妃とするでしょう。しかし、現実は困難です。一緒に乗り越えてくれますか、・・・ナターリア。」

 長い説得が続いた。ヨハンも結局は二人が一緒に帰国することに同意した。
「女王陛下、陛下はわかりやすいお方ですね。薄々は気づいておりました。ゼバスチャン殿からも伺っておりました・・・。ですが、ジョセフ様はナーデルを継ぐお方。なかなか難しいかと。」
 外務大臣は、初め渋い顔をした。しかし、ミヒャエルは穏やかに言った。
「実は、貴国の内務大臣殿からもお便りを受け取って、愚息も悩んできておりましてな。それを聞いた我が臣下がこのようなことを想定して、すでに策を立てておりました。私も、よもやとは思っていたが、二人の心はすでに決まったようです。今こそ、その策をお話ししよう。」
 ミヒャエルは、ヴォルフの考えをそのまま話した。
「・・・つまり、オープストと共に、ナーデルをもナターリア女王陛下に治めていただく、ということです。その準備が整った後、私はナーデルの地を女王陛下にお譲りして退位し、我が一族は三つに分かれて、それぞれ公爵家として引き続き当地を治めさせていただく。それが我が方からの唯一の条件になりますかな。
 我々がここまでやるのは、あくまでも二人の愛と、両国の平和のため。どうかお聞き届け下され。」
 この提案には、ナターリアもヨハンも相当驚いたようで、違う角度から幾度も質問を繰り返したが、ミヒャエルの答えは終始一貫しており、嘘も矛盾もないように思われた。
 ヨハンは国王の熱意にも負けた。
「分かりました。それでは、今日このままジョセフ様をオープストの地にお連れ致します。もし、お二方のご希望に反して国内にて反対意見が賛成を上回るようなことがあれば、ジョセフ様をお返しに上がります。婚儀のことについては、決まり次第お知らせ致します。」
 オープストの訪問団は、シャルロッテの代わりにジョセフを加えて、一日遅れで出立していった。

「時期は相当早まったが、そなたの進言通りになりそうだな。さて、これからが正念場かもしれぬぞ、ヴォルフ。」
 訪問団を見送ったミヒャエルが隣に立ったヴォルフに向かって言った。
「御意。あとはラオプの出方にかかっております。
 しかし、国王陛下、本当にすぐに譲位されるお覚悟なのですか?私めは、何十年か先を想定しておりましたものを。」
 ヴォルフは、本当に『将来』の話として考えていたに過ぎなかったのだ。国王はにっこり笑って言った。
「ヴォルフよ、我が子に後を任せるに、何故に時を待つ必要があろうか。余は、ジョセフの父、真の国王たり得たいのだ。」

九.百合咲く丘

 ナーデルから帰国したナターリアは、早々に政府要人を召集して、ナーデルでの出来事、即ちジョセフ王子との結婚と両国統一の話が出たことについて理解を求め、協議を行った。自国が大きくなること自体に反対する者はなく、現在のナーデル国王とその一族の扱いについての議論が少しあった。他国の国王を公爵とすることには無理があるというのである。
「ミヒャエル陛下は慈悲深き名君と謳われ、ナーデルの国民から大変慕われているようでございます。その方を公爵などに降下させてしまうのは、如何なものかと。それに、女王陛下にとっては義理のお父上になられます。」
 ゼバスチャンの発言に応じて、ヨハンが意見を述べる。
「帰国の道すがら、考えてきたのですが、ミヒャエル陛下はやはり国王以外似合わぬ方です。そこで、女王陛下に準ずる『王』と名の付く地位を新たに創設して、このキルシュヴァン城にお迎えするのがよろしいかと。あの方はまさしく名君。公爵に留めるには、あまりにも惜しい方にございます。」
 ナターリアは、新しい役職名を思いついた。
「それでは『公王』というのは、どうですか?私にはまだ国王として助言して下さる方が必要です。それに、ゼバスチャンの言うとおり、ジョセフ様と結婚すれば、ミヒャエル陛下は私の義理のお父上、一代限りの『公王』としてお迎えするのが礼に適うように思います。他の王族は、ジョセフ様のごきょうだいに当たられる方々ゆえ、公爵に相応しい。」
「なるほど・・・。ジョセフ様が『公卿』になられるのでしたら、そのお父上が『公王』でも構わなくなりますな。そして、このキルシュヴァン城で、女王陛下へのアドバイスもしていただくという訳ですね。」
 『公卿』とは、女性王族の配偶者に与えられる地位・敬称である。出身の上下に関わらず、女性王族と結婚した男性はそう呼ばれることになっている。
「これで決まりましたね。」
「御意。」
 にっこり微笑み、背伸びをせず女性らしい言葉遣いで臣下と接するようになったナターリアは、皆の目から見てそれまでよりもひとまわり大きく見えた。
 この会議の結論は、早速ナーデルのローベルク城に伝えられた。ミヒャエルは、この若き女王の手腕にとても満足した。
「ナターリア殿、なかなかやるな。余の助言など要らぬのではないか?ハッハッハッ。」

 ラオプのエーベルハルト国王は、ナーデルとオープストからほぼ同時に届いた親書の内容に驚愕した。
 二つの国が統一されれば、その国力はおそらくカルタナ大陸全体の約五分の三を超える。それに、他の極小な国々も、その力の前に雪崩を打ったように次々と平伏していくことであろう。
 ナーデルから最初に親書を受け取った時、もっと早期に平和交渉を始めていたならば、まだ対等な立場のままで話ができたかもしれぬ。しかし時既に遅し、その点では、オープストの動きのほうが勝っていた。オープスト国王は、まだ即位したばかりの若い女王だと聞いているが、先を越されたか・・・。

「それは違うと思いますよ、エーベルハルト。」
 マルレーン妃がオープストの親書を読んで言った。
「このご親書に書かれている内容は、お惚気とも取れるくらいです。ナターリア女王陛下は、おそらく心からジョセフ王子のことを愛しておられるのでしょう。思い出しませんか、私たちのこと。」
 マルレーン妃は、もともとサーベラス伯爵家に出入りしていたお抱え医師の一人だった。それをエーベルハルトが見初めて愛し合うようになり、半ば強引に伯爵家に頼み込んで養女にしてもらい、ようやく当時の国王に結婚を許された経緯がある。
「ナターリア女王陛下のこの文章は、貴方に夢中で他のことなど気にかからなかった、かつての私にとてもよく似ています。」
 娘のクラリスも同じことを言った。
「私にはまだ、これと決めた方はいませんけれど、女として最愛の人と一緒にいられることほど大切なことはないと思っています。
 それに、私がお目にかかったナーデルの特命参与様・・・人の心を大切にされるあの方だからこそ、お二人が結婚してもしなくても良いように、二つの案を出されたのでしょう。ナーデルからの親書もまた真実だと想います。」
 エーベルハルトは、二人の意見ももっともだと考えるようになった。
「・・・まあ。詳しいことは会談の折に伺うとしよう。少なくとも会談までの間には何事もあるまい。」

 ナーデルとラオプの国境にある『百合咲く丘』は、それまでの両国の取り決めで双方どちらにも属さぬ休戦地帯とされている場所である。人がいないため、野生の百合が一面に広がる。今度の会談には、ミヒャエルの希望でヴォルフがついた。
「やはりここはそなたでなければ務まるまい。そなたこそが和睦の発案者なのだからな。」
「恐れ入ります。この機会を活かせれば、カルタナ大陸全体の平和が見えて参りますね。・・・時に、女王陛下はそろそろお着きでしょうか。」
 実は、ミヒャエルの名でナターリアを急遽この会談に呼び寄せていたのである。また、そのことは、ラオプのエーベルハルトへも通知してある。
「お、噂をすれば影だ。しかし、供はさすがにジョセフ以外の者を選んだらしい。」
 供をしてきたのは、外務大臣ヨハンだった。

「ミヒャエル陛下。この度は大切なご会談の席にお招きいただき、誠にありがとうございます。時刻には間に合いましたか?そちらの方は?」
 ナターリアは、文官姿のヴォルフを見た。
「これは、ヴォルフ・ペフラインと申す者で、我が国の特命参与をしております。此度の和平交渉を提案してくれたのは、この者でしてな。」
「そうでしたか。そなたが・・・。そなたのお陰で、私はジョセフ様とお会いすることができたのですね。心より礼を言います。」
 ナターリアは、ヴォルフに手を差し出した。ヴォルフは跪いてその手に額を付ける。
「勿体のうございます・・・。女王陛下、本日はどうか思いの丈をご存分にエーベルハルト陛下にお話し下さいますよう。このカルタナ大陸全体の平和が、女王陛下とミヒャエル陛下にかかっております。」
「ヴォルフ・・・と言いましたね。そなたの平和への願い、私も受け止めましょう。」
「は。有難き幸せ・・・。」
 ヴォルフは、より深く頭を下げた。

 エーベルハルトは、クラリスの兄にあたるラファエル皇太子を連れてやって来た。丘の上に数人の人影が見える。
(あれがナーデルとオープストからの交渉者か。)
「お初にお目にかかる。ナーデルの国王ミヒャエルと申す。これは、特命参与のヴォルフ・ペフライン。」
 最初に自己紹介したのはミヒャエルだ。その言葉の一つ一つが威厳に満ちている。まず最初に自己紹介したのも、自分に絶対的な自信がある証拠であろう。
「私はオープストのナターリアです。供にいるのは、外務大臣ヨハン・フォーゲル。」
 女王の言葉は柔らかい。エーベルハルトは、妻と似ていると思った。彼は婦人に礼を尽くすために膝を軽く引いて挨拶した。
「ラオプ国王エーベルハルトです。お目にかかれて光栄に存ずる。脇におりますのは、我が子ラファエル。先日ナーデルに使わしたクラリスの兄になります。他にもう一人息子がいます。」
 ラファエルも同じように挨拶した。王子らしく、礼儀に適う静かな話し方をする若者だ。歳は、ヴォルフより少し上くらいだろうか。

 会談は表面上和やかに進んだ。ミヒャエルとナターリアは互いにすでに慣れ親しんだ様子だったが、エーベルハルトはやはり警戒心を抱いたままだった。ヴォルフは、その感覚に気づいていた。
「エーベルハルト陛下、我が祖国ナーデルは、一切の侵略行為を放棄しております。貴国の領土に危険が及ぶことはございません。何卒ご安心下さいますよう。」
 エーベルハルトは、その言葉に応えて言った。
「先日、ナーデルの軍勢はオープストと戦ったと聞いたが?」
 ナターリアが説明する。
「それは、私がナーデルを試すために攻め込ませてみたからです。ナーデル軍は国境を越えず、何事もないのに国境を越えそうになると引き返したと報告を受けております。
 死者は一人が矢に射貫かれたのみ。そしてその時、ジョセフ王子が手落ちを詫びたと聞きました。また、後の会談の折には、その者のために花束まで下さったのです。
 そのジョセフ様と、私は愛し合うようになりました。エーベルハルト陛下のご了承が得られれば、私はジョセフ様と結婚したいと思っております。ミヒャエル陛下にはオープストに移られ、公王として私を補佐して下さるようにお願いをしてございます。
 エーベルハルト陛下におかれましては、何卒私共の結婚をご承諾いただきとう存じまする。」
 ナターリアは、心から頭を下げた。エーベルハルトにも、彼女の熱意と誠実さが否が応でも伝わってくる。
 やがてラオプ国王は、一つの提案をした。
「ナターリア殿、貴女の熱意、真実と受け止めよう。愛し合う方と結ばれるに、他国の王に承諾を得る必要もありますまいが、たってのお望みとあらば、私もその結婚を祝福いたす。
 さらに、今この場にて、貴国と平和不可侵条約を結びましょう。ただ、一つだけ条件を付けさせていただきたい。我が子ラファエルに、ナーデルの姫君を娶せたいのだ。」
 エーベルハルトは、王子にナーデルの姫君を娶せることで、ラオプ王家の安泰を願ったのである。これには、ヴォルフが意見した。
「恐れながら、エーベルハルト陛下。人の心を無視して事を進めるようなお考えは、我が国には受け入れられませぬ。
 しかしながら、エーベルハルト陛下のご心配もごもっともなこと。例えば、ナーデルには結婚適齢期で未婚の王子様がお一人と姫君がお二人、貴国にも王子様かお二人と姫君がお一人いらっしゃると聞いております。その六人の方々を一堂に会し、いずれかのお気持ちが沿えば、そのご結婚は祝福されるものになります。」
「つまりは見合いか。」
「はい。」
 そして、オープスト、ナーデルとラオプとの間で総合的な平和不可侵条約が結ばれた。

 王族の見合いは、約束通り何回か繰り返し行われた。互いに居城を訪問し合い、親しく会話をする機会を持った。ラファエル皇太子は、ナーデルの第一王女シャルロッテを気に入った。妹のアンネリーゼは可愛らしいという印象が強かったが、シャルロッテはしっかりと自分の意見を言える聡明さを持っている。将来を共にするに、彼女のほうが自分には合っていると感じたのだ。
 七回目の面談が終わって、シャルロッテたちが帰ろうと馬車に乗ろうとした時、ラファエルはシャルロッテだけをそっと木の陰にエスコートして言った。
「シャルロッテ姫、私は、貴女と将来を共にしたいと思います!どうか結婚して下さい!」
 ラファエルは遂にシャルロッテに求婚した。
「貴女は、ご自分のお考えを持てる方。私は、そのような貴女と時を過ごしたいのです。聡明さに満ちた、その微笑みや眼差しを独り占めにしたい。どうか貴女のお気持ちをお聞かせ下さい!」
 彼は胸に挿していた赤い薔薇をシャルロッテに差し出した。彼女は応えた。
「ラファエル殿下、殿下のお気持ちはとても嬉しゅうございます。赤い薔薇の花言葉もご存じの上で、私に下さるのですね。私も、貴方のお人柄に感銘を受けております。
 ナターリア様からは私にも公爵にとのご希望があるのですが、それではラオプの皇太子である貴方と結婚することはできません。もし、どうしても私をとお望みでしたら、貴方は王冠をお捨てになりますか?」
 それはシャルロッテの賭だった。
「えぇ、貴女を我が妻とできるならば、王位など弟にくれてやります。他国の女王に跪いてもみせましょう。ですから、どうか私と!」
 ラファエルは、彼女に近づいて抱きしめた。そして今まさに唇を重ねようとした時、彼女はその顔を彼の肩にずらして、こう言った。
「今の私の言葉は、貴方を試しただけです。貴方は、心から私を望んで下さった。本当に嬉しゅうございます!
 ラファエル様、私は、喜んで貴方の元に、ラオプ王家に嫁ぎます!」
「シャルロッテ!愛している!」
 二人は唇を重ね、初めての抱擁は長く続いた。その木陰に赤い薔薇を残して・・・。

十.ルシャナ伯爵誕生

 ナーデル王家が三つの公爵家となってオープストと一体化したのは、翌年の夏である。国名も『グロスアイヒェ』と改められた。ヴォルフが提案したカルタナ大陸全体の平和は、彼の思いを超えて『王族の結婚』と、極小国の帰順という形で成就されたのである。
 なお、当初シャルロッテが当主となる予定だった公爵家の一つは、ラオプの第二王子ヘルベルトが旧ナーデル領のブロムベーレ伯爵の娘エルザと結婚して公爵家と認められた。ヘルベルトは、先の見合いの際に彼ら一行のサポート役を務めていた伯爵家令嬢の一人に心惹かれた。それがエルザだったのである。エーベルハルトがこの結婚を喜んだのは言うまでもない。
(これで我が家系は安泰となったな・・・。)
 エーベルハルトも、これからは豊かになっていくであろう平和な国土を望んで満足するようになっていた。グロスアイヒェ側とも協議の上、公務や要人の身辺警護などに必要な数の兵だけを残して、他の者たちを順次、農家や牧畜農家などに変えた。兵達は初めこそ嫌がっていたものの、やがて各々の仕事のやり甲斐や楽しさを知って喜んで働くようになった。
 ミヒャエルは、ナターリアたちの希望を受け入れて旧オープストの首都フロイデのキルシュヴァン城に入り、公王を名乗った。ナターリアもジョセフとミヒャエルを新しい家族として頼った。その二人とだけいる時は、自分は国王ではなく一人の女性に戻れる・・・それが嬉しかった。

 すべての移行作業が終わり、国が国の機能を整えたその年の初冬、ヴォルフが辞表を提出した。三人は一様に驚き、彼を引き留めようとしたが、ヴォルフは固辞した。
「私は、もともと一兵卒でございました。大陸全体の平和を見ましたからには、特命参与の役割は既に尽きております。これよりは、もっと根本的な問題を考えて暮らしとう存じます。」
 ナターリアが尋ねた。
「根本的な問題、とは何ですか?」
「確かに戦で命を落とす者はいなくなりました。しかし、それでも人は・・・全て生き物は病に倒れ、老いて死にます。その悲しみは消える事がありません。私は、それについて、もっと深く考えながら暮らしたいのです。」
 三人は、それを引き留める術を持たなかった。しかし、それでもなおナターリアは、彼の功績を思い、彼を支えようと決意した。
「わかりました。それならば、住まう場所と少しの畑と働き手たちを与えましょう。生活面のことは心配せずに、考えるだけ考え尽くしなさい。考えることがそなたの仕事です。そして、時々は顔を見せてその内容を報告するよう命じます。
 そなたは肩書きなど必要ないと思うかもしれませんが、世の中はそんなふうには出来ていません。形式上はやはり必要です。・・・そうですね、伯爵としましょうか。一週間後、皆の前で認証式を開きます。そのつもりでいて下さい。」

「ナターリア殿は、やはり名君ですな。あのようなアイデアを即座にお出しになるのですから。」
 彼がとりあえず自室に戻った後、ミヒャエルが感心して言った。
「彼の多大な功績を思えば、むしろ足りぬかもしれませぬ。実は、私が幼い頃によく遊びに出かけていた葡萄畑が、我が王室の直轄地にありますの。ここからすぐ近くですし、その土地一帯を彼に与えるつもりです。」

 それからナターリアは、認証式までの間に、これから与える領地の場所や広さについて、ヴォルフに地図を示しながら詳しく説明した。
 新しい領地の名は「グリュンヒューゲル」。首都フロイデから馬車で片道三時間ほどの所にある広大な葡萄畑が彼の領地となる。しかし、彼はそのあまりの広さに驚いた。
「これほど広いのですか!」
 ナターリアは、笑って言った。
「我が王家専用の葡萄畑ですもの。当然でしょう?
 この畑の葡萄は、秋には王家の食卓に上り、あとはジャムやワインに加工されます。王室御用達の品として、一般にも販売され、それも王室の収入源になってきました。
 そなたは、葡萄や加工品を一定量王室に納めるほか、一般販売した売上利益の一割を税として払って、その残りの九割を取り分とするのです。それでも、十分に伯爵家を賄える筈ですよ。館も王室の別邸だった所で、働いている人々も、みな昔からそこにいる選りすぐりの働き手ばかりです。そして、そなたならば、それらを見事に使いこなせるはず。」

 認証式は、キルシュヴァン城内の大広間で開かれた。ナターリア、ジョセフ、ミヒャエル、大臣たち、それに公爵や侯爵、伯爵たちが正装で列ぶ。さらに後ろの席にはヴォルフの家族も騎士階級に任じられた上で呼び寄せられていた。
「ヴォルフが伯爵か・・・。」
 父親のジークヴァルト・ペフラインが感慨深く言った。母クリスティーナはハンカチで涙を拭う。
「あの子が、立派にお役目を果たして、しかも伯爵に取り立てていただけるなんて・・・。」
 兄のディートリヒは、今は正式に騎馬隊の副長になっている。
「あいつ、どんな顔して出てくるんですかね。参与になってからは手紙でしか近況報告をして来ないのですから、全く。」
 言葉は多少乱暴にも聞こえるが、少なからず喜んでいるのは誰の目にも明らかだった。

 やがて、真新しい伯爵の衣装を与えられたヴォルフが姿を見せた。ナターリアが皆に良く聞こえるように宣言した。
「皆の者、本日は参列ご苦労です。このヴォルフ・ペフラインは、平和条約の礎を築いた最大の功労者。平和条約締結のために特命参与として多大な尽力をしてくれたことは、皆も承知しているでしょう。その功績と人格の素晴らしさによって、ここに伯爵の位とグリュンヒューゲルの地を授けることにしました。この決定に不服を申し立てる者はいますか?」
 ナターリアは、広間を見渡した。多大なる功績もさることながら、ヴォルフ自身が常に謙虚な態度を崩さず、誰にでも同じように接して人望も厚かったことから、彼に反感を抱く者はいなかった。同席した者たちはすべて黙して承諾の意を表した。彼女は満足げに頷いて彼を近くに呼ぶ。ヴォルフが跪くと、女王は手ずから彼に勲章を授けた。
「ヴォルフ・ペフライン。本日よりそなたを伯爵に任じ、グリュンヒューゲルの地を分け与えます。グリュンヒューゲルの地を治めながら、様々な善きことを考えて報告しなさい。なお、これよりはルシャナ・フォン・トラオベと名乗るように。」
「は。有り難き幸せ。より一層の精進を誓います!」
 新しき伯爵・ルシャナは、その場でより深く頭を垂れた。
 国王から名を賜ることは、最高の名誉とされていた。それに、ルシャナとは惑星ルシアの使いという意味を待つ名である。女王は、彼のことを惑星ルシアから使わされた使者のように感じ、彼に最高の栄誉を贈ったのだ。

 式の後、新しき伯爵は、その家族の元へ行った。手紙をやりとりしてはいたが、公務にかまけてもう三年ほど会っていなかった。
「父上、母上、兄上・・・ご無沙汰してしまい、誠に申し訳ありません。・・・」
 彼は家族を前にして涙ぐむ。両親は彼を抱きしめた。兄の目も潤んでいるようだ。
「ヴォルフ・・・いや、ルシャナ、立派になったな。お国のためによく尽くした!父として褒めてとらすぞ。」
 父親は、そう言って息子の肩を叩いた。
「は。与えられた土地は近くになります故、これからはもっと頻繁に父上たちのお顔を拝見しに来られるように致します。どうかお許し下さい。」
 クリスティーナが優しく言った。
「良いのです。お前が人々のために役に立っていると聞く度に、元気でいるのだと思ってきました。これからも同じです。ルシャナ、たとえ名が変わろうとも、お前は私が産んだ子です。私たちのことなど気にかけずに、人々のために尽くすのです。」
「母上・・・。」
 ディートリッヒも言った。
「お前が考えた面倒な戦い方、あれはなかなか気持ちよかったぞ。その調子で頼むな。」
「はい、兄上。」
 ディートリッヒにもそのように言われて、ルシャナは少し自覚を固めることができた。
 そうだ、今までと同じように、私は私が出来る最大限のことをしていこう。一兵卒でも伯爵でも構わぬ・・・。

一一.葡萄畑にて

 キルシュヴァン城内の車寄せには、既にグリュンヒューゲルから迎えの馬車が来ていた。城の者に案内されて近づくと、二人の男が彼を見つけて跪く。ルシャナは、改めて自分が傅かれる立場になったことを実感した。
「あなた方は?」
 一人が答えた。
「は。お初にお目にかかります。私は貴方様の執事、フェリクス・ヤコフソンと申します。これは御者のオスカー・リースフェルトでございます。これより貴方様の身の回りのお世話をさせていただきますが、どうか私どものことは家臣とお思い下さい、旦那様。」

 フェリクスは、馬車の中でいろいろな話をしてくれた。執事の自分も含めて、グリュンヒューゲルの館の者たちは、もともと王家に直接仕えてきた者たちで、今回新たに伯爵家の所有に代わるにあたり、王族に仕えてきた時と同じように伯爵にも接するように、女王から直々に仰せつかった、とのことである。
「女王陛下におかれましては、貴方様こそ今日の平和条約締結の最大の功労者ゆえ、くれぐれも軽んじることの無きように、と仰っておいででございました。私どもも、その心構えにてお仕え申し上げる所存でございます。」
「女王陛下・・・。」
 ルシャナは、キルシュヴァン城の方角に振り返って頭を下げた。フェリクスは、その姿に心打たれた。この方は、やはり噂に違わぬ徳多きお方。お仕えできることは幸せかもしれない・・・。

 グリューンヒューゲルの館の前には、家臣たちが新たな主人を迎えに出ていた。都合五十人ほどになるだろうか。ルシャナは馬車から降りると、先ず自己紹介した。
「私が本日より当主となるルシャナ・フォン・トラオベである。よろしく頼む。」
 皆揃って跪き、それから一人一人が名と職業を述べていった。
 館の中は、王室の別邸に相応しく相当豪華な造りになっていた。先ず目に付いたのは、大きなシャンデリアだ。
「この高さでは、火を灯すのが大変であろう。」
 ルシャナの問いに、フェリクスが答える。
「は。これまでは王族方がご滞在されている間は毎夕、梯子を架けて火を灯しておりました。」
「ならば、普段はこれを用いず、何ヶ所か必要最低限の数の蝋燭を人の目より少し高い位置に灯しておけ。食堂もおそらく同じであろうが、私はそれで良い。ただ、埃は放置しておくと落ちにくくなる。毎週火曜日の昼間に布で拭くようにしておいてくれ。いつどなたが見えても恥ずかしくないようにな。」
「畏まりました。」
 火曜日は、最も行事が少ないと思われる曜日だ。家臣たちは、皆その言葉を聞いて、新しき当主が賢く情け深いことを知った。

 また、ルシャナはその翌日、隣り合う領地の当主たちに挨拶に出向いた。アルペンハイム侯爵とクラインベック伯爵である。二人とも旧オープスト王家に代々仕える名家であった。ナーデル出身のルシャナにとって、隣接する領地を所有するこの二人は、特に仲良くやっていかねばならぬ相手だ。
 オープストとナーデルが一つになる過程で、両国のほとんどの貴族達は既にルシャナとは幾度か顔を合わせており、この二人もまた彼とは親しくなっていた。ルシャナが訪ねてきたと知ると、さっそく応接間に通し、手厚くもてなした。おそらくは伯爵の認証式で女王から名を賜ったことで、その功績を改めて評価してくれていたものか。あるいは、名門貴族たる者は隣に誰が住もうともびくともしないと彼に見せたかったのかもしれないが。

 そして、ルシャナは新しい伯爵家としての仕事に、熱心に取り組んだ。伯爵家の経費はどのくらいか、臣下の家族構成や賃金はどうなっているか、葡萄畑から得られる利益はいくらか、加工品は何をどのくらい作るのか、一般販売は何割か、そういった細かいことを全て把握していった。
 それがようやく終わったのは、就任してから一ヶ月後のことだ。彼は執事に、一枚の小さな絨毯を用意させた。そして、毎日畑仕事がひと段落する午後、葡萄畑に絨毯を敷いてその上に座って一時間ほどを過ごすようになった。
「旦那様、どうして畑に直に座られるのですか?」
 フェリクスが不思議に思って尋ねた。この疑問は、館の者たち全員を代表したものだ。
「私がまだ一兵卒だった頃、何も持たずに歩いていたご老体にお会いしたことがあってな。戦い以外を知らなかった私はそのご老体に尋ねた。貴方はどうして何も持たずに生きられているのですかと。
 そのご老体が答えられて曰く、私はただ普通に生きているのだが、貴方はまだお若い、様々な人を見て、時には静かに座られるがよろしかろう、と。
 今、私はようやくその環境になれたのだ。そなた達の一人一人、一つ一つの動作、仕事を観察することが私にとっては学びになり、畑に自由に座ることも可能になった。それだから、畑に座ることは止めずにおいてくれ。」
 ルシャナは、そう言いながらも伯爵としての仕事はきちんとこなした。その仕事の正確さと速さは並の貴族の倍以上で、通常なら夕方までかかるような量をおおよそ午前中に終わらせてしまう。その上で一時間ほど畑に座るのだ。家臣たちは、ますます主人を尊敬するようになっていった。

 秋になって、葡萄の収穫期が来る頃、ルシャナは畑仕事を手伝うと言い出した。
「旦那様、それはご勘弁願います。」
 農夫の取りまとめ役のラルスは初めは断った。
「何故だ?人手は少しでも多いほうが良かろう。もっとも、私では足手まといかな?」
「い、いえ、滅相もございません!しかし、伯爵様が御自ら農作業などされては、お手が汚れます。」
「構わぬ。私は植物や土に触れていることを楽しく思うのだ。それに、この葡萄の一部は、女王陛下も召し上がると聞く。ならば尚更、伯爵たる者の手によって摘まれた作物のほうが陛下もお喜びになろう。」
 一理ある。ラルスも承知して、新しい作業着を用意してくれた。そして、最も良い房を示して、ルシャナに刈り取り方を教え、実際に収穫させた。
「お見事です。初めてでなかなかこう巧くはいきません。」
「そうか?世辞ではあるまいな。無理して褒めると、どんどん摘み取ってしまうぞ。」
 ルシャナは微笑んだ。ラルスは慌てて言葉を続けた。
「本当でございます。旦那様は、私共から拝見しておりましても、何事にも天才的なところをお持ちのようです。」
 その言葉通り、ラルスを始めとする農夫たちは、もうルシャナが農作業をするのを止めなくなった。
 翌日、ラルスの女房が全員分の弁当をまとめて持ってきた。
「おっ。旨そうだな。私も食べて良いか?」
 ルシャナは、言うが早いが、パンをひとつ頬張った。
「だ、旦那様!それは下賎の食べ物でございます!」
 一同が驚く。
「なんだ、数が足らなくなるか?」
「そうではございません。旦那様が召し上がるには下等な食べ物だと申し上げているのでございます。」
 ラルスが説明した。
「ラルス、食べ物とはそもそも何だ?人が命を永らえるために、他の植物や動物を体に取り込む時の手段にしか過ぎぬのではないかな。事実、戦場では兵糧が尽きると、道端の草や虫の幼虫などを食べることもあるのだ。その時には貴族も兵もない。ましてや、このような美味しいパンを誰が拒もうぞ。」
「旦那様・・・。」
 農夫たちは、改めて自分たちがそれなりに美味しい食事を食べていたことを知り、またその同じ物を主人が食べたのを見て、感涙した。

 その秋の収穫は例年より少し早く終わり、トラオベ伯爵家の主従関係においても大きな実りをもたらしたようである。

一二.慈悲

「おかしい・・・。」
 過去の帳簿を点検していたルシャナが首をひねっている。
「旦那様、どうかなさいましたか?」
 フェリクスが尋ねた。
「フェリクス、ここ三ヶ月ほどのワインの売上金が毎月五本分くらいずつ合わぬようだが、何か理由があるのか?」
「えっ?そんなはずは・・・。」
 フェリクスが調べても、確かに売上額が合わない。帳簿は、これまでも彼が目を通してきたはずだが、額が少ないので見逃していたようだ。
「おっしゃる通りでございますね。さっそく調べます。」

 調査してみると、どうやらワインの一般販売をしている女中の一人が、こっそり他に持ち出しているらしいと分かった。ルシャナはその女中・ヘレナを呼び出して問い詰めた。
「調べさせた結果、そなたがワインを持ち出しているらしいと聞いた。それについて申し開きがあるか?素直に話してみよ。今この場でごまかしたり、隠したりすると為にならぬぞ。」
 彼はいつになく厳しい口調で問いただした。普段が穏やかなだけに、却って恐ろしい。
 ヘレナはひれ伏して泣きながら声を震わせて言った。
「申し訳ございません。確かにワインを密かに売り渡しておりました。・・・実は、私の父が病に倒れ、その薬代を支払うため、お金が必要だったのでございます。・・・何卒お許し下さい。・・・」
 許しを請うヘレナに、ルシャナは言った。
「そなたは三つの罪を犯した。よって、これから中庭にて鞭打ちいたす。中庭に出なさい。」

 夕暮れの中庭に使用人すべてが集められた。ルシャナは、ヘレナに中庭の片隅に行って後ろ向きに座るよう命じた。女中頭のコルネリアが止めに入ろうとしたが、ルシャナは耳を貸さない。
「良いか!ヘレナは三つの罪を犯した。
 一つは、ワインを許可なく勝手に売り、この葡萄畑の利益を我が物としたこと。それは、公の利益を害したのだ。たとえ動機が何であろうとも、公を私物化することは許されぬ。
 一つは、その不正な金を父親の薬代にあてがったこと。父親は、それと知らずに不正の動機となっていたことになる。これは親不孝である。
 そして、もう一つは、父親が病に倒れたことについて、私にも他の誰にも相談せず、無理をした結果、悪事に手を染めることになったことだ。
 人が一人で背負うにはあまりにも重い負担が生じることもあろう。しかしながらそうした場合においても、傍らの誰にも相談しないのは、心から人を信じていないからだ。ヘレナは、私や周りの者たちを信じていなかった。
 よって、これから私が自らの手で、その背中が血で染まり、埋め尽くされて固まるまで鞭で打つ。」

 ルシャナは自ら鞭を揮った。鞭によって上着はたちまち切り裂かれ、鞭打つ音と女の低い呻き声が続いた。露わになった背中からは血が噴き出し、みるみるうちに赤く染まっていく。やがて中庭の土に血がぽたぽたとこぼれ落ちるようになっても、彼の手はまだ止まらない。
「旦那様、どうかもう・・・。私はもう見てられんとです!何卒お許しを!どうか!お慈悲でございますったい!」
 女中頭のコルネリアが遂にたまりかねてヘレナに覆いかぶさって庇った。
 ルシャナは、息を切らせながら手を止めて言った。
「コルネリア、慈悲とはただ何もせずに罪を許すことではない。こうすることが、この場合の私の慈悲なのだ。
 そしてヘレナよ、コルネリアはこうしてそなたを庇ってくれている。ここにいる他の者の中にも、きっと同じ思いの者が多くいるはずだ。これで、自分が何をしてしまったか、よく分かったであろう。
 ・・・フェリクス、医者を呼んでやれ。それから、ヘレナの父親を連れてきて、診察と治療を受けさせろ。」
 彼は部屋に去った。ヘレナはコルネリアに抱かれたまま泣き崩れて、意識を失った・・・。
「もしかしたら旦那様は・・・。旦那様は、誰かが庇うのを待ってらしたんじゃなかとね。・・・」
 ラルスが呟いた。

 すぐに医者が呼ばれた。
「本当に深い傷は、二本の短い傷だけだ。あとは跡形もなく消える。それも大切な場所は外してある・・・君たちのご当主は相当手加減したな。」
 医者は、意識を取り戻したヘレナと付き添っていたコルネリアに言った。
「旦那様は息を切らせておいででしたが。」
「ほう。そりゃ大した演技力だ。それに普通なら、剣を使うはずだ。敢えて鞭にしたことも、それをご当主が自らなされたのも、おそらくは手加減をされるためだったのではないかと、私は思うよ。何ともお優しいご主人様ではないか。大切にお仕えするのだな。」
 医者は、そう言い残して帰った。ヘレナはまた泣き出した。
「旦那様・・・。」

 翌日には父親がこの館に連れてこられて診察と治療を受けたとフェリクスから聞いた。彼女はフェリクスに主人への伝言を頼んだ。
「ヘレナは、心から反省しており、もし旦那様がお許し下さるのであれば、この館に生涯お仕えしたいと申しております。二度とご信頼を裏切るようなことはしません、と。
 また、あれの父親は、残念ながらもってあとひと月の命だそうでございます。」
 フェリクスは目を伏せた。同じ屋根の下で働く者の身内の命がもうすぐ一つ失われていくのだ・・・。
 ルシャナは静かに言った。
「そうか・・・。無念だな。私たちには、その命を救ってはやれぬか・・・。
 ヘレナには、その痛みをもって罪の購いと認める。ただし今後は人前には出ぬような本当の下働きをして貰う。それでこの件は終わりだ。」
 旦那様は、初めからそのおつもりだったのか・・・。フェリクスは思った。
 そのことをヘレナやコルネリア、それに館の者たちにも伝えると、ラルスが言った。
「やっぱり、そうだったんだ。俺もそんな気がしてたとですよ。」

 翌日からは、まるで何事もなかったかのような毎日が再び始まった。ルシャナは誰にでも穏やかに話しかけ、午後の一時間を畑で過ごした。
 ただ、ヘレナが数日間休み、その父親が館内の部屋で横になっているようになった他には。

一三.押しかけ女房

 ヘレナの父親が息を引き取ったのは、それから六週間後のことだ。ルシャナは、彼の亡骸を館から近い所に埋葬させた。
「旦那様、私どもはもうお礼の申し上げようがございません。罪人となったヘレナの父親のために埋葬まで・・・。」
 埋葬に関わった植木職人のロベルトが恐縮している。
「ロベルトよ、罪はすでに購われた。ヘレナはもはや罪人ではない。『罪を購った者』であり、『肉親の死を悲しんでいる一人の娘』である。当主たる者として、家臣の家族を弔うのは当然だ。」
 ルシャナは、ヘレナに一粒の桜の実を手渡した。初夏になった実で、少し乾燥している。
「この実を父の傍に埋めてやれ。これから芽が出るかどうかは分からぬ。だが、もし芽吹いたならば、その桜の木を見て父を偲べ。」
 ヘレナの目から涙が溢れる。
「旦那様、父は余命を過ぎて安らかに逝きました。それに加えて、旦那様は私に慰めとなるものを下さいました。私は旦那様のご恩を忘れません。」

 何ヶ月かが過ぎて、冬を迎えた。うっすらと雪の積もる静かな日に、久しぶりにキルシュヴァン城からルシャナに呼び出しがかかった。
「グリュンヒェードルからの葡萄や加工品は、今年も滞りなく納められました。ご苦労でしたね。さらに、秋に献上された葡萄はそなた自らが摘み取ったものと聞き、殊更に美味しく感じました。どうもありがとう。」
 ナターリアが微笑む。ルシャナは跪いている。
「勿体のうございます。私も、土や植物などに触れることに楽しむようになりましてございます。」
「さて、今日来てもらったのは、久しぶりに顔が見たかったことと葡萄の礼に加え、一人そなたに会って欲しい方がいるからです。・・・どうぞお入りください。」
 ルシャナは、顔を上げた。
「貴女は・・・クラリス様!」

 それは、以前ナーデルの特命参与を務めていた時に顔を合わせたことがあるラオプ国王の末子・クラリス王女だった。
「久しぶりですね、ルシャナ。創建で何よりです。
 実は、私は父からラオプの公爵との縁談を進められそうになり、それならば旧オープスト領内に嫁いだほうが自国の利益になると説き伏せて、ここに来ました。
 十日ほど前からこの城に滞在させていただいて、女王陛下にいろいろとお話を伺っていたところ、貴方が今は伯爵になっているというではありませんか。それならば私が嫁ぐに支障はありませぬ。」
 冷静沈着なルシャナも、さすがにこの話には驚いた。
「クラリス様?今なんと仰いました?!私の耳には、あたかも貴女様が私の元に嫁ぐかの如く聞こえましたが?!」
 クラリスは頬を赤く染めた。
「その通りです、ルシャナ伯爵。私を貴方の妻にしていただきとう存じます。・・・。父にもそのことは伝えてあり、ラオプのマリウス侯爵に頼んで養女にして貰いました。侯爵の娘なら、伯爵家に嫁げます。」
 ルシャナは、助けを求めようとナターリアを探したが、女王はいつの間にか玉座から姿を消し、他の者たちも部屋を去っていた。今、この部屋には二人しかいない。
「女王陛下も、私の願いをご承知です。そのために、貴方を呼び出しても下さいました。
 ルシャナ様、お慕いしています。どうか私をこのまま貴方の館にお連れ下さい。」
「クラリス様・・・。」
 クラリスは、ルシャナに近づいて屈み込み、傅いていた彼に全身を預けた。
 今、一人の聡明で芳しい女性が私を必要としてくれている。私も、妻にするのなら、この人のような・・・。いや、この人でなければならない!・・・ルシャナは覚悟を決めた。ゆっくりと彼女を背中ごと抱きかかえ、自分と一緒に立たせた。彼女の澄み切った瞳を見つめる。
「本当に私で良いのだね・・・。」
「貴方が好きだった・・・心を大切にする貴方が・・・。」
「クラリス・・・。ずっと傍にいてくれ。たった今わかった。私にもそなたが必要だ。」

 二人が館に着くと、家臣たちは彼女のためにとりあえず宿泊客用の部屋を整えてくれた。これまでは色恋沙汰ひとつ起こしたことがなかった当主が何の前触れもなく突然若い女性を連れて帰ってきたというので、上を下への大騒ぎになったが、誰も彼女の正体を知る者はない。クラリスが手配していた通り、ルシャナは彼女のことを、ラオプの侯爵家の娘で、自分に嫁いできたのだと説明した。

 結婚式までの間、ルシャナとクラリスは、二人でこれまでのことを話し合ったり、手を握り合ったり、食事も一緒に取るなど、仲睦まじい暮らしを送った。ルシャナが畑で過ごすと聞くと、クラリスはその様子を見つめていて、あとからいろいろ質問もした。少しでも彼の今を知りたい、そんな思いだった。
 館の者たちも、そんな彼女を次第に受け入れて慕うようになっていった・・・。

「私、押しかけ女房ですわね。ふふっ。」
 クラリスはそう言って笑った。
「構わん。お互いに必要としているのだからな。再会した時は驚いたが、私もまた聡明なそなたをこそ妻にしたいと願った。そなたが私を選んでくれたこと、誠に思いがけなく幸せなことと思っている。その美しい瞳をもっと見せてくれ。さ、もっと近く・・・。」
「ルシャナ・・・。」
 そうして、初めて一夜を共にした二人は、さらに深く相手を理解した。
「そなたとなら、きっとやっていける。」
 ルシャナの言葉に、クラリスも同意した。
「私もそう思います。貴方は、やはり私が思っていた通りの人でした・・・。」

 二人は、クラリスの養父に会いに行くことにした。
 エドヴァルド・ハインツ・マリウス侯爵は、クラリスが養父に選んだだけのことはあって、教養に溢れながらも気さくな話し方をする人物だった。彼は、先ずクラリスに跪いて挨拶したが、クラリスはそれを止めた。
「私は、もうマリウス侯爵家の養女ですわ、お養父上。そして、婚約者をご紹介します。」
 クラリスは、ルシャナを紹介した。
「ルシャナ・フォン・トラオベと申します。この度はお世話になります。」
「初めてお目にかかる。エドヴァルド・ハインツ・マリウスと申す。貴方が、クラリス様が婿にとお望みになった男か。平和条約締結の功労者とも聞いたが、なるほど、良い面構えをしているな。これからは貴方も私の家族となる。寒かったであろう。入ってくれたまえ。」
 侯爵家の応接間に入って、二人は驚いた。エーベルハルト国王とマルレーン妃が待っていたのだ。クラリスは、両親に抱きついた。
「国王陛下におかれては、クラリス様が貴方との結婚を望まれたとお聞きになり、ここまで駆けつけて来られたのだ。」
 エドヴァルドが説明する。ルシャナは跪いて深く頭を下げた。
「エーベルハルト国王陛下、マルレーン妃殿下、私ごときにクラリス様が嫁いでくださること、身に余る光栄でございます。しかしながら、私はクラリス様を、姫としてではなく、一人の女性として大切にし、生涯が果てるまで傍にいて欲しいと思っております。何卒結婚をお許し下さい。」
 この言葉を聞いたエーベルハルトは安堵して言った。
「そなたのことは記憶しておる。政略結婚を進めようとした余に、互いに愛し合う機会を与えることを勧めた特命参与・・・。余は再び同じ過ちを繰り返すところであった・・・。もはや止め立ては無用であろう。・・・娘を頼む。」
 今度は逆に国王がルシャナに頭を下げた。
「おやめください、国王陛下!あまりにも恐れ多いことにございます!」
 ルシャナは慌てて止めようとした。エドヴァルドが言う。
「ルシャナ殿、親心でござるよ。貴方にもお子がお出来になればわかり申す。」
 マルレーン妃が娘を少し離してから言った。
「実は、私はもともと伯爵家に出入りしていたお抱え医師だったのです。その時、エーベルハルトは今の貴方と同じく先の国王に跪いて結婚の許しを請うたのです。」
「国王陛下・・・。」
「ルシャナよ、我が妃が言う通りだ。余にも、そなたとクラリス双方の心を推し量ることくらいは出来る。クラリス、ルシャナ、必ず幸せになれ。この父母もそう願っている。」

一四.芽吹き

 二人の結婚式は、それから三ヶ月後、桃の花が開く時期に行われた。
 立会人は、かつてのナーデル第二王子・フレデリック・ユルゲン・クロークス公爵が買って出てくれた。彼は勿論クラリスを知っていたが、内密にすることに協力している。
「こんなに美しい女性にまで心を寄せられるとは、幸せな奴だ。もっとも、そなたならば無理もないがな。」
 彼はルシャナの肩を軽く叩いて笑った。ルシャナ自身の家族も列席している。
「兄より先に嫁を貰うとは何事か、この果報者がぁ!」
 ディートリッヒからは軽く羽交い締めにされてからかわれた。
 だが、果報者・・・果報・・・兄の何気ないこの言葉がルシャナの心に引っかかった。
 思えば、戦のない世界を夢見たが故に特命参与に取り立てられ、平和条約締結の矢面に立ったのが、クラリスと出会うきっかけであった。いわば、善きことを為したことにより、善き妻に出会えたことになる。

 それから二人の正式な伯爵夫妻としての生活が始まった。
 ルシャナが畑にいる間、クラリスは新しい奥方として館の雑事を取り仕切るようになった。使用人たちに、その都度適切な指示を出し、ルシャナが畑に坐ることに、より専念できるようにしたのである。それは、彼の期待通りであった。

 さて、ルシャナの抱えた生と死の根本的問題はまだ何も解決してはいなかった。むしろ、ヘレナの父親に立ち会ったことによって病と老いの苦しみ悲しみが加わり、またクラリスとの結婚によってこの上なき愛の喜びを知ったのだ。
 人の老・病・死・・・。全ての命の老・病・死・・・。それらを除くことは不可能なのか・・・
 生まれるから、老・病・死が生じるのだ。しかし、人はその中で喜び、楽しみ、悲しみ、怒り、毎日を美しく生きている。決して、初めから生まれなければ良いということにはならない。

 そのようなことを考えていたある日、畑に坐している彼のところへ、ヘレナが駆けてきた。ひれ伏して、地に頭を擦りつけるようにして、彼女は言った。
「旦那様、あの桜の実が芽を出しました!」
「何?!本当か?見に行くぞ!附いて来い!」
 ルシャナはその場所に行った。確かに小さな芽が顔を覗かせている。まだ本当の双葉ではあったが、それは草の芽とは明らかに違っていた。
「よかったな!私も本当に嬉しい。花を付けるのは、まだだとしても、そなたには良きものとなろう。」
「ありがとうございます、旦那様!」
 ヘレナは涙ぐむ。
「いや、実にめでたい!そうだ、夕刻には皆を集めて祝の宴を開こう!ひとつの命のための宴をな!」
 翌日、ルシャナはその芽の周り五メートル四方に獣よけの金網を張らせ、その鍵を、ヘレナとクラリスに持たせた。もしヘレナが仕事中にでも鍵を無くしたとしても、しっかり者のクラリスに預けておけば大丈夫だ。

 桜もあの種から芽を出したか・・・。あれもやがては花を咲かせ、実を付け、しかしいつかは枯れる。そのあとからまた新しい芽が出る、全てがその繰り返しなのだ・・・。
「でも、ルシャナ、桜の木は枯れるまでは花を咲かせ、実を付け、なおかつ私たちの目を楽しませてくれますわ。何より、ヘレナには父に代わる存在となるのです。それだけでも、あの桜は使命を果たしていくのだと思いますよ。
 まだ芽吹いたばかりの今から、何十年何百年も先の、枯れる時のことを考えて、どうするのです。」
 クラリスの言葉に、ルシャナの中でまた何かが光った。命には、それぞれに使命がある・・・。
 今ここに、全てが生きている!生きて、何かしらの使命を果たしている!そして、それ故に、全ての命は等しい!

 彼はさらに、こんなことも考え始めた。
 それにしても、命とは一体何で、何処から生じ、何処へ消えるのであろうか?表面的には、男女の交わりによって種のようなものが出来、女性の体内から生まれるように見えてはいる。植物は、花から種を作って増えているように見える。しかし、それだけでは説明にはならない。何故そのようになっているのかがわからないからだ・・・。

「やはり、そこまで気が付かれたか。」
 柔らかな声が聞こえ、彼に近づく人影があった。
「いつかのご老体!どうしてここに?!」
 それは、ルシャナがまだ騎馬兵だった頃、泉で初めに問答を交わした、何も持たずに生きていると言った老人だった。(※ 第一章 二.ナーデルの騎兵部隊 を参照されたし)
「実は、わしはこの星に仕えおる者。あれから、ずっとそなたを見守っておった。
 そなたは、ついに命そのものについて知りたいと願うに至った。それをお教えするには、遠くへお連れしなければならぬ。
 七日後の黄昏時にお迎えに参る。それまでに、周りの方々と留守中の取り決めをしておかれよ。」
 ルシャナは問うた。
「ご老体、期間は、どのくらいでしょうか?それにより、取り決めが異なります。」
「その期間は、そなた次第だ。わしがお連れするところには、ある方がおられる。その方に教えを請い、そなたがどれくらいでその智恵を自分のものにできるか、それで日数が決まる。また、それで何を得るのかもそなた次第。・・・としか言えぬ。」
 老人はそれだけ言って姿を消した。
 七日後の夕刻か・・・。あのご老体、『智恵』と言われた。『智恵』とは、何だ・・・?

 そのことをクラリスに話すと、しばらく考え込み、突然ルシャナの胸に飛び込んできて泣き出した。
「クラリス?」
「貴方のことです。行くに決まっています。いつまでかがわからないというのなら、何年もかかるかも知れない。ずっと会えないかもしれない。
 旅立ちまでに・・・私に貴方の子を身籠もらせて。その子と貴方を待っていられるように・・・。お願い・・・。」
「クラリス・・・すまぬ・・・。」
 ルシャナは妻を抱き寄せ、愛おしく髪を手で梳いた。

一五.未知なる地へ

 翌朝、二人はキルシュヴァン城に行った。女王に旅立ちの許可を得るためである。
「クラリス、そなたも承知しているのですね?ルシャナを行かせても本当に良いのですね?」
「はい。」
 クラリスの覚悟を見たナターリアは、玉座から降りて、優しく彼女を抱きしめた。愛する者のために自分の幸せを押さえ込もうとする女性の姿に、同じ女性として心から共感したのである。
「貴女には私たちも付いています。いつでも話しに来て下さいね。」
 女王は、再び玉座に戻った。ミヒャエル公王が口を開く。
「それにしても、その老人は何者なのだろうな。己のことは『星に仕える者』と名乗ったのだな?」
 ルシャナは答えた。
「は。それに、私のことをずっと見ていた。とも言っておりました。少なくとも、尋常な人間ではないと思われます。」
「それでも、ついて行くのだね?己が求めて止まぬ何かを知るために。」
 ジョセフ公卿が問うた。
「は。老人はそれを『智恵』と言っておりました。それが何か、また何故ずっと私を見るようになったのか、不思議なことが多うございます。今行かねば、生涯おそらく悔いを残しましょう。クラリスのこと、何卒よろしくお願いいたします。」
「そうか。そなたも心から愛しているのだな、クラリスのことを。」
 ジョセフは微笑んだ。隣国の姫君だったクラリスを呼び捨てにしているのは、真に己が家族と考えているからであろう。・・・あの日の私のように・・・。
 それから、政府要人たちが呼び集められた。
「本日、ルシャナ伯爵から、一定期間不在にする旨の申し出がありました。
 そこで、ルシャナの留守のあいだ、その妻なるクラリスを新たに伯爵に任じます。皆の者、異論はありませぬな。」
 ナターリアの英断が下った。

 あの老人との約束の日が来た。そろそろ日が落ちようという頃、ルシャナは館の門のところに出た。クラリスも、館の者たちも揃っている。クラリスはルシャナの胸に入って言った。
「ルシャナ、どうか無事で。ずっと待っています。」
 ルシャナも、彼女を愛おしそうに撫でた。館の者たちに、くれぐれも妻を頼むと伝える。女性たちの中には涙する者も多くいた。
 フェリクスが皆を代表して言った。
「旦那様、どうかお早いお帰りを。私ども一同、旦那様のお帰りをお待ち申し上げると共に、奥様を精一杯お支え致します。」

 一つの影が静かに近づいてきた。あの老人だった。
「決意は変わらなかったようだな。・・・改めて名乗ろう。私は星の使い・瑠衣。人間たちは私をユニコーンと呼ぶ。」
 老人の影が馬の形に変わった。頭に黄金の角を、背中にも黄金の翼を持った白馬の姿だった。
 ルシャナは、クラリスに口づけてから、その馬に乗った。
「それでは、行こうか。」
 ユニコーンは、そう言うと、瞬く間に空高く舞い上がり、グロスアイヒェを遥かに見渡す海上に出ていた。
「さすがに元騎馬兵だ。乗せ心地も悪くない。」
 ユニコーンは言った。普通は、人が馬について『乗り心地が良い』という。だが、この場合は馬のほうが人を評価して褒めている。命には上も下もないのだ。

「目的地が見えてきたぞ。この星の極南・ウユニ大陸だ。」
 この頃はまだ大陸間の交流はほとんどなく、隣り合う大陸との交易がようやく始まったばかりという時代だった。人々は自分たちが住むところ以外の大陸については未知であった。博識のルシャナでさえ、オルニア大陸出身者の数人かとしか会ったことがなく、ウユニの名は聞いたことが無かった。
「お前たち人間も、そろそろ気づいていると思うが、大地は丸く、一つの星として太陽の周りを回りながら自らも回転している。その回転軸の一つがウユニ大陸にある。今、少し高度を落とすから、ここに住む者たちの姿を見よ。」
 ルシャナは下を見る。彼が知るカルタナ大陸とよく似た風景が広がっていたが、そこに動いている人々の姿は、ずいぶんと変わっていた。背中に翼を背負う者、魚のようなヒレを持つ者、片目が異様に大きな者、虎の頭を持つ者など、多種多様な姿をした人間たちが、争いもせず普通に行き来している。
「こ、これは・・・!」
「そなたは驚くであろうな。だが、これは現実だ。互いがすべて異なるが故に、かえって己とは異なる者も受け入れ、認め合う。この世の極楽浄土よ。」
 ユニコーンは再び上空へと舞い上がる。
「極楽浄土・・・初めて聞く。それは何だ?」
 ルシャナはあまりのことに、相手が馬であることも、自分が先ほどまでは丁寧語で話していたことも、すっかり忘れてこう尋ねた。
「心配するな。もうすぐ全てを教えていただける。目的地に着いたぞ。」
 ユニコーンは地に降り立ち、ルシャナを下ろした。そこは険しい山の頂上で、そこに一人の男性が坐していた。瑠璃色の髪を伸ばし、見たこともない形の黒い衣を身につけている。
「待っていたよ、ルシャナ。先は長い。先ずはここに坐りなさい。・・・瑠衣、ご苦労であった。」
「は。失礼致します。」
 ルシャナはその男性の前に坐した。ユニコーンも、元の老人の姿になって、男性の脇に控える。

「私は、そなたが今坐っている地面を含む惑星ルシア。今はそなたと話がしやすい形の幻影を映しているが、本体はこの星そのものだ。」
 ルシャナは、頭が破裂しそうだった。このあまりのスケールの大きさに、自分はついて行けるのだろうか・・・。目の前にいる男性が真実を話しているのは明らかだ。現に、自分もたった今ユニコーンに乗せられてここへ連れて来られているではないか!
「驚いているね。しかし心配は要らぬ。そなたはすでに多くのことを感じ取っている。あとはほんの少しの勇気を以て、確かな証拠を元に『智恵』を確信すれば良い。
 ナターリアがそなたに、私の使いを意味する名を授けたのは賢明であった。そなたならば、私の智恵と意思を全く正しく人々に伝えることができる。そのように見込んで、ここに来てもらったのだ。」
 こうしてルシャナは、惑星ルシアから直接『智恵』の教えを受けることになった。

 さて、ルシャナが旅立った数日後の館では、クラリスが体調を崩していた。食欲が落ち、酸っぱい物を食べたがり、吐き気を伴っている。コルネリアは、もしやと思って女医を呼ぶようにフェリクスに頼んだ。
「ご懐妊されて二カ月です。」
 女医が言った。コルネリアは悔しさを滲ませる。
「やっぱり!あぁ、奥様のご懐妊がもう少し早く分かっとったら、旦那様は行かれんかったかもしれんとに!」
 クラリスは言った。
「それは違いますよ、コルネリア。ルシャナは、何が起きても行かなければならなかったのです。
 でも、これで私は、この子と共にルシャナを待つことができます。」
 彼女は、お腹を摩った。

一六.星の講義

 惑星ルシアは、このように語った・・・。

 人間ではとても数え切れないほど遠い昔、空間を占めていた闇を切り裂くようにして、一つの光が広がっていった。その過程であちこちに塵とガスとが渦を巻き、多くの星が生まれた。ルシアもまた塵とガスから生まれ、その時の流れで、自転しながらサルナート太陽の周りを廻るようになった。
 貯まった水が集まって海となり、あとは陸地となった。やがて、そこここに動き回る物たちが生まれ、その意思によって、様々に姿を変えてきた。空に憧れた者は翼を持ち、海を住処に望んだ者はヒレと鱗を、大地を踏む者は手足を持って暮らすようになった。人間もその一つだ。
 ただ、ルシアはその内部がマグマだけではなく、それと異なる力が溢れ、自転軸の両端から噴き出すと同時に吸い込まれ続けている。ルシアは、それを『法』、それが他に及ぼす影響を『法力』と名付けた。
 その法力によって人間や獣が影響を受け、形を変えたり、混じり合ったりしているのは、ルシャナがウユニ大陸で目にした通りである。また、彼はまだ知らないが、もう一つの自転軸の端にあたるライランカ大陸でも、人間たちの髪は藍色になっているとのことだ。

 さて、命は、全てそれぞれに役割を持って生まれ、それが尽きるとまた別のものになる。それでは命は何処から来て何処へ帰るかについてだが、それは星の内部深くにあって、魂たちはそこで一定期間休息して、また出てくる。その繰り返しなのだ。ちょうど星が塵とガスが集まって生まれ、やがて散ってまた別の星に生まれ変わるように。星のように大きなものも、草や蚊のように小さな命も、全て同じような過程を取る。この『循環する』という現象は、どうやら宇宙全体に共通する特徴であるようだ。

 それが故に、生まれること、病すること、老いること、死ぬことについて、喜ぶことも悲しむこともない。ましてや怒りや憎しみや、苦しみなどといった、一時の感情は、宇宙の理(ことわり)の、ほんの一部に過ぎない・・・。

 ただ、全ての現象には必ずそうなった理由・原因がある。善きことを為せば善き結果をもたらし、悪きことを為せば悪き結果をもたらす。それ故に、己が意思を思うように扱えるようになった人間は、よくよく注意して生きることができる数少ない生命体であって、その生を持てたことに常に感謝して生きる権利がある・・・。

「義務でなく権利なのですか?」
 ルシャナが問うた。
「そうだ。何故ならそれが出来るのがほぼ人間のみだからだ。怒り憎しみ過ごすより、他の者のために何かを為したり感謝したりしているほうが楽しく心地よいはずだ。それこそは人として生まれた者だけが有することが可能な権利である。
 さらに、人間にのみ『循環する運命』から離れる可能性が用意されている。それが『阿頼耶識あらやしき』だ・・・。」
「阿頼耶識とは、何ですか?」
「意識界の下に無意識界があるのだが、更にその下で働く感覚が存在する。それに目覚めた者は、記憶や身体を失うこと無く、生き続けるのだそうだ。それは今から一万年前に近くを通り過ぎた彗星から聞いた話だが。残念ながら、我が大地には、まだそのような人間は現れていないがな。
 さて・・・。ルシャナ、もうそなたにも『魂のゆりかご』を見せても良かろう。それが、私がそなたに話してきた理(ことわり)が事実だという証になるからだ。
 そこには、争い事もない、悲しみもない。それが先ほど瑠衣が口にした極楽浄土という場所だ。
 瑠衣、『魂のゆりかご』まで連れて行ってやれ。そなたにとっては、これが最後の務めとなるが。」
「畏まりました。」
 老人は再びユニコーンになった。
「待って下さい。最後の務め、とは、どういうことですか?」
 ルシャナが尋ねる。
「先ほども言ったことだが、命は全ていつか終わる。この瑠衣もまた、今その生を終える時を迎えているのだ。さあ、その生を終えるに相応しい大切な務めを瑠衣に果たさせてやれ。」
 ユニコーンも言った。
「そうだ。私は今、とても重要な務めを果たせる幸せに満ちている。行こう、『魂のゆりかご』へ!」

 ルシャナを乗せた瑠衣は、火口をどこまでも下っていった。ルシャナには数時間か数日間か判らなくなるほどその時間は長かった・
「ずいぶん深いな。」
「あぁ。なんといっても星の中心だからな。」
「星の中心?!」
「そういちいち驚くでない。まあ、無理もないが。・・・あれがそうだ。」
 計り知れない大きさの塊が見えた。その中に数え切れないほどの光りの粒がある。
「私も間もなくこれらの一つとなる。」
 瑠衣は静かに言った。

 またはるかに遠い道のりを経て元の火口に帰ってきた。瑠衣から下りたルシャナに向かって、ルシアが話しかけた。
「ルシャナ、今から私がそなたの身体を借りて、瑠衣の魂を帰す。何分にも、実体を以て為さねば、事実は変えられぬからな。」
 ルシャナは言った。
「それでは、瑠衣殿の命を私が断つことになるのでは?気が進みませぬ。」
「そうか。そなたにも即座には全ての智恵を理解することはできなんだか・・・。しかし、『実践』して初めて『智恵』は『智恵』となるのだ。そなたは、今はただ私に身体を任せきり、事実をしっかり見届けておけば良い。」
 ルシアの幻影は、ルシャナの中に入った。
「瑠衣、これまでご苦労だった。これより、そなたの魂を帰す。・・・ルシャナ、よく見ておけ。これが魂帰しの儀式だ。」

 瑠衣が最期の言葉を述べる。
「あぁ、私は星のために尽くす者になり、今とても大切なお役目をも果たして命を終えることができる。なんと幸せな生涯を過ごすことができたのだろう・・・。ルシア様、本当にありがとうございました。ルシャナ殿、そなたとはまたいずれかの機会にお話しすることが出来たらと思う。それでは、さらばでござる・・・。」
 瑠衣の身体を、まばゆい光が覆う。ルシアが手をかざすと、光はその動きの通りに動き、火口の下へと消えていった。
 ルシアが抜けたルシャナの身体は、へなへなと崩れ落ちた。
「瑠衣殿・・・。」
 最初に問うた老人、迎えに来てくれたユニコーン・・・たった三度しか接してなくても、瑠衣は彼を導いてくれた恩人であった。
 ルシアは、優しく彼に言った。
「瑠衣は、そなたに送られて本望であったと思うぞ。そなたを始め数多くの者たちに善行を為したため、次の生はより善きものとなろう。あの者の幸せに想いを馳せるがよい。
 ・・・これにて、私とそなたとの対話も終わりだ。この場にて見聞きしたこと、またこれからそなたが思うままを、これより後に人間界全体に広め、人々の悲しみ苦しみを滅して救え。それこそがそなたの使命である。」
「ルシア様・・・。」
 ルシャナは、星の精を仰いだ。星の精の顔は、慈悲に溢れていた。

「新たにそなたを元の場所まで送り届ける者が来ておる。それに乗って行け。」
 後ろを振り返ると、巨大な鳥がいた・・・。

一七.帰還

 カルタナまでの帰り道、ルシャナは彼を乗せた鳥と一時間ほど話をした。
 鳥は、ガルーダと呼ばれる巨大鳥だ。およそ二百年前にあの火口で卵から孵化し、それ以来ずっとそこで暮らしている。食事は、彼を精霊鳥と崇める近くの人間たちが貢ぎ物として数日に一度持って来てくれる果物や肉類で、自分はその代わりに人間たちができないような大きな規模の作業を少し手伝ったり、ルシアから聞いた話を伝えたりしている。
 星の精ルシアとは、雛の頃からごく自然に会っており、何故か分からぬままに仕える形を取っている。
「本当に、理由が分からぬのだよ。あの方に会うと、知らぬ間に尊敬し、付き従う。心が安んじられて、ずっとお側に居たくなるのだ。」
 ルシャナは言った。
「それは、おそらく本能だろう。ルシア様は、なんといってもこの星の精。この星あっての私たちなのだからな。それに、あの方から教えられた事どもは、私にも全く正しく真実と映る。精霊鳥たるそなたに、それが感じられぬ筈がない。」
 ガルーダは感心した。
「なるほどな。そなたもさすがにルシア様が自らお選びになった者よ。私がずっとわからなかったものを瞬時に答えられるとは。」

 館の前に着いたのは夜だった。ガルーダは、ルシャナを下ろすと普通の鷹と見分けがつかないほどに小さくなり、彼の肩に乗った。
「悪いが、一晩だけ泊めてくれ。夜は目が見えにくい。また、私は瑠衣殿のように、人間の姿にはなれぬのだ。」
 館を旅立ってから、どのくらい経っているのだろう・・・。その時のルシャナには、普通の時間の感覚が無くなっていた。
 彼は門を叩いた。中の気配が何やら慌ただしい。
「ルシャナ・フォン・トラオベである!門を開けよ!」
 門番のマテウスが小窓から顔を出した。
「だ、旦那様!お帰りなさいませ!只今お通しいたします!今、奥様が産気づいておいでです!」
「何?!」
 ルシャナは、慌ててクラリスの部屋に駆け込んだ。中では、コルネリアを始めとする女性の使用人たちがベッドを取り囲んでいたが、彼が扉を勢いよく開けて入ってきたのを見ると、直ぐさま道を空けた。彼はベッドに近づいた。
「クラリス!」
 彼の声に、クラリスは反応した。手を伸ばす。
「ルシャナ・・・?ルシャナなのね!・・・あぁ、よかった!今、貴方の子が産まれるのです。・・・」
 彼女は痛みに耐えながら、夫の手を握った。ルシャナもその手をしっかり握って離さなかった。ガルーダは彼の肩から離れて、窓の淵に止まった。
(本当は、たまには変わった場所で静かな一夜をと思うたが、どうやらそうもいかぬらしい。・・・ルシア様はきっとこれをご承知の上でルシャナ殿を帰されたのだ。)
 ルシャナは、コルネリアに尋ねた。
「産婆はどうした?」
「先ほど呼びにやらせたのですが・・・。それにしても、旦那様、よく今夜お戻り下さいました!奥様も安心されていることでしょう。」
「そうだ、私が旅立ってから、どのくらい経つのだ?今の私には、今が何年の何月何日なのか分かっていないのだ。」
「そげんでしたと。旦那様がお立ちになってから、年はまだ変わっておりません。今日はカルタナ暦一四四〇年の一二月二〇日でございます。実は、旦那様がお立ちになった数日後に、奥様がご懐妊二カ月と分かりました。」
「そうであったか。」
「その時、私がもう少し早く分かっていたらと申し上げたところ、奥様は、旦那様はきっと何が起ころうとも行かれたであろうと仰って・・・。」
 コルネリアはそこで感極まって言葉を詰まらせた。
「ありがとう、コルネリア・・・。皆の者も、留守中ご苦労であった!心より礼を申す。」
 彼は、その場の者たちに頭を下げた。そして改めて今まさに産みの苦しみに耐えている妻の顔を撫でてやる。
「クラリス、すまなかった。もう心配は要らぬ!私が付いている!頑張れ!」
 クラリスの顔に安堵の表情が浮かぶ。
「ルシャナ・・・。」
 産婆が到着し、赤子の元気な泣き声が響き渡った。女の子だった。ルシャナは、その子を『ルイーザ』と名付けた。

 ルシャナが帰ってきたことと、娘が生まれたことは、直ぐさまキルシュヴァン城に伝えられた。
「ルシャナは、思っていたよりも早く帰ることができたのですね。さっそく話を聞きたいところですが、今は家族で過ごさせてあげましょう。」
 ナターリアが言った。
「そうだね。私がそのように手紙を書く。何か祝いの品も用意しよう。」
 ジョセフも同意見だった。
「ところで、ジョンキーユのことはどうする?とりあえずは、ラオプと組んで撃退するにしても、あまり戦闘を長引かせるわけにもいくまい。」
 この頃、隣り合うオルニア大陸西部の一国・ジョンキーユ王国が、海を越えてカルタナまで攻めてくるようになっていた。どうやら、オルニア大陸の内部では、まだ戦乱が続いていて、隣の大国・総典王国に飲み込まれようとしているようだ。戦死者を多く出している上に、国土の荒廃と農業政策の度重なる失敗が追い打ちをかけ、国民を養うだけの食料が確保できず、餓死者も急増しているとの噂が流れている。国王シャルル七世は、おそらくカルタナの豊かさに目を付けたのだろう。

 ルシャナは、しばらくのあいだ妻と子供に付き添いつつ、葡萄畑の管理に当たった。畑に坐することも再開した。
 星の精ルシアから学んだことは、やはり大きく、それまでに見ていたこと、考えていたことが、すっかり変わっているかのようだった。空は青く、大地はよく肥え、冬でも葡萄の木は命を感じさせてくる。目には周りの色が飛び込んでくるように見え、遠くの小さな音もよく聞こえる。食器棚の引き出しも、少しでも空いていようものなら、すぐ目に付くようになった。

 王室には、すぐにでもご挨拶に出向かねばと思いつつ、赤子と妻が心配で離れられない、そんな日が三日ほど過ぎた頃、キルシュヴァン城から、ナターリアとジョセフからの手紙と祝いの品々が届いた。
 手紙には、祝いの言葉に添えて、しばらくは家族の元にいてあげなさい、との暖かい言葉が多く記されていたが、三ヶ月ほど前からオルニア大陸からの攻撃を受けているとも書かれていた。
「オルニア大陸からの攻撃だと?」
 これは彼が思いもしない事態だった。カルタナの二国は防戦に努めるであろうが、それだけではおそらく収まるまい。

 祝いの品の中に、筆と大量の紙が含まれていた。王室がそのように意図したものかは分からぬが、何か書いてみよう。ルシア様が仰っていたではないか、見聞きしたことや考えたことを広め、苦しみ悲しみを滅し、人々を救え!と・・・。
 ルシャナは、筆を執った。その書物の名は『星法の書』。それは結局、彼の死まで九回に分けられて書き上げられる書物となった。

一八.星法の書

 『惑星ルシアの精から、私はこのように聞いた。』
 星法の書は、このような書き出しで始まった。それに続く本文の前半部分は、この前々章と重なるので割愛するが、とにかくルシャナは、星の精ルシアの言葉を一言一句違うことなく正確に記録に残そうとしたのである。
 そしてそれに続けて、自分自身の見解を
 『そして、私は以下のような考えに至る・・・』
という形で述べて、読み手にどこからがルシアの言葉で、どこからがルシャナの個人的な見解なのかを分かりやすく伝えた。以下は、その見解部分である。後に、最初の見解となるこの部分は『宇宙品|うちゅうぼん』と呼ばれた・・・。


<星法の書・宇宙品>

 そして、私は以下のような考えに至る・・・。

 かようにして、我々が立っているこの大地は、実は丸い。太陽が、アルムとイスカがそうであるように、闇たる宇宙の中を、一つの球体として一つの輪を描いて回っているのである。そのことは、水平線の向こうから近づいてくる船が、その帆の上から見えてくること、星々の動きなどから、充分に証明できる。
 ただ、我々が立っている惑星ルシアの特質として、北と南、双方の自転軸から物質を超えた力が噴き出し、また吸い込まれていることが、ルシアから説かれた。ルシアは、それを『法』、法が影響するところを『法力』と名付けたとのことだ。

 私が推測するに、法あるいは法力は、物質的な世界とは異なる『異空間』のものではないかと思われる。何故なら、物質的な世界では、星の中心はマグマという高温物質で満たされている筈だからだ。だが、私が見に行った『魂のゆりかご』付近は、星の中心にあるにも関わらず少しも熱さを感じなかった。これは法の働きを担う『魂のゆりかご』が、我々がいるこの空間とは違う処にあることを意味しているのではないだろうか。

 かようにして、我々人間には、はるかに及びも付かぬ規模の『営み』が存在することを、我々は知らなければならぬ。たとえ王であろうと全てを知り尽くすことは不可能であると知るべきだ。そのことを弁える者こそが真の賢者、智恵の主である。
 そうして、それを認識し、考えることができるのは、ほぼ人間だけであり、人間はそれが出来る類い希な恵まれた存在なのである。故に、人間には『全てに感謝する権利』がある、とルシアは述べた。
 全ての生命体は、何故生死を繰り返すのか。それは、各々が使命を果たすためだ。あるいは『生きる』ことそのものが使命となっている者もあるやもしれぬ。故に、他の人間が勝手な理由でその命を絶つことは許されぬことになる。

 また、ルシアは「善きことを為せば善き結果が、悪事を為せば悪き結果が起きる」と述べた。それは私自身も感じて止まぬところである。
 そして、各々の命が尽きた時、魂たちは、その生涯において自ら成したところにより、より善きところへ、あるいはより悪き結果へと変わるのである。私は魂を受け入れている『魂のゆりかご』を、実際に見た。それは惑星ルシアの中心で、魂たちを静かに優しく包み込んでいた。ルシアの命により、それを私に見せてくれたユニコーンの魂が、より善き処へ生まれ変わることを私は祈念する。

 ただひとつ、生命の繰り返しから抜け出る方法がある。善きことを限りなく積み重ね、その歓び楽しさを尽くしきって、意識界の下の無意識界さらに下の阿頼耶識に到達せしめることだ。生死を超え、静かな境地に入ること、このことより幸せなことは、おそらく無い。

 だから、人々よ!善きことを為せ。悪きことから逃れよ。
 善きことを見、善きことを聞き、善きことを嗅ぎ、善き言葉を話し、善きことを味わい、善きことを行い、善きことを思え。己の内なる声に耳傾けて、他でもなき自分自身の中に宝玉を見いだすことに気づくのだ。
 それこそが宇宙の理(ことわり)に適うことだからである!

――――――――――――――――

 ルシャナは、書き上がった文書を携えて、キルシュヴァン城に向かった。
「お陰様にて、星の精ルシアからさまざまなことを学ばせていただきました。
 その折に聞いた話を詳しく記録し、書き留めたものを本日お持ち致しましたので、お目通し頂ければと存じます。」
 と、彼は言って、「星法の書」を献上し、口頭ではそのあらましを述べた。ナターリア、ジョセフ、ミヒャエル等と政府要人、城の使用人たちが、彼の報告を聞いていた。
 ナターリアが皆を代表して口を開く。それも国王の役目だ。
「おおよその様子は分かりました。その書物にはより詳しい内容が記されているのですね。あとから読ませてもらいます。
 ルシャナ、よくここまで深くこの星の意思を聞いてきてくれました。
 私たちは、今までこの星のことや宇宙をあまりにも知らなすぎました。私はこの国において貴方の言葉を証明するために、その極南にあるというウユニ大陸に使節団を派遣しましょう。
 それで、貴方自身は『阿頼耶識』に目覚めたのですか?」
 ルシャナは応えた。
「いいえ、おそらくはまだでしょう。星の精から直接教えを受けたからといって、宇宙のことわりをすぐに身につけられるとはいえません。現に、私は今、己の妻と子を他の人々よりも愛おしく思うのです。真に人の平等、命の平等を実感するには至っていないのです。」
 ミヒャエルが言った。
「ルシャナよ、それは人として当然のことではないのか。また、そこから始めなければ、何のための法となろう。己も己の肉親もまた人なのだ。愛することを厭うこと勿れ。」
「公王陛下・・・。」
 ルシャナは頭を垂れた。ナターリアが言った。
義父ちちうえが仰る通りだと、私も思いますよ。これからも貴方が考えたことを、私たちに伝えて下さい。この文書は、これから私たちが目を通してみて、妥当だと思えたら、本として出版しましょう。国の内外に広く知ってもらうのです。」
「は。有難き幸せ。」
 傅く彼に、ナターリアは微笑んだ。ジョセフが言った。
「ところでな・・・。手紙にも記したように、今度はオルニアの小国が我が大陸に攻め寄せてきておる。
 ナターリアや父、それに皆とも相談したのだが・・・そなた、今一度参与を務める気はないか?私は特に希望している。」
「ジョセフ公卿殿下・・・。」
 ルシャナが周りを見渡すと、目が合った者たち全てが彼を温かく見、頷いた。それはこの人々の一致した希望なのだ、と彼は思った。
「畏まりました。可能な限り、そのお役目を果たせるよう努めます。」
 周りから拍手が湧き起こる。ナターリアが最終決定を下した。
「ルシャナ・フォン・トラオベ、本日よりそなたを参与とします。その生涯尽きるまで参与の務めを果たすよう。」
 特命ではない。正式な参与だということか・・・。

 それから間もなく「星法の書」出版のための準備が始まり、外務大臣を団長とするウユニへの使節団がカルタナの名産品を積んだ船で旅立っていった・・・。

一九.オルニア統一

 ルシャナは、クラリスとルイーザを連れて、マリウス侯爵家を訪れた。そこで密かにラオプの国王夫妻に、ルイーザを見て貰いたかったのである。エーベルハルトもマルレーンも、ルイーザが生まれたことをとても喜んでくれた。
「初孫がそなた達のところとはな。シャルロッテが今八ヶ月なのだ。」
 エーベルハルトは、顔を綻ばせた。赤子はマルレーンの胸に抱かれてすやすや眠っている。
「それはおめでとうございます。健やかなご誕生を願っております。」
 ルシャナは礼を尽くして言った。
「ありがとう。しかし、私もそろそろラファエルに王位を譲ろうかと考えていた矢先に、今度はオルニアからの攻撃だ。ジョンキーユは取るに足らぬ国だが、何をしでかすか分からぬ国でもある。それに、背後には総典王国が控えている。老いゆく身に心労が尽きぬわ。」
 件のジョンキーユ王国と海峡を挟んでいるのは、ラオプのほうなのだ。
「エーベルハルト陛下、そのことについては、一つご報告がございます。私はこの度ナターリア陛下より参与に任じられました。ジョンキーユからの攻撃を止めるため、しばらくは、お国に幾度となくもお出入りをさせて頂くことになるかと存じます。」
 エーベルハルトの顔に明るさが宿った。
「おぉ、そなたがまたやってくれるのか!だが、此度は婚姻関係を結ぶ訳にはいくまい。もっとも、グロスアイヒェとは、たまたま結果がそうなっただけだと、そなたはそう申すであろうな。」
 国王は苦笑した。
「はい。仰せの通りにございます。・・・ところで、エーベルハルト陛下、たしか、お国にはオルニア出身の方がおいでと伺いましたが?」
「ああ。ゴーチエとサユリのことだな。会いたければ好きなだけ会わせてやるぞ。情報が欲しいのであろう?」
 エーベルハルトも、もうルシャナが何をしたいのかの察しはついている。
「御意。エーベルハルト陛下のお力を得られれば、それに勝る喜びはございません。」
「ふっ、上手く乗せるのぉ。分かった、分かった。近いうちにマールノード城に来るがよい。ナターリア殿にそのように伝えておく。」

 ゴーチエ・セギーと中塚沙友里は、共にオルニアからの亡命者である。ジョンキーユの海軍二等兵だったゴーチエは、訓練中に遭難。沖合いに流されて、総典王国領内の海岸にただ一人の生き残りとして打ち上げられた。それを見つけて介抱したのがその海岸一帯を所有する武藤家だ。その武藤家に仕えていた侍女の沙友里が、やがてゴーチエと恋仲になった。当然許される筈もなく、二人は決死の覚悟で小さなヨットに乗り込み、北側の海峡を抜けて、西のカルタナ大陸に辿り着いた、という訳である。
 カルタナ大陸では、二人にスパイの疑いがかかった。そこで、エーベルハルトは彼らを五年間、完全に城内に留めおき、オルニアの情報を話して貰うことにした。戸籍を作り、結婚もさせて、中庭のある部屋に住まわせている。十年経った今では部屋を出ることも許していた。
 ジョセフやナターリアが、ジョンキーユ王国で戦死者や餓死者が急増していると知っていたのも、その二人からエーベルハルトが得た情報だった。

 数日後、ルシャナはその二人と面会した。
「私は、グロスアイヒェの参与ルシャナ。此度はそなた達にいろいろ教えて欲しくて参ったのだ。今、ジョンキーユがラオプに攻め込んできているのは、もう知っているね。ジョンキーユと総典王国、それぞれどのような国なのか教えてくれ。」
 ルシャナの穏やかな口調と優しそうな雰囲気に、二人は安心して受け答えすることができた。彼らの話によれば・・・。

 まず、オルニア大陸は今、総典王国がほぼ全土を席巻して統一目前である。国王は小田切家が代々受け継いでおり、現在の当主は一二代目の小田切兼政。広大になった領土から得られる莫大な穀物や農産物、家畜などで国民を潤して、更に支持を集めている。侵攻された土地の人々も、自分たちが元々の国民と同等の恩恵を受けられるようになると、小田切家を主君と仰ぐ。
「名君だね。」
 ルシャナがそう言うと、沙友里は誇らしげに頷いた。
「はい。あの方こそ、オルニア大陸を治めるに相応しいお方でございます。でも、ジョンキーユは・・・。」
 彼女の顔が曇る。
「どうした?ジョンキーユは違うのか?」
 ルシャナは、さらに優しく尋ねた。ゴーチエが答えた。
「ジョンキーユというところでは、人はただの駒でございます。・・・」

 ジョンキーユでは、古来から生まれや年齢などによって序列が決まってしまい、下の者は上の者に絶対服従しなければならない。特に君主は人々の最上位にあるのが当たり前とされている。それ故に、ただ農業指導者の家に生まれただけの、才覚のない者が農業指導をして、かえって収穫量を少なくしてしまったり、国王が軍を優先するあまり、農機具や漁船を全て軍の所属にして庶民の取り分を僅かにしたりしている。食べるものがなくなった人々は、翌年に植えるはずの種も草の根も全て食べ尽くし、暖を取るために山の木も取り尽くして、洪水が増えて畑も荒れ、ますます飢えていく。魚を獲ろうにも船の使用料を払えなければ海に出ることもできないのだ。また、それは下級兵士も同じで、配給はほとんど上層部に取られてしまう。
「総典王国に行くまでは、どんなに苦しくてもそれが普通だと思っていました。でも、それは間違いでした。私の家族も仲間も、みな飢えて死にました・・・。」
 ゴーチエは、声を詰まらせた。ルシャナは慈悲心を起こして、その肩を抱いてやった。
「辛かったのだな。今、ここにはそのようなことはない。安心して暮らすが良いぞ。」
「ありがとうございます・・・。」
 それにしても、ジョンキーユという所、国とは呼べぬほど酷いらしいな・・・と、ルシャナは思った。そういえば、二人に会う前に視察したジョンキーユの軍船も、海峡を超えてきたというにはあまりにも粗末な木造船であった。自刃した兵士達の遺体も骨と皮ばかりのようだ。・・・ジョンキーユは、そう長くはあるまい。

 同じ頃、オルニアの大部分を支配下に収めた総典王国の国王・小田切兼政は、オルニア統一の最終段階として、ジョンキーユへ侵攻しようとしているところだった。
 兼政自らが率いた総典王国の軍勢は、忍びの者たちに集めさせた情報から、国王がいつ何処で何をしているかを詳しく把握した上で、国王が確実に城に居る時を見計らい、一気に全軍を動かしてその居城を取り囲んだ。
 あまりの速さに、ジョンキーユの領民達は息を呑み、あるいは粗末な家に逃げて怯えるしかなかった。中には刃向かった者達もいたが、栄養失調でろくに戦えもせず倒れた。総典の兵達は、そんな彼らを憐れみ、食べ物を分けてやった。
「何故だ?何故助ける?」
「さあな。ただ人として見ておれんのだ。我が国は情け深く豊かだからな。」
 城は完全に包囲された。火矢が放たれる。ジョンキーユ国王シャルル七世は、それでも生きながらえようとして降伏を選んだ。だが、城を出てしばらく歩いたところで、何処からともなく走り込んできた農民の一人に体当たりされてその農民ともども井戸の底へ突き落とされた。
「国を食らい、肥え太った者よ、今こそ我らの飢えを苦しみを、命で償え!」
 農民は国王シャルルの頭を水の中に押し込みながらこう叫び、自らもそのまま溺死した・・・。
 そのことを聞いた兼政は、こう命じた。
「即刻、その農民の名を調べ、現場の井戸を完全に埋めて、その上に彼の正義を讃える碑を建てよ。
 そして、我が総典王国の名において、全ての飢えたる者達を救え!」

 オルニアの統一は、こうして完了した。広大な大地には、溢れんばかりの農作物が実り、その一部を家畜たちがのんびりと食む。なんと美しい光景であろうか・・・兼政は、オルニアの平和を満喫していた。
 そこへ、海峡を挟んで隣り合うカルタナ大陸からの使者が到着予定との知らせが入った。そういえば、ジョンキーユはカルタナ大陸に攻め込んでいたという。その国の人々にしてみれば、様子を見たいと思うのも当然であろう。
 兼政は、その使者に会ってみることにした。使者は、ルシャナと名乗った。・・・

二十.総典王国

 今、ルシャナは、総典王国の国王の前にいる。
「お目にかかれて光栄でございます。私は、カルタナ大陸にあるグロスアイヒェ王国で参与を務めるルシャナ・フォン・トラオベと申します。」
 兼政は、使者を見た。やや白い肌、褐色の髪・・・自国の人々とは、見た目にも明らかな違いがある。
「遠いところ、誠に恐れ入る。私は小田切兼政。この国の国王でござる。」
「ここに来る途中で、この大陸全土を統一されたと伺いました。おめでとうございます。」
「その通り。ジョンキーユは滅び申した。今やこの大陸は総典王国そのものと言ってもよい。あなた方からはこの地はオルニア大陸と呼ばれているそうですな。
 私もあなた方の国について知りたいのだが、話してはくれまいか?」
 使者は、兼政を見た。
「ジョンキーユは、我が大陸に攻め込んでいました。甚だ失礼ですが、お国には、今後、他国に進出されるご予定はおありですか?」
 やはりそこが気にかかるか・・・。兼政は微笑んだ。
「それはござらぬ。我が国は豊かで、我々は満足を知っている。他に何を求める必要があろうか。また、一つの国としてまとまって維持していける範囲は限られている。他の大陸をも支配しようとすることはない。ご安心召されよ。」
 なるほど、この国王は確かに名君のようだ。それに状況は変わった。その言葉通りに考えても良かろう。・・・ルシャナは思った。
「それを伺い、安堵いたしました。もし国王陛下の思し召しがありますれば、今後は我が大陸の二つの国と平和条約を結んで戴き、交易をしたいとの、我が主君からの言伝でございます。我が国の名産品を幾つかお持ちしておりますので、是非ともお試しのほどを。」
「それはかたじけない。ルシャナ殿と言われたな、数日の間ここにお泊まり願って、ゆるりとお国のお話を聞かせて下され。私も、我が国についてご紹介しよう。」
「は。有り難き幸せでございます。」
 こうして、ルシャナはオルニア大陸にしばらく留まることになった。

 そして、話が落ち着いた頃を見計らって、ルシャナは小さな箱を取り出した。
「実は、貴国の方々がお二人、数年前にカルタナまで来られたようなのですが、見つけられた時には小船の中で既に亡くなっていたとのことです。せめて、形見だけでも故郷にと思い、持って参りました。もしご家族がいらっしゃいましたら、お渡し頂ければと存じます。」
 彼は、箱を国王に差し出した。兼政が箱を開けてみると、一振りの黒い小刀と太めのかんざしが入っている。兼政は、それを見て少し動揺しかけたが、それをルシャナには覚られまいとしたようだった。
「そうでござったか。分かり申した。後は任されよ。・・・」

 それにしても・・総典王国の人々が着ている民族衣装は、ルシア様と瑠衣殿がお召しになっていたものとよく似ている。何故だろう・・・。

 そうして幾度か話をしているうちに、兼政は『星法の書』についても触れた。
「貴国の名産品は、確かに素晴らしいものばかりでござるな。是非とも交易をしたいと、ご主君にお伝え下され。我が国からは、檜という芳しい木材と、米という穀物を特にお薦めしたい。貴殿も口にされた白い穀物が、それでござる。
 ところで、この書物の著者は貴殿になっているようでござるが?」
「はい。それは全て事実で、私が見聞きしたことをありのままに記述したものでございます。書物にあるウユニ大陸も、使節団が事実であることを証言してくれました。」
 とても誠のこととは思って貰えぬだろうと思い込んでルシャナは言った。ところが兼政は、彼をしばらく見つめてから、こう言ったのである。
「実は、翼と角を持つ馬の話は、我が国の伝承にもあるのでござる。しかも、その名は瑠衣。馬に姿を変える前は、誉れ高き名医であったと・・・。」
「えっ?!瑠衣殿が貴国の・・・?それに、伝承にも残るほどの名医であったと?」
 ルシャナは驚いて尋ねた。兼政は、その伝承を彼に話して聞かせた・・・。

 遠い遠い遙かな昔、この地でもまだ幾つもの勢力が絶え間なく戦いを続けていた頃のことだ。医者たちも怪我人や病人のところを寝る間も惜しんで廻る毎日だった。その最中にあって、名医の誉れ高き瑠衣は、体が幾つあっても足らぬほどだった。そのうちに彼はこう願うようになった。
「あぁ、もっと速く走れたら、もっと多くの患者達のところに行けるのに!疾風を行く馬の如くに!いや、それでも足らぬ!翼で空を飛べたら!」
 幾年もの年月が過ぎても、彼の思いは強くなる一方であった。そして、彼が天寿を全うしたと思われた時、彼の足の先は蹄と化し、みるみるうちに翼を持った馬の姿となって大空へ消え、それきり帰って来なかった・・・。

「瑠衣殿・・・。」
 ルシャナの目からは涙がこぼれていた。そうか、瑠衣殿はもともと人であり、多くの人を救い続けたが為に、その縁でルシア様に仕える身になり、人の姿にもなれたのか。
「書物によると、貴殿はその方のことをとても大切に思われているようでござるな。ご心中お察しする。」
 兼政は、静かに言った。
「彼は、私にとって恩人なのです。今はもう姿を見ることはできませんが、私の心には彼が付いてくれているような気が致します。・・・
 国王陛下、私にはお国の民族衣装が、瑠衣殿と似ているような気がしておりました。ただ今のお話を伺い、それも納得がいきます。ここは、瑠衣殿の生まれ故郷だったのですね。」
「そうなりますな。そして貴殿がこの地に見えられたのも、偶然ではないのかも知れませぬ。
 これからも、時折は遊びに来て下され。貴殿と話していると、私は心が安らぐのでござる。」
 ルシャナは、瑠衣のことを思い、万感の思いでオルニア大陸をあとにした。

 ルシャナは、使節の役割を果たすと、帰りの船に乗り組んだ。陸地が見えなくなってから、或る船室の扉を静かにノックすると、二人の人物が顔を覗かせた。ゴーチエと沙友理だった。
「本当に、良かったのかね?」
 二人は彼の前に平伏して言った。
「ルシャナ様、私どもはあなた様になんとお詫びとお礼を申し上げたら良いか。・・・これからは、私どもは総典王国の者ではなく、あなた様の完全なる臣下でございます!」
 実は、駆け落ちの話は嘘で、この二人は総典王国の隠密だった。国王直轄の忍びである。何年も何年もラオプの街中を調べ廻ることができる日を待っていたのだが、エーベルハルトは警戒して一向に城から出してくれる気配を見せない。そのうちに、ルシャナと話す機会ができ、自分たちがルシャナやエーベルハルトを欺いていることに堪えられなくなり、ルシャナに全てを打ち明けたのだった。
「それなら、死んだことにしよう。名を変えて、別人として生きるのだ。エーベルハルト陛下には、私から伝える。私の葡萄畑で働いてくれ。そこならば見つかるまい。」
「ルシャナ様・・・。」
 そういう経緯の後で、ルシャナは二人を船の航路の案内役にしつつ、ひと目でも故郷に別れを告げさせたくて船に乗せて来ていたのだ。

 カルタナに帰ったルシャナは、エーベルハルトとナターリアに許可を貰い、二人をそのまま葡萄畑の使用人とした。エーベルハルトは、代わりに総典王国の詳しい内情を明かすことを条件にしたが。ルシャナにも二人にも、そんな条件はどうでも良かった。
 ラオプ・グロスアイヒェ両国が、それぞれに総典王国と平和条約を締結して交易を始めたのは、それから数ヶ月後のことだ。・・・

 そして、初夏のグリュンヒューゲルの葡萄畑では、結い上げていた髪を切り、周りの人々ともすっかり馴染んだ一人の植木職人見習いとその妻の姿があった。妻が女中頭のコルネリアと一緒に弁当を運んでくる。
「旦那様!皆さん!お昼ご飯をお持ちしました!」


<星法の書・国家品>

 そして、私は以下のような考えに至る・・・。

 全ての生命体は、何らかの使命を帯びて生きているという点において、互いに平等である。『生きている』ことが、全く共通しているからである。
 私は、人々のあいだに序列を設けた国が存在したことを知った。しかし、人間界よりはるかに大きな視点から考えれば、そのような序列は無意味である。更に、それによって、才無き者が人や物の動きを裁くとすれば、なお一層の不幸の種となろう。

 ましてや『国のために』人々に対して何某かの悪事を為すのは、全くの無意味である。何故なら『国』とは、単に人々が暮らすために人間の誰かが作り上げた手段に過ぎず、実体が無いものだからである。
 例えば、野原に生えていた藁を編んで庵を成したとしよう。人はそこで暮らし、その庵が古くなったり、他の場所に移ったりする場合には、その庵をほぐして去る。あとには『野原』のみが残るのだ。国とは、所詮その庵のようなものに過ぎない。生まれる時、人々は国や時、周りの環境を自分で選んで生まれることはできない。それ故に、それらの外的要因によって、差別化されるべきではない。
 『差別』は明らかな悪事であるが、社会的秩序を保つためにもし何らかの『区別』が必要であるならば、その基準は、その人が自ら為した行為や考え方によらねばならぬのであって、環境や生命そのものによるべきではないのだ。
 考え方にしても、人は己が外から受けるものに左右させるため、正しく知識を持つこと、正しく行動すること、それ以外に大切なことはない。この場合の正しさとは何か。それは、中立公平である。その人の心が向かう真の良心である。刹那的・個人的な幸福ではなく、恒久的・普遍的な幸せを願う心から出るものである。

二一.覚変化かくへんげ

 再び、オルニア大陸・・・。
 国が一つになっても、人々の心が必ずしも一つにまとまった訳ではなかった。最貧国ジョンキーユを取り込んだことによって、他の地域からその分の負担を求められることに不満を抱く者が出てきたのだ。特に、油井岡ゆいおか領を治めていた田所家では、兼政を支持した隠居の幸修ゆきなおと、家長の幸隆ゆきたかとの間で確執が生じていた。
「我が御主君は小田切家。兼政様は大陸統一を果たされた偉大な方であるぞ。何の不服がある?!」
 隠居は息子にそう諭した。田所家は古くから小田切家に直接仕えてきた旗本の中でもひときわ大きな家柄である。
「しかし、此度の年貢増額には、かのジョンキーユ復興のための費用も含まれているというではありませんか!非道の限りを尽くして自滅したも等しい国のために、何故に我らが負担を強いられるのですか!」
 息子は納得せずに父に食い下がる。
「ジョンキーユは滅んだ。その地は、今や我が国なのだ。そこに暮らしているのは、かつての悪政のために苦しみ抜いた、我らと同じ総典王国の領民なのだ。助けて何が悪い!幸隆、一度かの地を自分の目で見てこい。見て来てから、ものを言うが良い!」
 幸隆は、かつてのジョンキーユがあった土地へと向かった。現在は小田切家直轄になっている、その地までは馬でも十日かかる。

 領の境には大きな川が流れている。ジョンキーユの人々がいくら飢えても国から出なかったのも、実は出なかったのではなく、この川が行く手を阻み、なおかつ見張りの兵がいて、国から逃れようとする人々を残らず射殺していたからであった。数ヶ月前の攻略の際には、予め組んでおいた橋を、夜間に一晩かけて川岸に運んで進んだのだ。そのことは幸隆も参戦していて知っている。統一後、そこに立派な橋が架け直されたのは、言うまでもない。現在も、むやみな流出を食い止めるために兼政が差し向けた兵が立っているが、彼らは人々に支援が来るまで待つように説得し続けている。
「これは・・・。」
 彼は、改めて草一つ生えず荒れた畑と痩せ衰えた人々を見た。獣の姿もない。その時、一人の若者が彼ら一行に気づいて話しかけてきた。
「もし、そこのお侍様方・・・何か食べ物を下さいませんか・・・。」
 幸隆は、少し考えた。すぐにでも分け与えたいが、そうするときっと他の者たちも次から次へと続き、自分たちは帰れなくなるだろう・・・。咄嗟にこう言った。
「悪いが、私は視察に来ているだけで、ここにいる全員に与えるほどのものは持ち合わせていないのだ。しかし、我らが帰って報告すれば、我が領内からも支援する用意がある。とりあえず、子供だけを集めて来なさい。まず今日のところは子供からだ。その道理は、そなたにも分かるであろう?」
 若者は、村の子供を十五人ほど連れてきた。幸隆はその子たちに食べ物を分け与えて、その場で食べさせた。あとから大人が取り上げてしまうのを警戒したのだ。そして、馬に与える飼い葉を残して、自分たちの兵糧も無くなった。
「我が名は、田所幸隆。この地より遠く離れた地を治めている。しばし待てば遠からず私と同じように遠くからも、近くからも、そなたらを助ける者たちが大勢来よう。それまでの辛抱だ。必ず来る。待っておるのだぞ!」
 若者と子供たちは、一様に頭を下げた・・・。

 幸隆は、そのまま十日間も何も食べずに馬だけを食わせながら走って帰った。十日ぶりの飯は殊の外うまかった。他の兵たちも同じだ。かの地の人々は、いつまでと考えるとも及ばず、この飢えと向き合ってきたのか・・・。彼は心を痛めた。
 城に備蓄してあった米のおおよそを積み出し、また豪華な装飾品を小田切家や諸侯に買い取ってもらって米や木材、鍋や釜や肉に変えて、かの地に戻った。
 その間は何も考えなかった。

 再び帰ってきた彼を、隠居は殊の外褒めた。
「幸隆、ようやった!これからも、支援は行わねばな。」
「は。父上の仰ったことが分かりました。この城も、金に換えられればと思うほどです。」
「そうだな。これから我が家の家訓は質素堅実と慈悲と致そう。」

 田所家が旧ジョンキーユ領民に施しをしたという話は、兼政のみならず諸侯にも瞬く間に伝わった。兼政は、すぐに幸隆を呼び出して、こう言った。
「そなたがこのあいだ家財を買ってくれと言ってきたのは、ジョンキーユ領民に施しを為す為だったのだな。その心掛け、誠に天晴れである。褒美を取らす。何か望みはないか?何なりと申すが良い。」
 幸隆は答えた。
「恐れながら、上様に申し上げます。我が居城を買ってはいただけませぬか?それも支援に使いとう存じます。」
「何っ?城を売ると申すか?」
「は。」
 兼政は、しばらく考えていたが、急に笑い出した。呆気に取られた幸隆に近づく。
「はっはっはっ、此奴め、やりよるわ。愉快愉快!その願い、聞き届けて遣わす。
 これより、新しき館をそなたの領内に建てさせる故、そこに住め。城は取り壊して、その建材を旧ジョンキーユの地に用いよう。・・・そして、そなたにこれを進ぜる。宝の書だ。」
 兼政は、幸隆に『星法の書』の写本を手渡した。
「そなたが為したことは、この書にある『善きこと』に当たろう。今後とも励めよ。」
 そして、田所家への年貢額を元通りにして、その徳に報いた。それを知った諸侯は、彼に倣って飢えた人々を進んで支援するようになった。中には欲得ずくの者もあったかも知れないが、ほとんどの者は、彼の献身に心打たれるか、支援の仕方を知ったが故の行動だった。
 支援が集まり、旧ジョンキーユの人々は、全て飢えから救われた。人々は総典王国に忠誠を誓った。もう大丈夫だと判断した兼政は、その地に新たな館を築き、その地を幸隆に封じた。飛び地ながらも田所家の家禄は二倍になり、大名格に上がった。だが、それは領民に最も慕われているのが幸隆であることを、兼政は見抜いていたからなのである。

「上様、この度は格別のお計らい、誠にありがとうございます。・・・」
 大名格になって初めての謁見の日、幸隆は平伏した。
「気にせずとも良い。私にはそなたが為した施しが美しく映ったのだ。その報賞である。そなたの行為は、国の内外に我が国の情け深さを広めた。それは、やがては我が国の揺るぎない盾となろう。ルシャナ殿のように、な。」
 幸隆は、ルシャナに会ってみたくなった。
「うむ。ルシャナ殿にもそなたを引き合わせたい。書状を認めよう。」

 幸隆は、ルシャナに会うと、まず『星法の書』について讃辞を呈した。そして、疑問を感じていた箇所について問うた。
「ルシャナ殿のお心は、おおよそ理解できるつもりでござる。しかしながら、静かに坐すということが、分かりませぬ。どのような意味なのでござるか?」
 ルシャナは微笑んで言った。
「意味などはありませぬ。ただ、そのままです。幸隆殿、何日間か、土の上に直に座ってみられませ。ただ静かに、自分の息のみに集中するのです。
 しかし、私も今、貴方から教えられました。無意識のうちに善きことを為していた・・・。それこそが、本当の慈悲。本当の智恵だと。」

 その時だ。空から妙なる音律と共に、風のように澄みわたる声が聞こえてきたのは。
「善きかな善きかな。ルシャナ、そなたは見事に法を全く正しく会得した。そなたは今、生きたる覚者かくしゃとなったのだ。」
 ルシャナの眉間には黄金の髪が渦を巻き、頭髪全体は瑠璃色に変わった。着ていた衣服も変容して、黒いオルニア風の衣装になった。
「これは・・・ルシア様と同じもの・・・!」
 機転を利かせたカルタナの侍女のひとりが彼に鏡を差し出す。幸隆はルシャナに自分の顔を見るように促した。
「貴方様のお顔も変化していらっしゃるでござる。・・・どうか私を貴方様の一番弟子にして下され!ルシャナ様!」

 そして、その場に居合わせたカルタナの使節団一同や兼政も、覚変化を目の当たりにし、揃ってルシャナの弟子となった。この時以来、彼らを含めて、ルシャナの教えを広める者たちは、仏弟子と呼ばれる・・・。


<星法の書・覚変化品>

 そして、私は以下のような考えに至る・・・。

 私はこのようにして法を会得し、生きたる覚者となった。顔や髪の変化、着ていた衣まで変容したことは、私には思いもよらぬ現象であったが、その時に聞こえた妙なる音律と声は、おそらく宇宙そのものの奏でる言葉であったのだろう。

 ルシア様から教えを受けてなお、私には気づけなかったものを、オルニアの幸隆は補ってくれた。
 それは、無意識のうちに善きことを為していた、という心の土壌である。意識的に善きことを尽くすと、やがてそれは無意識の土壌に種となって置かれ、阿頼耶識に智恵の花を咲かせる縁となるのだ。
 つまり、このこともまた、善きことを為せば善きことの種となる『因縁のことわり』の現れなのである。

 また、教える者、施す者は、実は自らもまた教えられ、施される者でもある。全ての者が互いに他の全てから影響を受けて変わっていく。人はそれぞれの瞬間に出会い、やがて散っていく。そのあとにはその人と出会ったという記憶と、ふれあったことによる影響、変化が残るのだ。
 それだから、人々よ、その刹那の出会いに感謝し、その因縁に思いを馳せよ。

 故に私は、私に足りなかったものを教えてくれた幸隆を、私の最初の弟子としよう。全ての命ある者たちに覚者となる可能性が含まれているように、彼にもまたその可能性が見出せるからである。

二二.坐すということ

 兼政や幸隆ら、総典王国の人々に請われて、ルシャナは滞在を延ばすことにした。彼は、ナターリア女王に事の顛末を報告して、使節団一同の滞在延長と、『星法の書』の総典王国での大々的な写本の許可を求める手紙を書いた。女王はそれを許した。ただその返事の手紙には、自分たちも彼の変容した姿を早く見たいとも書き添えてあったが。

 こうして、ルシャナはしばらくのあいだ総典王国に留まることになった。幸隆が彼に言った。
「師よ、是非とも我が新しき館にお越し下され。そこにはまだ誰も使ったことのない部屋がございます。」
 ちょうど、先に城のかわりにと兼政が幸隆に与えた館が、七日ほど前に完成したばかりだった。隠居の幸修ほか家族や家臣たちがいるはずだが、幸隆の留守中にやたらに全ての部屋に踏み込んでいるとは思えない。
「おぉ、幸隆、よくぞ気づいた!そうさせていただくが良い。」
 と、兼政も同意した。誰も使ったことのない部屋を供するのは、最高の持て成しなのである。ルシャナも、その心を受け取った。
「しかし師よ、そこまでの乗り物は如何致しましょう?」
 兼政の城から幸隆の館までは、馬を飛ばしても五日かかる距離だ。当時の総典王国では乗り物と言えば輿か馬か駕籠しかなかった。カルタナの使節団も、兼政の城までは自前の馬で来ている。
「心配はない。私も自分の馬で行く。」
「それでよろしいのですか?」
 兼政は、尊きお方が普通に馬に乗って進むなどとは思っていなかったのだ。
「兼政、私を案じてくれるのは有り難いが、私はただ覚者になったというだけで、普通の人間だ。普通の人間として、普通に考えて欲しい。」
 ルシャナは、微笑んで言った。

 とはいえ、幸隆の館までの道中では不思議なことが毎日起こった。その最たるものが宿と食事である。
 ルシャナの供となった一行は、兼政とその付添の者たちとカルタナの使節団も含め、総勢百人に上っていた。諸領に点在している宿には、およそ全員は収まらぬであろうと思われた。
 それが毎日、日暮れ近くになると、それぞれの町に誰も見知らぬ宿が見つかり、全員が一つの宿に見事に泊まることができ、一汁一菜の食事がその都度どこからともなく現れた。
 ルシャナは合掌して「いただきます。」と言ってから食した。
「覚者は、全ての命ある者たちを等しく扱う。これらは、全てがかつて命あった物たちである。我々は、生きている限り、草であれ魚であれ獣の肉であれ、他の命を食させていただかねばならぬ。我々の命は、決して我々個人だけのものではない。それぞれの命は、多数の命によって支えられ、生かされているのだ。そのことに思いを馳せるために手を合わせて感謝の意を表すのだ。」
 ルシャナは、食事を終えると「有り難う。」と言って、また合掌した。弟子たちも皆それに倣った。

 そしてルシャナは毎夕一時間ほど、地に坐した。宿が見つかるのは決まってその後だった。
「幸隆に教えを請われた『坐する』とは、これを指す。詳細については、後ほどまとめて話そう。先ずは私が坐するところを姿勢だけでも真似しておくが良い。」

 さて、その道すがら、一行を見た人々は互いに噂し合った。
「あそこに行かれるのは、兼政公ではないか?」
「その前には、変わった色の髪をした人がいるが、兼政公の前を行くとは・・・。」
 ルシャナは、町や村に着く度に馬から下りて、物見高く集まった人々に話して聞かせながら進んだ。
「私は生きたる覚者ルシャナ。兼政公は、私の弟子の一人として教えを請うために付き従って下さっているところなのだ。これまでも、これからも、総典王国の国王が兼政公であることに変わりは無い。決して兼政公を軽んじることの無きよう。」
 ルシャナは、自分はあくまでも『法の師』に過ぎないと言う。そして国王も庶民もあまねく等しく彼の弟子となれると説いた。

 そのような日を十二回繰り返して、ようやく幸隆の館が見えてきた。それを見渡せる丘の上で幸隆が請うた。
「師よ、我が館にはまだ名が付けられておりませぬ。もし思し召しが得られるのでしたら、我が館に名を付けては頂けませぬか?」
 ルシャナはしばらく考えて言った。
「幸隆、そなたは私に坐することについて問うた。坐すること及びそのことから将来において生まれるであろう思想は、のちに、『禅』と呼ばれるであろう。今、私はそなた達の言葉の有り様をも理解する。故に私に思い浮かぶ館の名は『明禅館』である。これより後はあの館にて、禅を会得して明らかにせよ。」
「は。有り難き幸せにございます。」
 慣例に従うならば、館の名付けを請うのは、それを与えた主君の兼政である。しかし今回は、その兼政をも弟子としたルシャナに名を付けてもらうことが理に適い、また兼政に礼を尽くすことにもなるのだ。兼政もそれに異を唱えることなどは考えもしていなかった。
「幸隆、良い名を戴いたな。そのご期待を裏切るでないぞ。」

 館の前には、館の者が全員揃って平伏して待っていた。幸隆が予め早馬を飛ばして、事の次第を知らせておいたのだ。ルシャナは馬を下りると、人々のあいだをすり抜けて二列目に控えていた勘定方らしき服装の人物の前に座って声をかけた。
「幸修殿、貴方も私を師と仰がれるか?」
 実は、幸修はルシャナを試すために勘定方の者と服装を取り替えて後ろに控えていたのだ。ルシャナがそれを看破し、幸修の名を呼んだのを聞いて、館の一同は彼が本当に覚者であると確信した。
「ルシャナ様、策を弄し貴方様を試したこと、平にお許し下さい。思し召しがありますれば、私も貴方様のお弟子のうちに加えて下さいますよう。
 愚息が貴方様をこの屋にお連れ申し上げたこと、この隠居にも無上の喜びでございます。早速、未だ誰も使ったことのない部屋にご案内いたしましょう。」
 幸修は、先に立ってルシャナを真新しい最上位の部屋へと案内した。

 ルシャナは、座布団を見ると、丁度良いものがあると言って、それを二つ折りにしてその上に坐した。
「先ず、幸隆から尋ねられた『坐すること』について話そう。
 これは普段行っている諸々の雑事を一時的に全て手放して、己が心の深きに入ることだ。その時に意識するのは呼吸である。目を閉じて視覚を遮り、地に直に坐ることで行動を遮る。舌も上顎に付けて呼吸を整えれば、より強く意識することができよう。これを『坐する』と言う。私も、惑星の精霊よりこれを教わった。
 さらに、覚者となった今の私は、より良き禅の作法を思い浮かべる。尻の下を少し高く保たせることによって、背筋が伸ばせて、呼吸が楽になる。
 皆、坐するが良い。そうして心が静まり、新たな五感が備わるのだ。」

 その後、ルシャナは半年かけて総典王国全土を巡り、カルタナへ帰った。その後、オルニア大陸の各地では、領主から農民、漁師に至るまで全ての人々に対して『禅』が推奨され、それに基づく独特の文化が花開いた。
 『星法の書』も、盛んに写された。オルニアにはまだ印刷技術が無かったのだ。
 そして更に後年、兼政の家系が途絶えることが明らかになった時、小田切家の最後の当主は、国王の座を幸隆の曾孫にあたる田所家の幼君・幸仲を世継ぎと定めたという・・・。


<星法の書・明禅品めいぜんぼん

 そして、私は以下のような考えに至る・・・。

 オルニア大陸・総典王国では、かねてより覚者を受け入れる土壌があったものと思われる。かの地の人々は、農耕従事者が多く、繊細な心を持ち、静かで冷静なことを理想としていた。私の考えを受け入れてくれたのも、その民族性あっての事であろう。

 さて、禅についてだが、これは人が普通の生活をしているのみでは気付かずにいることを気付かせるための有効な手段であり、また禅することそのものが目的であるとも言える。禅することが、即ち善きことだからだ。
 目を閉じて視覚を遮り、坐ることで行動を遮る。呼吸することに心を合わせることで、心を静め、整える。これが坐することの意味であり、目的である。また、それによって、この上なき歓びに触れることが出来る。枯渇することのない本当の幸せに気付き、完全に満たされるのだ。

 そしてまた、現在において命を持つ者たちは、あまねく他の何者かの命を食さなければ生きていけない。己が命と思っているものは、実に多くの命によって支えられて初めて成り立っているものなのだ。それ故に、己が命も他の命も大切に思わねばならない。決して粗末に扱ってはならない。貪り食うことや無駄にするほど食を供してもならない。
 人には、それぞれに適した量がある。それに従って、手元に置け。それに従って食せ。それ以外のものは持つな。そうすれば自ずと枯渇することのない本当の幸せが見えて来よう。

二三.家族と弟子と

 カルタナに帰った使節団一行は、それぞれの母国に分かれて帰った。ルシャナは、他のグロスアイヒェ出身者たちと共にキルシュヴァン城に入った。ナターリアを始め王族や政府要人、それにルシャナの両親と兄が謁見室に集まる。
 ナターリアが部屋に入って来たが、いつものようには玉座に向かわず、真っ直ぐにルシャナの前まで来て座った。
「覚者ルシャナ、お手紙を読んで覚悟はしていましたが、その変わりように驚いています。貴方は本当に覚者となられたのですね。どうかこの大陸でも教えを広めて下さい。先ずは私からお弟子にと思います。さすれば、この地でも教えが早く広まるでしょう。」
 ルシャナは不思議な感覚を伴いながらも、覚者としての務めを果たすことを最優先した。
「私は今、複雑な心情でいる。しかし、私は覚者としての務めを第一にしなければならぬと考える。・・・ナターリア、そなたをこの大陸における、私の最初の弟子としよう。」
 ルシャナは、その場で六波羅蜜ろくはらみつの内容(布施 慎み 忍耐 精進 心の安定 及びその結果に成される正しい見識)や、坐禅の意味と方法を教え、毎日欠かすこと無く実践するように勧めた。他の同席者たちも揃って仏弟子になった。
 そうして一通りの説法を終えると、彼は家族に近づいた。
「家族たちよ。私はそなた達のもとに生まれた。その事実に私は感謝する。家族を弟子とするに、複雑な心持ちではあるが、全ての人々、全ての命をこの上なき歓びに導くことが、私に科せられた務めである。故に、私はそなた達をも弟子としよう。」

 彼は葡萄畑の館に戻った。
 館の前では、クラリスが娘のルイーザを抱えて、使用人たちと共に迎えた。彼女もやはり戸惑っていたが、ルシャナが微笑みかけると、妻として娘を抱えたまま彼の目の前まで近づいた。
「ルシャナ・・・。私、どうしたらいいか分かりませんわ。女として貴方を愛しているのですもの・・・。」
 ルシャナは、妻と子を優しく包み込んだ。
「クラリス、覚者となっても、私は普通の人間だ。今でも、そなた達を愛する気持ちに変わりは無い。
 ただ、今までと異なるのは、覚者から観れば全ての命は等しく、自らが救わねばならぬ対象だということだ。これからは世界中を巡り、法を説いて廻らねばならぬ。また、王族も貴族も国民も、私の弟子として教えるという立場から、全て呼び捨てになる。そのことは分かって欲しい。
 まだ覚者ではなかった時、私はそなた達のことを他の者より愛しく思ってしまうと、キルシュヴァン城で告白したことがあった。その時ミヒャエルは『愛することを厭う勿れ』と諭してくれたのだ。
 覚者たる今の私は、そなた達と同じように他の命をも愛し慈しめば良いと実感している。」
「ルシャナ・・・。」
 クラリスの目から涙がこぼれる。
「クラリス、今までと同じように私を見てくれ。聡明なそなた故に、妻でありながら同時に弟子でもある、そんな存在になってくれるであろう。それが私の思いだ。そなたは私の妻であり、ルイーザも私の娘である。」
 クラリスは、彼の言葉の意味を理解した。愛しい夫の温もりが懐かしかった。赤子は二人の胸の間で静かに眠っている。
 館の者たちは、当主の変容ぶりに驚きつつも、その夫婦愛の深さに貰い泣きしていた。
「奥様・・・旦那様・・・。」
 ふと、クラリスは、ルシャナの胸の中で香りを感じた。それまでに嗅いだことの無い、芳しい香りだ。
「ルシャナ、衣に香を焚きしめているのですか?良い香りがします。」
「それは、覚りそのものだ。覚りは、そこはかとなく漂う。覚者には常にそれが伴うのだ。」

 一方、ラオプに帰った使節団一行は、早速エーベルハルトに事の次第を細かく報告していた。
「ほう。そのようなことがのう・・・。以前から、どこか変わったところがあるとは思っていたのだが・・・。クラリスは、如何するであろうか。」
 ラオプ側の使節団の代表ガーネット・プロイセン外務大臣は女性だった。
「ルシャナ様は、全ての命をこの上なき幸せに導くことがご自分の使命だと仰っておいでです。あの方に限って、クラリス様を不幸になさるようなことは考えられません。私めも、あの方に教えを頂いた弟子にございます。」
「弟子?そなた、国王の許可無くあの者の弟子になったと申すか?」
「エーベルハルト陛下、弟子とは心の内の在り方にございます。私共は変わらずラオプの完全なる臣下であり、現実世界は何も変わってはおりません。
 ただ、ルシャナ様は私共に、生きていくための指針を指し示して下さる方なのです。陛下も今のルシャナ様にお会いになれば、きっとお分かりになります。」
「うーむ・・・。」
 エーベルハルトは唸った。ルシャナは、彼にとっても娘婿であり、何と言っても、カルタナに平和をもたらした最大の功労者である。間違ってもラオプやグロスアイヒェを自ら手中に収めようなどと考える男ではない。
 しかし、その彼が『法』なるものを説き、多くの者たちを弟子に取っているというのだ。もしその者たちが一大勢力となったら、無視できぬものとなるかもしれぬ。
 エーベルハルトはナターリアに書簡を送り、ルシャナを呼び寄せた。

 実際に顔を合わせてみると、なるほどルシャナは、髪の色が変わり、眉間からは微かな光をも放っている。
「久しいの。話はガーネットから詳しく聞いている。早速尋ねる。『法』とは何か。」
 ルシャナは坐して答えた。
「私は先ず、人々が死んでいく様を悲しんでいた。そして、この大陸から戦いを取り除くことに力を尽くした。それ故に、星の精より直接教えを請う機会を与えられた。また、オルニアにて、無意識の慈悲を最初の弟子となった者から教えられ、その時に『法』を全く正しく会得した『生きたる覚者』となったのである。
 法とは、即ち宇宙のことわりのことである。それによれば、物事には必ず原因があり、善きことを為せば善きことが、悪きことを為せば悪しき結果が成されるのである。
 生きたる覚者となった私は、全ての命を平等と観て、それらを救うことを使命として、その法を人々に説くのである。
 それでは、その善きこととは、何を基準にすべきであろうか。それは、個人的・刹那的な価値観ではなく、宇宙的・普遍的な価値観から判断されるべきものである。
 人が生きる苦しみから逃れて幸せになるには、このことほど大切な要素はない。故に、私は六波羅蜜と坐禅の実践を人々に伝えるのだ。」
 そして彼はキルシュヴァン城でしたのと同じ説法を、エーベルハルトたちにも施した。

 エーベルハルトは、ルシャナが今まで自分が知っていた彼とは同一ではあるが異なると感じた。目の前にいる人物は、国を超え、人という存在をも越えた人物なのである・・・。
「私もお弟子のうちにお加えください、我が師よ。」
 彼は自分でも理由が分からぬままに玉座から離れ平伏してルシャナに請うていた・・・。
 ルシャナは、エーベルハルトの手を取って言った。
「エーベルハルト、私は歓びに溢れている。これよりは、そなたも私の弟子である。だが、私はただの人間だ。何人も私に平伏す必要はない。私の傍に坐りなさい。」
 そうしてエーベルハルトは、ラファエル皇太子を始め王族と家臣達の前で宣言した。
「皆も聞いていたように、私はルシャナ様の弟子となった。ルシャナ様もおられる非常に貴重で良き機会ゆえ、私は只今をもって国王の座を我が息子ラファエルに譲る。ラファエル、こちらに来なさい。」
 エーベルハルトは一旦立ち上がり、ラファエルを跪かせてその頭に王冠を載せた。ラファエルは、先ず国王たる宣言を済ませたあとで、ルシャナに弟子入りを請うた。
「生きたる覚者ルシャナ様、私は国王として国を治めていくにあたり、人々を幸せにするために貴方の智恵の教えを広めたいと存じます。どうか私もお弟子のうちにお加えください。」
 こうして、ラオプにおいても、ルシャナの教えは広められていった。

二四.半身の覚者

 クラリスは、ルシャナが着ていた衣服を一旦ほどいて隅々まで記録し研究した。そして、それと同じものを館の女性たちと一緒に何着か作った。これから説法しに行くのに同じ衣装が何着も必要になると考えたのだ。それと合わせて、坐禅に用いるクッションも作った。ルシャナから聞いたオルニアの座布団というものを参考に少し使いやすくしたものだ。
「奥様、旦那様がおられんことなっても、お寂しゅうはなかとですか?」
 ヘレナが心配して言った。彼女だけではない。館の者たちは皆そう思っている。
「前にユニコーンが迎えに来た時には、二度と会えないかもしれないと思ったのですから、帰って来てくれると分かっただけでもずいぶん違います。
 それに、今のルシャナは、もう誰にも止められません。それがあの人の使命なら、その留守を預かるのが私の使命なのです。あなた達が私たち家族を思ってくれているのは有り難いけれど。だから、わざと遅らせる必要はありませんよ。」
 クラリスは笑顔で語った。女性たちは、ルシャナの出立を遅らせて、家族と暮らす期間を延ばそうとしていたのだ。
「奥様・・・。知っておられたとですね。浅はかな真似をして申し訳ございません。」
 コルネリアが謝った。
「いいのです。それにしても、この衣装は変わっていますね。ほぐすと一枚の大きな布になってしまうのですから。ルシャナは、オルニアの民族衣装にとてもよく似ていると言っていました。でも、何故黒なのかしらね。」

「私の今の衣は、星の精ルシア様と同じものだ。
 本来、私たちが色を認識できるのは、それぞれの『もの』が色を反射して、それが私たちの目に入ってくるからだ。ところが黒だけは、そうした現象ではない。いわば、全てを受け入れているからこそ、そのものは黒く私たちには映るのである。それが、この衣が黒いという理由にあたる。そして、下に着る衣は白で、これは無垢な精神を表す。
 また、オルニアでは、このような黒い衣は最も低い地位にある者が着る。智恵の長者は、最も低い地位にいる者の如くに振る舞う。このことから星の精ルシア様は、この色を選ばれたのである。」
 彼女の疑問にルシャナは答えた。
「この次は何処に行くのです?」
「ウユニに行くつもりだ。星の精ルシア様に改めてお目にかかる。」

 ルシャナは、ナターリアに頼んで、ウユニへの定期交易船に乗せてもらった。ウユニへは片道五日かかる。そのあいだも乗組員たちへの説法と坐禅は毎日欠かさなかった。説法は短時間で、要点を絞って普通の言葉で行う。今すぐでなくても良い、いつか『あぁ、こういうことだったのだ!』と思い返してもらえば良いのである。
「覚者となられても坐禅されるのですか?」
 操舵手のダニエルが、彼自身の休憩時間に尋ねた。
「覚者となったから、ますます欠かせなくなるのだよ。坐禅は全ての基礎だ。手段であり、同時に目的でもある。」
「はぁ、そんなものですか・・・。」
 ダニエルは分かったような分からないような不思議な気持ちになって戻っていった。
(そなたにも、いつか分かる日が来る・・・。)

 やがて陸地が見えてきた。ウユニである。以前は瑠衣に乗せられて遥か上空から見たに過ぎなかったが、船から見ると、文字通り大きな陸地に違いなかった。
 港では、多くの人が交易船を待ち受けていた。ウユニの人々は、ずば抜けて勘が鋭い。ルシャナの尋常でない気配を感じて集まっていたのである。彼が船から下りると、すぐに駆け寄ってきて跪いた人物がいた。銀色の髪に黒い二本の角を生やした二十歳そこそこと思われる若者だ。
「遠いところをようこそいらっしゃいました!私はウユニ皇帝トヴァダと申します。生きたる覚者ルシャナ様、この国ではどうか我が家と思ってお寛ぎ下さいますように。」
 ウユニでは、国王のことを皇帝と呼んでいる。ルシャナは、その手を取った。
「皇帝トヴァダよ。私はただ覚者であるというだけで、人間である。何人も私に跪く必要はない。また、この地には、星の精ルシア様がいらっしゃる。そなた達は今すぐには私の弟子にするわけには行かぬかな。」
 トヴァダは答えた。
「いいえ、我が師よ。あなた様は将来、この地にご滞在され、我々を近くで見守って下さると、ルシア様から伺っております。良き師を得るに、早いに越したことはございません。」
 ルシャナは、彼を見た。
「ルシア様は、私が将来この地に留まると仰ったのか。分かった。それならば、まずルシア様からお許しを戴くことにしよう。案内あないをしてくれるか。」
「かしこまりました。」

 ルシアがいる火口までは、サラサッタという翼を待った者が送ってくれた。彼女は、顔だけが人で、くちばしもあって、ほとんど鳥と言ってもよい姿だ。普段は荷物の運搬人として暮らしている。
「覚者ルシャナ様と皇帝陛下のご案内を任されるなど、これほどの光栄はございません。」
 火口に二人を下ろしてから、サラサッタは感涙した。
「サラサッタよ。今後とも功徳を積むようにな。」
 ルシャナはその肩に触れて言った。
「私は此処にてお待ちしております。」
 サラサッタは頭を下げた。全身が鳥の身では、それしか出来ぬのである。
「帰って来たな、ルシャナ。」
 星の精ルシアが姿を見せた。

 ルシャナは、その前に坐した。
「ルシア様・・・。私は生きたる覚者となり、多くの弟子を得ました。
 しかしながら、まだ生きているために、他の命を頂いて食していかねばなりません。今現在生きている者たちだけしか救えぬ半身の覚者であるのです。先ほどトヴァダ殿から弟子入りを請われましたが、あなた様がおられるこの地に弟子を得てよろしいのでしょうか。」
 ルシャナは自分が半身の覚者であると言ったのである。ルシアは微笑みを強くした。
「ルシャナよ。覚者となったそなたは、もはや私の半身なのだ。私も星の身で覚りを得ることはできたが、衆生を救うのが本来の覚者たる生き方である。
 そうして長いあいだ、私は覚者となる人間を待ち続け、ようやく一つの魂を救うことができた。それがそなたなのだ。そなたが人としての生を手放した時、その魂は法力でこの地に呼び寄せられ、私と全く等しき存在となる。その症候が、今のその姿だ。」
 ルシャナは初めて自分の未来を知った。覚者として、現在と過去は観ることができても、未来を観ることはできない。未来は、彼自身が説く通り、各々の行いによる結果が生じて刻々と変化していくものだからだ。しかし、基本的にある程度定められた運命が存在することも、彼は感じ取っていた。
「私がルシア様と等しくなる・・・。」
「そうだ。そして全ての命を見守り、必要なときには覚りへと導き、輪廻転生の苦しみより救うのだ。臆せず道を進め。
 ウユニ皇帝トヴァダよ。此処より東に十六里の地点に新しき城を築け。そして、その中心に空の部屋を設けておけ。時が来ればルシャナは法身ほっしんとなって、直接そなたとそなたの後継たちに指針を与えることになる。」
 トヴァダは平伏した。
「星の精ルシア様、有難きことにございます。仰せのままに。」

 ルシャナが言った。
「サラサッタよ。この身を港に運べ。私はそこで法を説き、その場にいる全てを私の弟子としよう。」


<星法心書・黒衣品こくいぼん

 そして私は以下のような考えに至る・・・。

 私は人としての生を手放した時からの己が運命を知った。星の精ルシアは、人としての法身を私に定めたのだ。それ故に私は黒衣を纏う。智恵の長者は、地位低き者の如く振る舞うのである。

 私はもはや生じることも滅することも無い。滅しなければ生じることはないのだ。
 そして、諸々の人々に救いとなる智恵を伝える。救いを差し伸べ続ける。ちょうど、今にも崩れ落ちそうな崖にいて追いかけっこをしている子供たちを、ご馳走がたくさん用意されているなだらかな丘の上に呼ぶ父母のように。

 港に戻った私は、その場で法を説き、ウユニにて多くの弟子を得た。
 私をルシアの元に送迎したサラサッタは言った。
「師よ。私には正しく坐禅することはできません。」
「サラサッタよ。そなたは今、尊きことを問うた。そなたにはそなたなりの坐禅をすることが出来るのだ。その身を整え、呼吸を整え、目を閉じて、心を整えよ。それが正しき坐禅である。また、全ての所作の中にも禅を含めよ。無意識の内に善きことを成せるようになるのだ。
 そなたは、その身ゆえに却って本来の坐禅を知りうる機会を得たのである。」
 自分を取り巻く環境を変えることは難しいが、自分の行いや考えは即座に変えることができる。よって、人々よ、善きことを成し、悪きことから逃れよ。それが、運命の歯車を善きことのほうに回す力となるのである。恐れず道を進め。

二五.七つの輪

 ルシャナは、一旦ウユニを離れて残る四つの国を巡ることにした。トヴァダが言った。
「オルニア以外で、ここから最も近い国は、カレナルドという所です。三五八年前に、最も大きな島の国王が周りの四つの島を制圧して一つの国としました。そして、複数の島を往き来するため、とても発達した操船技術を持っております。
 そして、己が国土が狭く、人々を養うだけの物資が足りないのか、このウユニにも時折攻めて来た歴史がございます。我がウユニは、有志たちが防護膜を張って長年それを退け、カレナルドは我が国に対してはもう攻めては参りませんが、オルニアとはまだ戦闘状態にあります。ルシャナ様がお召しになっている衣はオルニアのもの。かの地にいらっしゃるのは大変危険でございます。」
 トヴァダは、あまり行かせたくない様子だった。
「トヴァダよ。心配してくれて有り難う。そこに人がいる限り、私は法を説かねばならぬ。
 私は一本の杖を作ることにしよう。すまぬが、木を一本布施してくれぬか。」
「畏まりました。どうぞお好きな木をお選び下さい。腕利きの木こりを付けましょう。」

 ルシャナは森に行って、一本の樫を選んだ。その木に向かって「そなたを杖とする。その役割を果たしてくれ。私はそなたに感謝する。」と言って合掌してから、木こりに木を切り倒させた。
 半月ほどかけてルシャナ自身が仕立てたその杖は、先端が丸い輪になっており、その輪には更に左右に三つずつ小さな輪が下がっている。
「杖をつく度に音が鳴る。それは智恵の音である。」

 旅立ちの用意が整った時、空から一羽の鳥が舞い降りて来た。彼には、すぐにその鳥がガルーダだと分かった。
「ガルーダ。いつぞやは世話になった。」
「ルシア様の命で貴方の警護に参りました。ルシア様のご意思、よもや嫌とは仰いますまいな、ルシャナ様。」
 丁寧語に変わっても、ガルーダの口調は元から知る精霊鳥のままだった。
 ルシャナは、人ひとりを安定して乗せられるくらい大きくなったガルーダの背に乗って、カレナルドに向かった。
「あの時のお子と奥方はご壮健でしょうか?」
 ガルーダが尋ねた。彼は子供好きなのである。
「あぁ、お陰で二人とも元気でいる。娘は近頃、周りのことに興味が尽きぬようだ。何にでも触りたがる。・・・あれがカレナルドか。」
 眼下に五つの島が見えていた。その中の最も大きな島のなだらかな丘に、ガルーダは降り立った。

 地上では、見たことのないほど巨大な鳥が舞い降りたというので大騒ぎになった。怖いもの見たさに人々が集まってきて、ガルーダを遠巻きにする。
 ルシャナがガルーダの背から下りると、人々は一瞬退き、また集まった。
「オルニアの者か!」「我々を攻めに来たのか!」
 彼らは口々に叫んだ。興味と敵意と憎悪が入り混じる。近づいてきて彼を傷つけようとする者たちをガルーダが翼で追い払う中、ルシャナは言った。
「私は、生きたる覚者ルシャナ。衣はオルニアのものと似ているが、この衣は覚者の姿に他ならない。私はオルニア大陸から海ひとつ越えて更に西、即ちこの地から見て遠き東に位置する大陸カルタナで生まれた。そして、この大きな島は、ウユニに住む精霊鳥ガルーダ。共にあなた方を傷つける意志で来たのではない。
 私は『法』を説きに来たのである。人々を生老病死の苦しみから救うために来たのである。」
 ルシャナの声は、人々の雑踏や雑言にも掻き消されることなく、ひとりひとりの耳にはっきりと届いた。その言葉を言い終えると、彼は杖の底を地面に軽く打ちつけた。先端の七つの輪が擦れ合ってシャリーンと音を鳴らす。空からは心地よい旋律が流れ、芳しい香りを放つ無数の花びらがゆったり降ってくる。
 人々は、自然にその場に膝をついて座り込んだ。あまりの心地良さに我を忘れたのである。
「なんて気持ちが良いのだ。・・・」
「穏やかだ・・・。これは夢ではないのか・・・。」

「何を怯んでいる!相手は一人ではないか!」
 そう言って刀を振りかざしながら近づいてきたのは、豪傑一筋のハロルド・マキロイ大将だった。しかしその彼もルシャナの前にはあまりの神々しさに刀を取り落とし、やはり膝をついた。
「あなたは神の使いか?」
 カレナルド群島とマクタバ大陸では、全知全能の唯一神が信仰されている。
「もしも私があなた方の思考のあり方に合わせるならば、こう言い表そう。私はあなた方が信仰している神すなわち宇宙の意思が定めた『法理』を見知っている人間なのだ。
 私が説く法理は、人が生きていく上での苦しみを軽くし、輪廻転生の輪から抜け出す方策に過ぎない。あなた方の信仰を否定するものではない。
 即ち、信仰とは全宇宙たる神との契約であり、覚りは人の生き方についての方策で、全く別の分野なのである。その双方は矛盾しない。
 人が無上の幸せがあることを知り、その方向に進むことを、『神』は否定するだろうか。『神』が意志しなければ、何も起こらず、私も今ここにはいない。」
 ルシャナは豪傑の手を取って呼びかけた。
「ハロルド殿、私はこの地に法を説きに来たのだ。この地の人々は、戦いに疲れ、心を荒野と化している。これから私が説く法を聞くがよい。」
 そしてルシャナは、オルニアやカルタナで説いた因果の覚りと六波羅蜜、坐禅の実践をその場でも説いた。

 ハロルド始めその場にいた全ての人々は、ルシャナに尊敬の念を抱いた。
「貴方は何故オルニアとはまだ戦闘状態の我が国にお越しになったのですか?ガルーダ殿がおられなければ、私たちはあなた様に危害を加えていたでしょう。」
「ハロルドよ。それから人々よ。人がいる処に私は赴く。一人でも多くの者に、生老病死の苦しみから逃れ、この上なき楽しみに導くために。それこそが覚者の生き方なのだ。
 ガルーダは私を守ってくれたが、それも私が覚者として法を説くという務めを果たさせるために、星の精ルシアが科した命によるものである。全てが宇宙そのものの理に適う限り、覚者の歩みは何者によっても止められることはない。」

 ハロルドは、ルシャナを国王に紹介して、自らが見聞きしたこと、自らの身に起きたことを報告した。国王グスタフ三世は、ルシャナの法話を聞いた上で、彼に尋ねた。
「ルシャナとやら、今の話では、そなたは我々の神を宇宙そのものの意志だと見ているようだが、それは何によって証明されるのか。」
 ルシャナは答えた。
「王よ。あなた方が信仰している限り、神についての証明は必要ない。私は、ただ法理を説くのみ。」
「否定はしないのだな。」
 ルシャナは黙した。
「神の証明はせず、然れども否定もしない、そういうことか。
 とはいえ、確かにそなたの説、全てのものがそのもののみでは存在しないこと、生きている者はいつかは絶えること、人の命が平等であることなどは、我々にも理解でき、明らかである。私は、そなたと友を歓迎しよう。最高の菓子を食するがよい。」
 カレナルドでは、菓子を供することが、客としてもてなすという意味であった。
 ルシャナは数日間、丘に留まって坐禅の実践を人々に指し示した後、マクタバに旅立って行った。・・・

 後日、新しく捕虜となったオルニアの武将から、ルシャナの覚変化の様子が語られた。
「実際に、複数の人間の目の前で容姿が大きく変化したとなると、ルシャナ殿の話は本物ということになるか。」
 グスタフ六世は、彼をそのまま行かせてしまったことを少し残念に思った。
「そうですな。他の土地では『弟子』という形を取って、彼の話をより身近に聞くのだそうです。
 しかし同時に、武将は良いことを教えてくれました。彼が折々に綴っている書物が広められているというのです。武将は、こう言いました。『その尊き書物は、争い事にては手に入れることは出来ない。交易によってならば、容易く手に取ることが出来るであろう』と。」
 グスタフ六世は、オルニアに和平を申し出た。オルニア国王・小田切兼政にとっても、それは願ってもないことであり、それがルシャナの訪問を契機としていると知ると、喜んで『星法の書』をその時点での最新巻<星法の書・錫杖品>まで揃えて贈ってくれた。
 それらには確かに『神』を否定するような言葉は書かれておらず、人としてどう過ごしていくべきか、真の幸せとは何かが書かれているだけだった。
「ルシャナ殿は、だから我々に対しては『弟子』という言葉を使われなかったのか。」
 カレナルドについての記述を読んだグスタフは、ますます彼の考え方に深く感動した。

 そうして、カレナルドにおいては、ルシャナの説く智恵が、神学に次ぐ法理学として広められたのである。

二六.鷹匠大会

 マクタバは、赤道直下にあって、とても暑く、乾燥した土地である。ほとんどが砂漠で、そこに点々と緑の木が伸びた町が見える。
「ルシャナ様。カレナルドは国家としてまとまっていましたが、ここには全体を統べる者がいません。町単位なのです。如何されますか。」
 海岸に降り立って、ガルーダが尋ねた。
「ここでは、私が全ての町を説いて廻ろう。そなたは一旦帰るか?」
「いやいや、ルシャナ様。御自らが歩かれるとなると、何十年かかるか分かりませんぞ。このガルーダ、ルシア様の命を受けて貴方様に付き添っております。町々のあいだは私が運ばせて頂きます。」
 ガルーダの表情は見た目では分かりにくいが、どうやら彼自身もこの旅路を楽しんでいるようである。人が住む場所まで行くと、彼は鷹と見分けがつかぬほどの大きさになって、ルシャナの肩に乗った。

「あんたも鷹匠大会に出るのかい?」
 最初の町の市場の近くで、ルシャナに声をかけてきた若者がいる。ルシャナは答えた。
「いや、私は法理を説きに来たのだ。」
 しかし、若者は彼の言葉よりも、彼の肩に乗った鳥のほうに強く興味を惹かれていて、ルシャナの言葉を全く聞いていなかったようだ。
「良い鷹を持ってるなぁ・・・。鷹匠大会に出たら、きっと優勝間違いなしだ。
 どうだ、俺と手を組まないか?俺はフセイン・ウマル・アブドラ。この町の族長の息子の一人だ。ちょうど良い鷹を買おうと思って町中に出てきたんだ。あんた、外国人らしいから、この先、生活していくにも何かと困るだろ?俺が全部面倒見るから、二カ月後にここで開かれる鷹匠大会に出てくれないかな。ルールは簡単だ。鷹を飛ばして、目印まで往復させる。その速さを競うんだ。
 鷹匠大会には、マクタバ中の族長たちが揃っていて、その前で最高の栄誉を受けられるのさ。多額の賞金も出る。栄誉と賞金を、二人で山分けしようじゃないか。」
 ガルーダが興奮して羽をばたつかせた。人間には聞こえぬ声でルシャナに懇願する。
(面白いっ!胸が高鳴ります!話を受けて下され、ルシャナ様!)
 ルシャナは言った。
「良かろう。ただし条件がある。優勝しても、私はその名誉を二位の参加者に譲り、賞金はそなたとその者とで等分せよ。 また、その場に居合わせる全ての者たちに、語り終えるまで私の話を全て聞かせよ。」
 若者はまじまじとルシャナの顔を見た。
「何か変わった奴だな。ま、どうせ優勝すれば族長たちの前に立つことになる。それで決まりだ。それじゃ、我が家に来てくれ。あんた、名前は?」
「私はルシャナ。これはガルーダだ。」
 こうして、ルシャナとガルーダは、フセインの家にしばらく滞在することになった。

 フセインの父親・ウマルは、ひと目でルシャナを尋常な人物ではないと見て取った。
「貴方は何処から見えられた?息子は分かっていないようだが、貴方が普通の方ではないことは、私には分かります。どうかご身分を明かして下され。」
 ルシャナは答えた。
「私は、生きたる覚者ルシャナ。カルタナ大陸の国から、この地には法理を説きに来たのだ。
 このガルーダが、鷹匠大会に出たがっているようなので、付き添ってくれている褒美として、ご子息について参った。」
 ガルーダがその時マクタバの町で初めて人間の言葉で話し始めた。
「左様。私はウユニに住む精霊鳥ガルーダ。星の精ルシア様の命により、ルシャナ様のお供をしている。」
 フセインは驚いた。
「お前、普通の鷹じゃなかったのか!」
「さっきは黙ったままで悪かったな。私はウユニの精霊鳥だ。普通の鷹など比べ物にはならぬ。だが、妙に体が疼くのでな。その大会とやらには出てみたいのだ。協力してくれ。」
「せ、精霊鳥?星の精?!」
 唖然とした二人に、ルシャナは家の者たちを全て集めさせて、法理を説いて聞かせた。ウマルもまた『神』についての証明を求めたが、ルシャナはカレナルドで成した説法を再び施すのみであった。しかし、その明瞭さ故に、ウマルは却ってルシャナの話に納得した。
「ときに、ご主人。この小さな絨毯だが、お借りして折り畳んで坐してもよろしいかな?」
「どうぞお好きにお使い下され。」
 ウマルが使うことを許したので、ルシャナは絨毯を折ってその上で坐禅を組んだ。ウマルと家人も皆それに倣った。しばしの静寂が彼らを包んだ・・・。

「あぁ、何となく気持ちが落ち着いたなぁ・・・。」
 静寂は、フセインのこのひと言で破られた。ウマルが息子を叱る。
「愚か者!お前はこの静寂のどれほど尊いかを分かっておらぬのか!」
 ルシャナが言った。
「ウマル殿。心が全く正しく整えられれば、如何なる喧騒の中であろうと、それに煩わされることはない。私が説きたい智恵は、そうしたことなのだ。」
 ウマルはルシャナに頭を下げた。
「ルシャナ殿、大変ご無礼仕りました。どうかこの家を我が家と思われてお寛ぎ下さい。只今最上の部屋にご案内いたします。」
「父上・・・?」
「フセイン、それから妻と子供達、使用人たちよ。この方は、我々をこの上なき幸せに導くために、わざわざ遠方からお越しになられたのだ。努々ご無礼があってはならぬ。
 そして鷹匠大会でこの方が語り終えるまで、決してこの事を他言してはならぬぞ。」

 鷹匠大会の日が来た。ガルーダは同じ鳥たちと速さを競えることを歓びながら、圧倒的な速さでゴールした。
「そなた、手を抜いていたであろう!たとえ相手が取るに足らずとも、何事にも全力を尽くせ!それが菩薩道だ!」
 ルシャナはガルーダを叱った。
「申し訳ございません。」
 その時ガルーダは、六波羅蜜のひとつ・精進を心に得た。

 マクタバ中の族長たちが見守る中で、優勝者への賛辞が行われようとした時、ルシャナは彼の言葉通り、賛辞を辞退して二位の参加者に譲った。そしてウマルの計らいによって、その場に居合わせた全ての者たちに話す機会を与えられると、手にした杖の底で軽く地面を叩いた。
 シャリーンという音が鳴り響く。カレナルドの時と同じく、空から無数の匂いたつ花びらが降る中で、ルシャナは人々に説法を施した。

 翌朝、ルシャナは旅立つ旨を伝えた。
「いつまでもおいでいただきたいが・・・。」
 ウマルは名残惜しそうに言った。
「案ずることはない。遠からず、カレナルドより私の言葉が伝えられるであろう。然れども、あなた方の拠り所は私などではなく、『神』と『法理』である。」
 彼らは、ウマルの一族に見送られて町中を出て、砂漠に来た。
 ガルーダはまた大きくなってルシャナを乗せる。
「あなた方には世話になった。これからも平安に過ごされよ。それでは、さらばだ。」
 ルシャナは空へと去った。

「あの鷹は、本当に精霊鳥だったのですね。」
フセインが呟いた。ウマルは息子の肩を軽く叩いて言った。
「フセイン。お前はなかなかに鳥を見る目がある。数多いる鷹の中から、精霊鳥を選べたのだからな。この際、良き師について正式な鷹匠になったらどうだ。」
「父上・・・。」
 フセインは、己が進路をまだ決めていなかった。ウマルの後を継いで族長となるのは長兄ナダルと決まっている。鷹匠大会に出ようとしていたのも、実は息子を案じたウマルの勧めだった。
「そうですね。俺、鳥が好きですし、やってみます。」

 一方、マクタバの砂漠を抜けて海を見下ろす上空では、ガルーダがルシャナを乗せて飛んでいた。
「ルシャナ様。私は今、いくつもの喜びを感じております。
 鳥として空を飛べる喜び、何事にも全力を尽くすことを知った喜び、それが全く菩薩道に適うものであると知った喜び、それを教えて下さった貴方様のお供を務められる喜びでございます。」
 ルシャナは微笑んだ。
「ガルーダよ。鷹匠大会でそなたに与えたかった褒美は、真にそれらである。そなたは、それを全く正しく受け取った。私も嬉しく思うぞ。」


<星法の書・錫杖品しゃくじょうぼん

 そして私は以下のような考えに至る・・・。

 思い起こせば、私が覚変化した時、花を以て祝福とし、私を初めて『生きたる覚者』と呼んだ声があった。それは星の精ルシアのものではなかった。星の精以外に、私が覚者たることを明らかにできる存在は、星さえも超えた存在、即ち全宇宙そのものの意志に他ならない。
 故に、私はカレナルドとマクタバにおける『神』の存在を否定しない。人として目指す方向はただ一つしかないからである。同じ方向に進み、ぬかるみに足を取られて沈むことなく、無事に目的地に着いて尽きることのない楽しみの中に入るのならば、そこに至るまでの道はどの道を通っても良いのだ。また、その移動方法も、鳥でも魚でも馬でも牛でも鹿でも駱駝でも、徒歩であっても、何でも構わない。

 カレナルドでは、宇宙そのものの意志のことを『神』と呼ぶ。そして、人々はそれに礼拝して日々を過ごす。
 私は、それについて否定しない。人々が自ら『神』に仕えていると考えているので、この地では『弟子』という形を取らぬほうが、より深く法理を受け入れることが出来るであろうと考えた。人々に法理を知らせ、六波羅蜜を実践してもらえるのであれば、私は覚者としての務めを果たしたことになるのだ。
 これから訪れるマクタバにおいても、私はおそらく同様の方策で法理を説くことになるだろう。

 私は、七つの輪を持つ杖を、ウユニに生まれ育った樫の木の中から彫り出した。
 ウユニは古来より法力を強く受け続けてきた処。そこに生まれ育った草木や獣、人間達には、法力が特に強く内包されている。それ故に、私はその中で『杖を内包している木』を探し、その形の通りに彫り出したのである。
 先端の七つの輪は、最初からそのような形に彫り出したため、繋ぎ目はどこにも無い。それはこの星に存在する大地、人々の文化と同じ数だ。人々は繋ぎ目なくひとつとなって、共に触れあって智恵の音を奏でるのである。

 全ての命の中に覚りあれ!人々よ、智恵に目覚めよ!法理はそれぞれの中に内包されている!

二七.合理的な生き方

 アルリニア大陸は、異なる文化を持つ複数の民族が、平和なほうが合理的であるという理由で、それぞれに強力な自治権を持ちながら共存する連邦国家だ。そこでは、合理性が何にも増して重んじられる。身分格差や男女格差は無いものの、人々の心にはどこか閉塞感が燻っていた。
 ルシャナが訪れたのは、そんな閉塞感が表にも表れ始めた時代だ。陸地に降り立つと、ガルーダはまたルシャナの肩に乗った。
「この地では、人間たちは精霊の存在を認めようとしません。たまたま目撃したとしても、全て幻で片付けてしまうのです。」
「しかし、この地にも精霊はいる。そうだな、精霊獸シースー。」
 傍らに、雌の仔獅子が寄ってきていた。仔獅子は人間の言葉で言った。
「生きたる覚者ルシャナ様。私はこの地に住むシースーにございます。幼き身で貴方様のお側に来る機会を得ましたこと、この上なき幸せと存じます。私は生まれてまだ四ヶ月と日が浅く、この上なき喜びを知るには暫しの時を必要とするでしょう。どうかお供にお加え下さい。」
「シースーよ。私は何者をも拒まない。ついて来るが良い。」

 ルシャナはそのシースーの案内で、最大民族マーナン族の州都タンホーに入った。州統治庁前の広場で坐禅を組む。
「何もやっとらんとは、なんて非合理的なんや・・・。」
「怠け者や。ほっとけ。」
 通りがかりの人々は、初めのうちは彼を無視した。二つの精霊をただの鷹と仔獅子と思い、ルシャナを他国から来た動物使いで、ただ座って何もしていないだけだと思ったのである。
 だがやがて夕刻になり、周りが暗くなってくると、ルシャナの眉間にある優しい光が明らかになり始める。
 通りがかりの時計職人が声をかけた。
「あんさん、何でおでこが光っとるんや?見れば外国人らしいけんど、あんさんの国の人はみんなそうなのかい?」
 ルシャナは答えた。
「これは覚者の姿である。この光は、私の中に含まれる智恵が放っているのだ。」
 時計職人は『智恵』というものを知らなかったので、更に七回尋ねた。
「智恵って、何や?」
「智恵とは、宇宙のことわりのことだ。全ての生きとし生けるものは、生まれ、病に伏せり、年老いて、死する。何人もその運命からは逃れることはできない。その全てが苦しみである。全ての命は、それを繰り返すが、その輪廻から逃れ、現世においてもそのまま幸せになれる方法があって、それを知ることができるとしたら、あなた方のいう『最高に合理的な生き方』ができる。私はそれを伝えに来たのだ。」
「ふーん。ほな、あんさんが今座ってるのも、合理的なのかい?」
「私は今、坐禅を組んでいるのだ。坐禅を組むと言うことは、自分の心を整え、この上なき喜びを味わうことに他ならない。今、この地の人々は、目の前に自然に見えているものだけしか知らない。だが、心の奥底では、それらだけでは満たされぬことを知っていて、自分を救ってくれるものを求めている。」
「目に見えないものがあるっていうのかい?そんなのはちっとも合理的やおへんな。」
 彼はふてくされた。どうせこいつも、神だの何だのと言い始めるのだろう。
「私は、人それぞれの中に智恵が宿っていると教えているのだ。一つしかない自分の人生、この上なき喜びを知らずに終わることのほうが、よほど非合理的だと私は思うがね。
 由径よ。今夜、眠りにつく前に、ほんの一五分ほどの時間、今私がしているような姿勢を保ち、ただ深く呼吸していることにだけ意識を集中させてごらん。数分の坐禅は、数時間の眠りに大きく勝るのだ。」
「あんさん、何でわての名前を・・・?」
「私は生きたる覚者。過去と現在のことは分かるのだよ。」
「ほな、未来は?」
「全ては常に、それぞれの生命体の行う結果によって変化していく。善きことを行えば善きことが、悪事を行えば悪きことが起きるのだ。つまり未来は、覚者でも捉えることはできない。」
「あんさんは占い師ではあらへんってことか。」
「そうだ。あなた方は占いは信じるのか?それで、百発百中当たるだろうか?自分に都合の良い占いは受け止めて、都合の悪い占いは無視してはいないか?つまり、占いは少しも合理的ではないのだ。」
「そいで、あんさんが言いはりたいのは、善きことをしろ、か?」
「その善きこととは、普遍的価値に適う六つのことを指す。即ち、布施・慎み・忍耐・精進・心の安定・及びその結果に成される正しい見識(六波羅蜜の内容)のことだ。坐禅と共にそれらを毎日欠かすこと無く実践するように私は勧める。
 そもそも、そなたは時計を組み立てている時に、何を思っている?職人として、少しでも狂いの少ない良い時計を作ろうと考えているはずだ。その時には、そなたの心に他のことはない。それを食べることや歩くことなど、生活の全てにおいて心がけるのだ。
 何かを食べるということは、他の命あった者の命をいただいて、自分に取り入れることだ。我々の命は、たくさんの命によって生かされている。自分を含めて、如何なる命も決して粗末にしてはならない。食べるときには、そのことのみに集中する。それが善きことに当たるのだ。」
 ルシャナはそれだけ言うと、坐禅三昧に入った。

 その夜、由径はルシャナが言ったことを試してみた。何十分か呼吸だけに集中させているうちに、体がふわっとしてきた。それまでに経験したことのない新しく心地よい感覚だ。彼はぐっすり眠った・・・。

 翌朝は早く目覚めたので、仕事にかかる前に広場に行った。驚いたことに、昨日話をしたあの外国人の周りには大勢の人々が集まって、ひしめき合っているではないか。由径は、知り合いの鍛冶屋を見つけて尋ねた。
「おはよう、茶奈。この人だかりは何やぁ?」
「やあ、由径。昨日、あんさんがあの外国人から聞いてはった『坐禅』とかいうのをやってみたら、なんや気持ち良うなってなぁ。もっと詳しい話を聞こう思うて。みんなそうらしい。」
 なるほどな。普段は何にも関心がないようなふりをしているが、その実みんな物見高い。昨日もそうだったという訳か・・・。彼は心が寒くなる。
 その時、彼は何かに背中から持ち上げられて人だかりの最前列まで宙を飛んだ。降ろされて背中を振り返ると、一羽の鷹が彼の襟元を離すところだった。
「た、鷹がわてを運んだ?まさかそんなことある訳が・・・?」
 だが、周りの人々は、彼が鷹に咥えられてそこに運ばれたのを見ていて、口々に彼にそのことを告げた。そして、鷹が口を利いた。
「左様。そなたは私が運んだ。ルシャナ様のご指示でな。」
「お、お前!ただの鷹なのに言葉を喋るんか?!信じられん!」
「私は鷹ではない。精霊鳥ガルーダだ。人ひとり運ぶなど造作も無い。何ならこの全員ひとまとめにして、遠い山にでも運んでやろうか。」
 一同は唖然としている。ふと、シャリーンと音がした。ルシャナが錫杖を鳴らしたのだ。空から匂いたつ無数の花びらが舞い落ち、心地よい旋律が流れる。
「由径よ。それからその他の坐禅を知った者たちよ。そなた達が味わった喜びは、この上なき喜びの、ほんの入り口に過ぎない。
 私は決して特別な人間として生まれた訳ではない。ただ、因縁によって法理を知り、それを人々に広めるために来たのである。気がついたら善きことを成している・・・そのような幸せな心になって生きていくことこそ、真に合理的な生き方なのだ。私は、生きたる覚者ルシャナ。」
 彼は改めて因果のことわり、六波羅蜜と坐禅の実践を説いた。
 心満たされた人々は、彼の元に集まって離れたくなくなった。だが、ルシャナは言った。
「人々よ。そなた達は私の話に触れた時点で、もう既に法理を知る者となっている。それぞれに宿る阿頼耶識に智恵を貯えよ。それがやがて種となり、そなた達にこの上なき幸せを咲かせるであろう。」
 ルシャナは、大きくなったガルーダに乗った。シースーも乗せて、ガルーダは飛び去った。


<星法の書・瞑想品めいそうぼん

 そして、私は以下のような考えに至る・・・。

 アルリニアでは、普通に目に入ってくるものしか意識されてこなかった。しかしながら、人はそれらのみでは救われない。意識されない根本的な生老病死の苦しみの中で、満たされぬまま、満たされていないことを知らずに生きているのだ。
 本当の幸せ、この上なき喜びは、善きことをひたすらに求め続けて止まぬ心にこそ在る。無意識界の更に下に宿る阿頼耶識、その土壌に花を咲かせる喜びの種を、それぞれに貯えよ。それは、自身が無意識的に善きことを成すようになった時に生じ、それを貫き、精進していくに従って育つ。阿頼耶識の花は、この上なく美しく、甘美な香りを齎す。そして枯れることは無い。
 それだから人々よ。善きことを成して、阿頼耶識に種を貯え、この上なき美しさを湛える花を咲かせよ。
 瞑想は、そのほんの入り口に他ならない。心を整え、常に怠ること勿れ。
 それでいて瞑想は、智恵の実践そのものである。最も早く得られる至高の体験である。貴重な目的でもある。それ故に覚者は坐禅する。坐禅三昧とは、そういうことなのだ。

 また、私はアルリニアにおいて、精霊獣シースーを供に加えた。彼女はまだ幼く、精霊たる役割を果たすための力量を満たせていない。その時が来るまで、私の傍で過ごさせるのが良いのだ。

 アルリニアにおいては、やがて私が説いた智恵が忘れ去られる日が来よう。しかしながら、少しの智恵の長者達と精霊獣シースーとによって、法理が伝えられ続けるならば、その中からも必ず光が紡がれ続けていくであろう。

二八.精霊たち

 ライランカ大陸中央の青き湖に住む守護精霊テティスは、時のアガニョク王国の女王オレーシャをテレパシーで呼び出した。宮殿は湖を取り囲むように建てられていて、王族は直ぐにテティスと会うことができる。
「レーシャ。もうすぐ一人の覚者が、仔獅子を伴い、巨大鳥に乗ってここにいらっしゃいます。丁重にご案内して下さい。」
「覚者・・・初めて聞く名称ですね。どのような方なのですか?」
「生きたる覚者ルシャナ様。得難い教えを説く方のことです。」
「わかりました。それでは私がお出迎えいたしましょう。すぐなのですか?」
「えぇ。あと十分後くらいですね。」
「大変!失礼します!また後ほど!」
 オレーシャは慌てて湖畔宮殿の中を走り抜けた。

 ルシャナたちは、極北にあるライランカ大陸に近づいた。人口は四千五百万しかない。少人数な分だけ、全体がまとまるのも早かったが、それも当時はまだ言語体系の異なる二ヶ国、アガニョク王国とクスコ王国とに分かれていた。国の状況としてはカルタナとよく似ているが、大きく異なる点が二つある。
 一つは、二つの民族は共に法力の影響を受けて藍色の髪となり、外見上は見分けがつかないものの、互いに言語体系が全く異なっていたこと。
 もう一つは、精霊信仰の厚いクスコの人々は、守護精霊が降り立った湖を有するアガニョク王国を尊重しており、言葉もアガニョク語を半ば公用語化していたことである。ただクスコの人々は、子供たちにはクスコ語由来の名を付け続けた。それは落日の王国の最後の輝きなのかもしれない。
「ライランカ大陸が一つになるのは、もはや時間の問題でしょうな。」
 ガルーダの言葉に、ルシャナは応えた。
「どういう形であれ、戦なく統一されれば幸いだ。空しき区分けたる国のために人々が命を落とすのは悪しきことである。」

 ガルーダは、ルシャナの指示で伝説の湖の傍に降り立った。目の前には、大きな宮殿が建っていて、湖に向かう彼らを遮る。
「私は生きたる覚者ルシャナ。カルタナの地より、法理を説きに来た。国王に会わせよ。」
 警護官が門前払いしようとしたその時、正面玄関から走って出てきた者がいる。警護官は慌ててその人物に近寄って庇う様子を見せた。
「女王陛下!今は怪しき者がおります!どうか中へ!」
 しかしその人物はこう言った。
「心配ない。私も先ほど守護精霊テティス様から聞いたばかりなのだが、このお方は、遠き地より尊き教えを聞かせに見えたのだ。テティス様ともお会いになる。」
 オレーシャは、国王の立場である時は男勝りの言葉遣いをする。しかし、ルシャナに向かっては丁寧語で言った。
「この地を治める国王オレーシャです。つい今しがた守護精霊テティス様から、覚者様がお越しになると伺ったばかり。急なことでおもてなしも行き届ませぬが、どうぞ中へ。テティス様がお待ちでございます。」
 ルシャナは応えた。
「オレーシャよ。私は生きたる覚者ルシャナ。因縁によって法理を知り、それを説きに来た者である。
 この巨大鳥はウユニのガルーダ。仔獅子はアルリニアのシースー。共に精霊である。」
 ガルーダはまた小さくなってルシャナの肩に乗った。

 オレーシャは、ルシャナたちを湖のテティスのところまで案内した。ルシャナは錫杖の底で軽く地面を打った。無数の香りたつ花びらが舞い、心地よい旋律が聞こえる。テティスは跪く。
「生きたる覚者ルシャナ様。私は、これまでずっとこの地を守ってきました。今もその決意は変わりません。ですが、心の奥底では悔いが矢の如く突き刺さっていて、自分では取り去ることが出来ずにいるのです。
 どうかあなた様のお力でこの苦しみから私をお救い下さい。」
 ルシャナは応えた。
「テティスよ。何人も私には跪く必要はない。そなたを救うのは私ではなく、他ならぬ法理なのだ。
 これだけは言っておく。そなたが精進し続けてきたことによって、すでに良き種が生じて芽吹いている。やがては必ずそなたの心に刺さっている強い悔いを取り除き、願いを叶える存在が現れる。その時を待て。
 テティスよ。ガルーダよ。シースーよ。オレーシャよ。私はこれより広場に行き、より多くの人々に法理を説く。宇宙の理(ことわり)や六波羅蜜、坐禅の実践のことなど全てを聴き、それらを会得できるように努めよ。」
 そして彼は広場に行って、集まってきた多くの人々を前に法理を説き、その夜を坐禅三昧で過ごした。極北の澄み切った星空の下で、法理の光がルシャナから放たれるのを人々は見た。全てを優しく柔らかく包み込む希望の光は、太陽がそれを目立たなくするまで人々を照らし続けた。

 朝になると、人々はそれぞれがいるべき場所に帰って行った。
 オレーシャが侍女たちを伴って戻って来て、ルシャナと精霊たちに花と聖水と食事を供する。
「ルシャナ様にお尋ねしたいことがございます・・・。
 実は、私はかねてからクスコ王国のシルベスタ国王から求婚されています。しかし、シルベスタは私を愛してはいません。ただクスコ民族の存続のために私との結婚を望んでいるのです。」
 ルシャナは、カルタナのエーベルハルトのことを思い出した。しかし今、私が観るに、そのシルベスタの心は澄んでいるようだ・・・。
「それならば、三日後の夕方に私を迎える食事会を開くと言って、シルベスタを招きなさい。そして私の指示通りにしてごらん。」

 三日後、シルベスタ国王は約束の時刻の一時間前に湖畔宮殿に到着した。湖畔宮殿のゲストルームの窓からは湖が見える。
「あれが守護精霊が住むという湖か・・・。守護精霊様とは、一体どのような方なのだろう?」
 そう思って眺めていると、オレーシャが湖のほうに向かって歩いていくのが見えた。
「はて・・・。これから食事会があるというに、何故湖に行かれるのだろう?」
 シルベスタは彼女のあとを追った。彼女は、そのまま湖の中に入っていく・・・。
「何をなさる?!まさか入水でもされるおつもりか!」
 シルベスタは慌てて彼女の体を掴んで引き戻そうとした。彼女はその手を振りほどこうとしながら叫んだ。
「お離し下さい!ルシャナ様から、貴方と結婚したほうが良いと言われました。でも、貴方と結婚するくらいなら、死んだほうがましです!」
 彼女はどんどん深みを目指す。もうあと少しで口元まで水が来るところだった。シルベスタは彼女を懸命に引き戻そうとしながら言った。
「愛するレーセニカ!そんなに私のことがお嫌いなのですか!」
 オレーシャは叫んだ。
「貴方が私との結婚を望むのは、我が国がクスコを滅ぼさないようにするため!そんな理由では受け入れられませんわ!」
 しかし、彼は腕の力を緩めなかった。
「レーセニカ!貴女は私をそんな風にしか見ておられなかったのですか?私が貴女にこんなにも心奪われているというのに!幼い頃から数知れず続いた外交行事の中で、私はいつしか妻は貴女しかいないと思うようになっていたのです。
 いや、私は決して貴女を諦めません!どうしても湖の底まで行くというのなら、私もこのまま貴女を離さず、共に沈みます!この命、喜んで貴女に差し上げましょう!」
 オレーシャは彼に捕まれたまま、さらに湖の深みに進んでいく。彼は死を覚悟した。・・・
 だが、何事も起こらない。さらには、オレーシャの声も聞こえるではないか!彼女は、水中でシルベスタに背中から抱きかかえられたまま、こう言った。
「国王様・・・いえ、シルベスタ。実は、この湖では人は死ぬことはありません。私は貴方が本当に私を愛しているかどうかを試したのです。貴方は、私の心を勝ち取ったのです。湖から上がって、口づけて下さい。」
 呆然としているシルベスタを、今度はオレーシャが岸辺へと引っ張った。

「実は、今度のことはルシャナ様の案なのです。私は貴方を疑っていました。ルシャナ様は、貴方の愛が本当に私への愛かどうかを、私に確かめさせたのです。」
 シルベスタは、やっと冷静さを取り戻した。
「そうでしたか。・・・ならば、改めて貴女に求めよう。私と結婚して下さい、レーセニカ!レーシャ!」
 彼はオレーシャを抱きしめて口づけた。

 ルシャナは、それを見届けて静かに旅立った。テティスだけがそれに気づいて見送った。
「どちらへ行かれますか?」
「カルタナに戻る。また会おう。」

 彼らが離れて五ヶ月後、オレーシャとシルベスタは結婚して国をひとつにした。こうして、ライランカは異なる二つの言語体系を内包する独自の文化を育むことになったのである。


<星法の書・宝華品ほうげぼん

 そして私は以下のような考えに至る・・・。

 ライランカで私が坐禅三昧を終えて立ち上がった時、シースーが尋ねた。
「ルシャナ様。おおよその生命体は何事もなく死を迎えます。なのに、私たち精霊は、何故殊更に手続きを必要とするのですか?さらに、同じ精霊でも、ガルーダ殿や私は肉体を持って他のものに触れて動かすことが出来るのに、テティス殿は幻影の如きです。精霊に何の違いがありましょうや?」
 私はその価値ある問いに答えた。
「そなたは、なぜ精霊たちに限って『魂帰しの儀式』が必要なのか、またテティスとそなた達とは何が異なるのかと問うているのだね。
 精霊とは、それぞれにとても強く思いを残して蘇った魂なのだ。寿命も三千年と長くなり、思いもますます強くなってしまう。故に、その思いを解くにはそれ相応の法力を注いでやらねばならなくなるのだ。
 特にテティスは精霊となって二千年の時を過ごしているが、心はまだ過去の強い思慕に覆われているために実体を保つ力をがれ、さらに法力溢れる湖から離れては魂を存続させることができない。心の働きは優れていても、精霊としては不安定な存在なのだ。始めから精霊獣として生まれたそなた達とはその点が異なる。・・・千里眼と千里耳を持つテティスよ。今の話を聞いていたであろう。よく気をつけておくのだ。」
 その時テティスが湖で跪いて涙していたのが私には分かった。

「それでは、私たちは皆生まれてから三千年後に帰されると?」
「その通りだ。・・・シースーよ。ガルーダよ。そなた達も同様に無限ではない。期限があると分かれば、そこまでは全力で走れるであろう。その時まで力を惜しむな。心を尽くし、また安んじながら懸命に生きよ。それが菩薩の生き方である。」
 ガルーダは涙を見せた。泣いたのは、生まれて初めてだった。
「ルシャナ様。鷹匠大会の時に教えていただいたことを、私は思い返しています。これより二千八百年のあいだ、私は常に全力を持って他の者の為に働き、菩薩の道を歩みましょう。」

 死は、生命体における区切りである。ゴールがわかっているならば、そこまではと思って全力で走ることが出来る。それが『生きる』ということなのだ。
 やがて時が来て、命が尽きると、また輪廻の輪の中に組み込まれて別の何者かとして生まれる。それこそが、宇宙のことわりの一つ『循環』である。全ての命は、その循環の中にいて、めぐり逢い、散っていく。今そこにある人や物は、全く同じ状態で集まることは二度とないのだ。

 それだから、人々よ。生きている間は懸命に諸々を慈しみ、思い切り走り抜け。この上なき喜び、宝たる法華は、その中にこそ在る。

二九.寂滅為楽じゃくめついらく

 ルシャナが自身の館に戻ると、クラリスと使用人たちはたいそう喜んで宴を開いた。旅立ってから半年が過ぎていた。
「クラリス。私はしばらくここで書を記述しようと思っている。そなた達には、寂しい思いをさせたと思うが、次の旅立ちまでは一緒に暮らしてやれる。皆もご苦労であった。」
 ルシャナは宴の席で妻と使用人たちを労った。ガルーダにも声をかける。
「ガルーダよ。そなたもよく私の旅に付き合ってくれた。そろそろウユニが恋しくなっている頃であろう。これからはもうそなたを何ヶ月も煩わせることはない。時々は遊びに来い。」
 ガルーダは即座に言った。
「ルシャナ様。貴方様のお側で見聞きした尊き教えは、私にとっても大きな宝となりました。また近いうちにお目にかかりとうございます。シースー殿。ルシャナ様やゆかりの方々のこと、どうかよろしくお頼み申す。」
 ガルーダはそう言い残して、翌朝帰って行った。
 シースーは、最初は周りの者たちからたいそう珍しがられた。カルタナには、獅子は生息しておらず、人々には彼女が犬のようにも、猫のようにも見える、未知の動物だったのである。しかし、彼女が人間の言葉を話す精霊獣だということはわかったので、それなりに尊重してくれた。それが、ガルーダや、今は無き瑠衣のお陰だということはシースーにも分かっていた。彼女は、ルシャナの娘のルイーザや近所に住む子供たちとよく遊んだ。

 ルシャナは、館の前の桜の木の隣に楓の木を植えた。クラリスが尋ねると、彼は答えた。
「私の墓標だ。」
「ルシャナ?もうすぐ死んでしまうと言うのですか?!そんな!」
 クラリスは彼の胸に飛び込む。ルシャナは、妻を優しく包み込んで柔らかな髪を撫でた。
「いや。今すぐということではない。私は、何十年も先の準備をしている。この木が立派に育つ頃、私はいなくなる。人は誰もが尽きるのだ。」
「それなら、私も同じところに。私はずっと貴方のお側にいとうございます・・・。」
「クラリス、物質としての肉体だけが私たち全部ではない。全ての命は根本的な阿頼耶識というところで繋がり合っていると教えたではないか。そなたと私もまた然り。私の魂は滅することはないが、そなたも法理を知って既に菩薩道を歩んでいる。そなたもいずれは解脱げだつして覚者となるのだ。」
 ルシャナは、静かにクラリスを見つめている。クラリスは涙が止まらなくなった。
「ルシャナ、私はきっと貴方のお側に行きます。・・・きっと・・・だから、それまで待っていて・・・。」

 それから彼はまた以前のように、午前中は畑仕事をし、午後からは坐禅を組み、夕食後から執筆という暮らしを送りながら、『星法の書』に最終章を加えて、その書物全体を完全に仕上げた。
 巡った土地以外の地方からの法話依頼が来るようになったのは、ちょうどその頃だ。ナターリア女王は彼のために立派な船を仕立ててくれ、彼はそれに乗ってあちこちを巡る生活を送った。一年のうち、半分を館で、残りを法話のための旅に費やして、ルシャナは八五歳で倒れた。
 その葬儀には、年老いたクラリスと娘ルイーザ、娘婿エックハルト、孫のカールハインツとヨルク、精霊獣シースー、使用人たち、各国の国王たちが参列し、亡骸は遺言によって館の前の楓の木の根元に葬られた。


<星法の書・寂滅品じゃくめつぼん

 そして、私は以下のような考えに至る・・・。

 私は遂に惑星上の全ての地域に法理を説くことを終えた。私に法理を授けて下さった星の精ルシア様と、私の旅を助けてくれたガルーダ、今は亡き瑠衣、そして私の弟子となってくれた多くの人々と精霊たちに、私は心から感謝する。

 これからのことだが、私はしばらくは生きて以前とほぼ変わらぬ暮らしを送るだろう。
 やがて寿命を終えると、私は法力に導かれてウユニに落ち着くことになると、星の精ルシア様から伺っている。私は滅しない。滅しないので、生じることも無い。私は永遠に坐して智恵と法理を説き、生ける苦しみから人々を救い続けるのだ。

 私の肉体は、かつてひとりの老人を葬った桜の木の隣の、楓の木の根元に横たえさせよ。それをまた他の生き物が糧とするであろう。それが宇宙のことわりなのだ。
 妻クラリスは、私と離れたくないと言ったが、生きとし生けるもの全ては、命の最も深い場所で互いに繋がり合っている。
 だから人々よ。己が一人であるとか、命は自分一人だけのものであるなどと思う勿れ。命ある者たちを含む万物は互いに支え合って初めて成り立っているからである。
 他の命を粗末に扱うこと勿れ。己が命もまたそれと同等だからである。
 そのことも分からずに、自分一人の勝手な思い込みから、他の物事を判断してはならない。
 また、自分勝手な理由で善悪を決めつけてはならない。物事の判断は、あくまでも宇宙のことわりの見地からされるものである。
 真の智恵の長者は、法理に従って全てを観て判断し、行動する。それ以外の理由で善悪を定める者は、腐った種しか蒔くことが出来ない。

 命ある者は皆いつかは滅びる。滅びて輪廻の歯車に組み込まれ、また別の何者かに生まれ変わる。その時に、少しでも善き方向へ向かうように、質の良い種を阿頼耶識あらやしきというところに蒔いて育てておくのだ。阿頼耶識とは、無意識のさらに下にある。その中において善きことのみを行う者たちを、覚者あるいは菩薩という。
 智恵と法理を知る縁に恵まれて、少しでも多くの人々を救おうと願ううちに、いつの間にか善きことを成していた、そのような心で生きていく者たち、即ち覚者あるいは菩薩たちこそが、この上なき喜びの種を得て、芳しき花に満ちた野原に坐するのである。

 命に終わりがあると知って、それを常に意識していくならば、そこまで全力で走ることもさほど苦ではあるまい。さらに智恵と法理を知り、それに従って精進しているならば、その分だいぶ楽に思える筈だ。
 それでももし自分一人ではもう無理だと思うような時には、己が阿頼耶識で繋がり合っている覚者あるいは菩薩たちに問いかけて助けを求めよ。六波羅蜜の中には『慈悲』も含まれている。覚者あるいは菩薩たちにとっても、それは修行を積むことになるのだ。彼らは、常に人々と共にある。

 人々よ。生きている間は弛まぬ心で善きことを少しでも多く成して、穏やかで心地よく安らぎに楽しみながら時を過ごせ。
 それが阿頼耶識の土壌に種が撒かれる因縁となる。そこに枯れること無き智恵の花が開き、その美しさと香しい香りを得ることができるだろう。そして、その者は新たな覚者あるいは菩薩となる。願わくは、一人でも多くの人々が智恵と法理に目覚め、生ける苦しみから救われるよう。
 そのために私は生き方の方策として、六波羅蜜と坐禅の実践を説いたのである。

 生きる者たちよ。生かされている者たちよ。全ての生きとし生けるものたちよ。この上なき喜びを知り、手を取り合って共に歩もう。
 覚りよ、幸あれ。

三十.くうの部屋

 葬儀が終わっても、家族と精霊獣シースーだけは残って、なおもルシャナの傍を離れようとしなかった。長い夜が過ぎて、そろそろ日が上り始めようかという頃に、ルシャナの亡骸から透明がかった彼自身が光を伴って抜け出てくるのを目の当たりにして、家人たちはたいそう驚いた。香りたつ花びらが舞い、美しい旋律が流れる。
「ルシャナ!」「お父様・・・!」
 彼は微笑んだ。藍色の髪に黒衣。覚変化した当時の姿だ。
「馴染みの者たちよ。 私は古き肉体から出て、法身となった。いよいよ別れの刻限だ。だが、そなた達が智恵を実践する菩薩道を歩む限り、私はずっとそなた達と共にある。くれぐれも菩薩の道から離れるでないぞ。
 そして、シースーよ。錫杖をしばらく預かってはくれまいか。」
 シースーは瞬く間に成獣となって、ルシャナの傍らに立てかけてあった錫杖に近づいた。錫杖は、丸い光の塊になって精霊獣の体に吸い込まれる。
「ルシャナ様。貴方様の錫杖、このシースーが確かにお預かり致しました。
 ルイーザ様、皆様、お世話になりました。どうやら私も守るべき場所に帰る時が来たようです。お名残惜しいですが、さようなら・・・。」
 シースーは、そのまま姿を消した。
「シースー・・・。」
 ルイーザが精霊獣との別れを惜しむ。物心ついた時から、ずっと一緒にいてくれたシースー・・・お父様と同時に去ってしまうの?でも、そうよね。貴女は異国の精霊獣。本来の国にいるべきなのだわ。今まで本当にどうもありがとう・・・。

 ルシャナの幻影は、家人たちに別れを告げるようにその場を回って消えた。
「ルシャナ・・・。」「お父様・・・。」
 クラリスとルイーザが膝をついた。泣き崩れる二人を、孫たちとその父親がそれぞれに支えた。

 ウユニ大陸の、海からほど近い場所に、大きな城が建っている。ルシャナは壁をすり抜けて中央部へ入った。何もない空間がある。彼は坐した。
「久しぶりだね、ルシャナ。私と同化する時が来た。覚悟は良いな。」
 星の精ルシアの声が響く。
「私は生じることも滅することも変わることも無い。変わらず多くの人々を救い続ける。」
 光の塊がルシャナを包み込んで静まった。
 こうして、ウユニにおいて完全なる覚者が顕現したのである。

 ウユニ皇帝イナヴァシは、その気配を感じて、さっそく挨拶に来た。肩にはガルーダを乗せている。ガルーダはルシャナの到着後すぐに火山の火口から城に来て、皇帝にルシャナとの面会を頼み込んだのである。
 イナヴァシはトヴァダの子で、すでに幼い時からルシャナの弟子となっていた。歳は三十代半ばというところか。頭と背中にたてがみを持ち、顔には細い髭、両手両足が魚の鱗に覆われている。竜の特徴を僅かに湛える風貌だ。
「覚者ルシャナ様。私の代で貴方様をこの地にお迎え出来ること、身に余る光栄にございます。どうかこれからはこの地を我が家と思し召して下さいますように。」
 ルシャナは微笑んだ。
「ありがとう。私はもはや何も食さない。完全なる覚者である。
 これより私は、この『くうの部屋』にて坐し、智恵を実践していこう。そして多くの人々を救おう。
 この部屋の地点こそがこの星の真の極点、法力の源二つのうちの一つである。よって、今後ウユニを治める皇帝は、『星の守護者』と呼ばれる。」
「星の守護者・・・。」
 イナヴァシは小さな声で繰り返した。ルシャナは言葉を続ける。
「私は星の精ルシアでもある。そなたと、そなたの後を継ぐ者たちに、私はあらゆる過去を知る力を与える。」
 ルシャナの眉間から放たれた光が、凜々しき皇帝の体を包み込んだ。
「ルシャナ様。どういうことなのですか?確かにウユニの者たちには特殊な力が備わります。しかしながら、あらゆる過去を知るとは一体・・・?」
「歴史は積み重ねられて知識となる。これよりウユニ皇帝となる者は代々その知識を学び尽くせ。何かの不都合が生じたときに、過去を参考にして人々を諭し、善き方向へ導くのだ。そのための力と心得よ。
 そして、何についても一つでも学び尽くすということは、人を成長せしめる。学び尽くした者は、他の何事にも秀でるのだ。
 そなたへ最初の助言を呈する。子供たち、及び若者たちに、あまねく学びの場を与えよ。それによって、人々の目はより明らかに開かれよう。」
 今度はイナヴァシにも、ルシャナの意図が分かった。
「かしこまりました。私も菩薩の道を歩み続けましょう。さっそく学びの場を全土に設けます。」
 その会話の一部始終は、ルシャナの法力によって、ウユニ全国民の耳に響いていた。
「我々の元に、覚者ルシャナ様が!」
「我らが皇帝陛下が、星の守護者・・・!」
「完全なる覚者ルシャナ様が、我らをお導き下さるのか!」
「ウユニ万歳!素晴らしき国ウユニ万歳!世界万歳!!」
 人々は歓喜した。

 ガルーダが口を開いた。
「人々が歓喜する声が聞こえます。ルシャナ様、私には未だ弟子入りした記憶がございません。どうか私もお弟子としていただきとう存じます。」
 ルシャナは微笑みながら応えた。
「ガルーダよ。案ずることはない。そなたは既に菩薩道にある。マクタバの鷹匠大会の折に、そなたは私の弟子となっていたのである。」
「ルシャナ様。そのお言葉をずっと待っておりました・・・。貴方様御自らから私をお弟子と明言していただける日を・・・。これから暫しの間は本当に身近に、貴方様のお側にいとうございます・・・。」
 ガルーダは、それから三日後の夕刻まで『空の部屋』にいて、その後巣に帰ると安心してぐっすり眠った。

 イナヴァシは、その日のうちに学問所の設置に着手した。覚者の指示は、国民全員に行き渡っており、人々は学びの喜びに触れた。
 ひと月後、ウユニを訪れたオルニアの使節団は、事の顛末を国王・小田切可齊なりあきに報告した。可齊もまた、ルシャナの意向を重く受け止め、各地に学問所を設置した。読み書きや教養、生活の知恵や行儀作法が浸透して、国がよく治まるようになった。その政策はカルタナ、マクタバ、カレナルド、アルリニア、ライランカにも伝わり、浸透していった。・・・

 やがて、全ての国において、人々は自由で秩序ある統一された世界を夢に描くようになった。
 そして、『惑星市民機関』が創設されたのである。

 国王を除く特権階級は初め抵抗していたが、ルシャナの意向、特に万人は全て平等であるとの教えが全く正しいことは明らかであった。それぞれが『貴族』から『正当な給与を支払って使用人たちを養う雇用主』や、『皇帝近くに仕える官僚』などへと変わることで、彼らは満足せざるを得なかった。しかし、それも政府高官ともなると世襲は許されず、採用試験と市民議会の承認を必要とした。一般市民からも才能次第で高官になることができ、高官の家族であっても政治面で無能ならば他の職業人になるのが当たり前とされた。
 『軍属』や『騎士』たちは、警備と治安を専門とする警察機関へと変えられた。ただ、ウユニの騎士だけは、全ての私有を放棄し、国のためにのみ奉仕し続けることを条件に名誉が保たれたが。

 こうして、惑星ルシアは、市民達から認められる才能ある皇帝と市民達のみが存在する、恒久平和社会の実現を成し遂げたのである。

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